最終回 ありがとう
十二月に入ると、朝の空気ははっきりと冬のものになった。
吐く息が白くなり始め、通学路の木々はとうに葉を落とし、枝だけになった影を地面へ伸ばしている。朝、制服の上にコートを羽織るのが当たり前になって、ポケットへ手を入れて歩く生徒も増えた。
俺はその朝も、いつものように太刀川家の前に立っていた。
玄関が開き、アリスが出てくる。
白い息をふわりと吐きながら、小さく手を上げた。
「おはよ」
「おはよう」
前はこのやり取りを、何の気なしにしていた。
今は少しだけ違う。
何でもない一言の重みを、俺たちは前よりちゃんと知っている。
アリスは門を閉めて、俺の隣に並んだ。
マフラーの端が少しだけずれていたので、何となく気になって指で直す。
「……何」
「曲がってた」
「自分で直せるよ」
「遅かっただろ」
「今ちょうど直そうと思ってた」
「嘘つけ」
そう言うと、アリスが少しだけ笑う。
その笑い方はもう、事件の直後みたいに硬くない。前よりずっと自然で、それでいて前より少しだけ深い。
傷は消えていない。
俺の横っ腹にはまだ鈍い違和感が残っているし、アリスの中にだって廃工場の記憶は消えていないだろう。
けれど、消えないものを抱えたままでも、人は朝になれば学校へ行ける。
それを、最近ようやく身体が覚え始めていた。
「ねえ、隆太郎」
「ん?」
「今日の放課後、ちゃんと覚えてる?」
アリスが少しだけ弾んだ声で聞いてくる。
「本屋だろ」
「正解」
「忘れるわけないだろ。アイラとの約束なんだから」
そう言うと、アリスは満足そうに頷いた。
天音アイラとは、あの病院の日以来、少しずつまた距離が縮まり始めていた。
最初は短いメッセージだけだった。
天気の話、本の話、学校が寒いだとか、病院食はどうだったかとか。そういうどうでもいいようで大事な話を、少しずつ、少しずつ積み直していった。
そして今日は、ようやく三人で本屋へ行く約束をしている。
大きなことじゃない。
でも、俺たちにとっては、ずいぶん大きな“普通”だった。
学校へ向かう道の途中、アリスが急に少しだけ真面目な顔になる。
「……最近、思うんだけど」
「何を」
「幸せって、たぶんすごく地味だね」
その言葉に、俺は少しだけ目を上げた。
冬の朝の空は高くて白い。
その下で言うには、妙にしっくりくる言葉だった。
「地味って」
「だって、こうして一緒に学校行くのとか、放課後に本屋行く約束してるのとか、家帰ってご飯食べるのとか、そういうの全部、昔は当たり前だと思ってた」
アリスは歩きながら、自分の息が白くほどけるのを見ていた。
「でも今は、そういうのがあるだけで、ちゃんと嬉しい」
俺は少し考えてから言う。
「地味だから、毎日続くんじゃないか」
アリスがこっちを見る。
「……それ、ちょっと好き」
「何だよそれ」
「隆太郎のそういう、変に飾ってないのにたまに刺さること言うやつ」
「そんな自覚ない」
「ないのがずるい」
そう言って笑う。
その横顔を見て、俺も少しだけ口元を緩めた。
※ ※ ※
放課後、本屋の前で待っていたアイラは、前より少しだけ“待っている人”らしく見えた。
前はこういう時、見つからないように隠れたがるのか、逆に目立たない場所へ行きすぎてこちらが探すことになるかのどちらかだった。今日は違う。入口の脇に立って、手袋をした指で鞄の持ち手を握りながら、それでもちゃんとこちらを見ていた。
「こんにちは」
アイラが小さく頭を下げる。
「こんにちは」
俺とアリスが同時に返すと、アイラは少しだけ困ったように笑った。
その笑い方にも、前より人間っぽい温度が増えている。
「寒かったろ」
俺が言うと、アイラはこくりと頷いた。
「……でも、今日はちゃんと早めに来ました」
「偉い!」
アリスがすぐに褒める。
アイラは少しだけ照れて、目を伏せた。
三人で本屋へ入る。
暖房の効いた店内に、紙とインクの匂いが混ざっている。文庫の棚、新刊台、雑誌コーナー。そこにあるもの全部が、事件とは無関係な顔をして並んでいる。その無関係さが、妙にありがたかった。
アリスは相変わらず動きが軽い。
気になった本をすぐ手に取り、ぱらぱらとめくっては「これ面白そう」と俺たちへ見せてくる。アイラはその少し後ろをついていくような形だが、前ほどただ圧倒されているだけではなかった。
「アイラさんは、今日は何見たいの?」
アリスが聞くと、アイラは少しだけ迷ってから、小さく答える。
「……冬っぽい話」
「冬っぽい話?」
「雪とか、静かな感じの」
その答えがあまりにもアイラらしくて、アリスがすぐに嬉しそうな顔になる。
「分かる! じゃあ、あっち見よう!」
引っ張るのではなく、ちゃんと隣へ寄っていく。
アリスのそういうところが、やっぱりすごいと思う。
俺は少し離れた位置から二人を見る。
アリスは明るい。
アイラは静かだ。
けれど、並ぶと不思議と馴染む。
似ているのに違う。違うのに、どこか重なる。そういう二人だった。
しばらくして、アイラが一冊の文庫を手に取った。
表紙には雪の積もる夜道が描かれている。
「……これ、好きかも」
その言葉を、自分からちゃんと口に出したことに、アイラ自身も少し驚いた顔をした。
アリスはすぐに目を輝かせる。
「じゃあ買おう!」
「いや、まだ……」
「まだって何」
「読むかどうか、もうちょっと見てから……」
「慎重」
「……そういう性格だから」
照れたように言うアイラに、俺は少しだけ笑った。
「でも、前よりちゃんと言うようになったな」
そう言うと、アイラの目が少しだけこっちへ向く。
「……何を?」
「自分の好きとか、そういうの」
アイラは一瞬だけ言葉に詰まった。
それから、少しだけ考えて、ゆっくり言う。
「……たぶん」
その後で、ほんの少しだけ笑う。
「白金さんが、聞いてくれるから」
アリスはその言葉に、ぱっと嬉しそうな顔になった。
「じゃあもっと聞く!」
「……ほどほどに」
「えー」
そのやり取りが、本当にただの友達同士の会話みたいで、胸の奥が静かに温かくなる。
本屋を出た後、駅前のカフェで少しだけ休んだ。
アイラは温かいミルクティー。アリスは甘いラテ。俺は普通のコーヒー。前なら、アイラはきっと「何でもいいです」と言っていたと思う。今日は自分で選んだ。
大きな変化じゃない。
でも、こういう小さな変化こそが、その人の“その後”なんだろう。
テーブル越しにアリスが身を乗り出す。
「冬休み、またどこか行きたいね」
「どこ」
俺が聞くと、アリスは少し考えてから言った。
「遠くじゃなくていいの。普通に、三人で歩けるとこ」
「普通、好きだな」
「好きだよ」
迷いのない即答だった。
「今の私は、それがいちばん好き」
アイラもその言葉を黙って聞いて、それから小さく頷く。
「……私も、そうかも」
そうして三人で、次の約束をする。
それがどれだけ大事なことなのか、たぶん俺たちはもう知っていた。
※ ※ ※
数日後の夕方、コンビニの前で、佐野雪芽とばったり会った。
甘い物ではなく、今日はカップに入った温かいココアを片手に持っている。
相変わらず気だるそうなのに、妙にその光景が似合っているのが腹立たしい。
「病人卒業した?」
俺を見るなり、佐野が言う。
「たぶん」
「たぶんって言うあたり、まだ怪しいね」
「佐野さんにだけは言われたくない」
俺が返すと、佐野は小さく肩をすくめた。
「私はもう完全復活」
「嘘だろ」
「七割くらい」
「だいぶ嘘じゃねえか」
隣でアリスがくすっと笑う。
「佐野さん、最近どうなんですか」
「どうって?」
「ちゃんと寝てます?」
「嫌な質問するね」
その返しの時点で、答えはほぼ出ていた。
佐野はココアを一口飲んでから、少しだけ真面目な顔になる。
「四宮の件は、だいぶ片づいた」
淡い声だった。
「神木がほぼ全部持ってった。自首犯の供述も崩れたし、部屋から出た写真と記録で他の事件もかなり繋がった。……朝日の件も、ようやく“事故じゃなかった”って形で完全に整理された」
アリスの表情が、少しだけ静かになる。
嬉しいとも悲しいとも違う。ようやく、という感情に近い顔だった。
「そっか」
小さく、でもはっきりと答える。
佐野はその顔を見てから、ほんの少しだけ目を細めた。
「だから、私も少しは別の仕事する」
「少しは、って何」
「探偵は探偵だから」
そう言って、またココアを飲む。
あの人はきっと、これからもああやって歩いていくんだろう。仕事の時は真面目で、オフになると妙に甘いものへ向かって、でも、誰かの真実に辿り着くことをやめない。
「ありがとう」
不意にアリスが言った。
佐野が少しだけ目を上げる。
「今さら?」
「今さらだけど」
アリスはまっすぐ言う。
「私、佐野さんにひどいこと思ったし、ひどいこと言ったし、ほんとは今でも少しだけ苦手だけど」
「最後の一文いらない」
「でも、追ってくれてよかった」
その言葉を、佐野はすぐには返さなかった。
少しだけ間を置いてから、いつもの調子で言う。
「まあ、私も性格悪いからね」
それが照れ隠しだと分かるくらいには、俺たちもあの人に慣れていた。
別れ際、佐野が俺にだけ聞こえるくらいの声で言った。
「宮本くん」
「ん?」
「次は、死にかける前に相談して」
「そんな予定ねえよ」
「ある人の返しじゃないね、それ」
そう言って、佐野は小さく笑った。
その背中を見送りながら、俺は少しだけ肩の力を抜いた。
※ ※ ※
さらに少し経って、神木新田とも一度だけ顔を合わせた。
場所は警察署ではなく、駅前の歩道橋の下だった。
偶然ではない。神木がわざわざ近くを通るついでに顔を出したんだろう。
「どうですか」
相変わらず前置きがない。
「普通です」
俺が答えると、神木はわずかに頷いた。
「それが一番です」
神木はいつものように、必要なことだけを言う。
「四宮ハジメの件は、もう大きく動きません。残るのは事務処理と、過去分の整理です」
「……終わったんですね」
俺が言うと、神木は少しだけ空を見た。
「ええ。少なくとも、あなたたちを脅かす形では」
その言葉は重かった。
けれど、今はちゃんと受け取れる。
「あなたと白金さんが生きていることが、結果としていちばん大きい」
それだけ言って、神木は最後に短く付け加えた。
「もう少しだけ、普通に戻る練習をしてください」
「練習ですか」
「そうです」
神木の目は相変わらず真っ直ぐだった。
「人は大きな事件のあと、急に元通りにはなれない。でも、練習はできる」
それは、いかにも神木らしい言い方だった。
希望を甘く言わない代わりに、現実の中でできることだけをちゃんと渡してくる。
「……分かりました」
俺がそう答えると、神木は小さく頷き、そのまま雑踏の中へ消えていった。
※ ※ ※
その夜、俺とアリスは少し遠回りをして帰った。
危険だからではない。
もうそういう理由じゃない。
ただ、少しだけ歩きたかったからだ。
冬の手前の夜は冷たい。
でも、隣に誰かがいるとその冷たさもどこかちょうどいい。
「ねえ」
アリスが、夜空を見上げながら言う。
「エンマちゃん、最近見ないね」
「たしかに」
あの神様は、必要な時だけ現れて、必要じゃなくなると風みたいに消える。
だから今見ないのは、たぶん悪いことじゃないんだろう。
「元気にしてるかな」
「神様に元気とかあるのか」
「あるでしょ、たぶん」
アリスはそう言って、少しだけ笑った。
「もし今、どこかで見てたらさ」
「ん?」
「私たち、ちゃんと生きてるよって思ってくれるかな」
その言葉に、俺は少しだけ足を止めた。
街灯の光が、冬の近い空気の中で白く滲んでいる。
その下で見るアリスの横顔は、前より少しだけ大人びて見えた。
「思うんじゃないか」
俺は答える。
「少なくとも、肉まん食いながら」
「それはやだ」
アリスが吹き出す。
俺も少しだけ笑った。
その時だった。
夜空の向こう、高いビルの屋上みたいな場所に、ほんの一瞬だけ銀色が揺れた気がした。
月光を細く引いたような、淡い光。
見上げた瞬間には、もうそこには何もない。
でも、冷えた空気の中にだけ、どこか神秘的な静けさがふっと落ちた気がした。
アリスも同じものを感じたのか、少しだけ目を細める。
「……今」
「見た?」
「見た、かも」
そこで風が吹いた。
冷たいのに、どこか優しい風だった。
俺たちは少しだけ黙って、その風を受けた。
たぶん、祝福というものがあるなら、ああいう感じなのかもしれない。
※ ※ ※
夜。
自宅の机に向かいながら、俺はふと窓の外を見た。
暗い空。
遠くの街明かり。
当たり前の夜。
事件が始まる前には、こんな夜を何とも思っていなかった。
今は違う。
静かな夜が静かなままで終わることの重みを、ちゃんと知っている。
スマホが震える。
アリスからだった。
『今日は楽しかった』
短い一文。
でも、それだけで十分だった。
俺は少しだけ考えて返す。
『俺も』
『また明日』
すぐに既読がつく。
返ってきたのは、笑っている顔と、小さなハートのついたスタンプ。
それを見て、俺は小さく息を吐いた。
終わったんだと思う。
ようやく、本当に。
四宮ハジメとの戦いも。
朝日の死に纏わる長い悪夢も。
全部が消えるわけじゃないけれど、終わりとして受け取れるところまで来た。
そして、終わりの向こうには、ちゃんと続きがある。
明日の朝、またアリスを迎えに行く。
学校へ行く。
授業を受ける。
たぶん、放課後には何かくだらない話をする。
そういう地味な幸せを、また一つずつ積み上げていく。
それでいい。
いや、たぶんそれがいい。
窓の外では、冬の入口の空気が静かに夜を深くしていた。
俺は机の上のノートを閉じる。
明日の準備は終わった。
そして、日常はこれからも続いていく。
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