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一つの事実

 商店街の空気は、さっきまでと同じはずなのに、俺の目には少し違って見えた。


 人の流れ。店先の看板。夕方の光。全部がいつも通りだ。なのに、胸の奥だけがひどく冷たい。路地で聞いた言葉が、頭の中に居座って離れない。


 ――私が、太刀川朝日を白金アリスに転生させた。

 ――転生体にはコピー元がある。

 ――天音アイラ。


 意味が分からない。分からないのに、分かった気になってしまうのが怖い。人は、強い言葉を投げられると勝手に筋道を作ってしまう。今の俺は、その筋道を作りたくないのに、頭が勝手に作ろうとしている。


 視線を前に戻すと、アリスとアイラはまだ話していた。


 アリスは表情が柔らかい。あの子は距離を詰めるのが上手い。押し込まない、逃がさない、でも置き去りにしない。アイラは相変わらずおどおどしているのに、さっきより肩の力が抜けていた。言葉が少しずつ増えている。


 俺は気づかれないように距離を保ったまま、二人の様子を見守った。今ここで割って入るのは違う。アリスが自分で踏み出した時間を、俺が壊すのはもっと違う。


「……白金さん、あの……」


 アイラが小さく言う。


「うん?」


「……その、髪……きれい……」


 それを言うのに、アイラは全力だった。アリスは目を丸くして、それから笑った。


「ありがとう。髪、褒められるの好き」


 素直に受け取る。アイラが安心したみたいに小さく息を吐いた。褒めたのに怖がられると、言う側が萎縮する。アリスはそこを分かっている。


「アイラさんは、髪サラサラ。触りたくなる」


「え……」


 アイラの顔が一気に赤くなる。逃げるかと思ったが、逃げない。代わりに固まった。固まって、数秒後にかすかに首を振った。


「……だ、だめ……」


「だめかぁ」


 アリスが残念そうに言いながら、すぐに笑って引いた。引くのが早い。引くから、アイラは逃げなくて済む。


 そのテンポの良さで、二人の距離が少しだけ縮まっていくのが見えた。


「……白金さんって、なんか……」


 アイラが言いかけて止まる。言葉が追いつかない。


「なんか?」


 アリスが首を傾げる。


「……まぶしい……」


 アイラがようやく絞り出した。まぶしい。羨ましいじゃなく、怖いじゃなく、まぶしい。自分にはないものを、眩しさとして見ている言い方だ。


 アリスは少しだけ黙ってから、ゆっくり言った。


「私も、最初からこうだったわけじゃないよ」


 軽いトーンではない。でも重くしすぎてもいない。アイラが受け止められる温度に合わせている。


「……頑張ってるだけ。怖い時もあるし、逃げたい時もある。でも、逃げたくない時もある」


 アイラが小さく頷いた。


「……わたし、逃げたい方が多い……」


「それでも今日、立ち止まらなかった。だから偉い」


 アリスが言い切ると、アイラがまた赤くなる。褒められると耐えられない顔。でも、嫌そうじゃない。どこかで、嬉しさが混ざっている。


 アリスはスマホを取り出して、画面を見せた。


「これ、文化祭の写真」


「文化祭……」


「うん。カフェやったの。秋の」


「……秋……」


「秋、好き。栗も好き」


 また栗だ。アイラが小さく笑いかけて、慌てて口元を押さえた。笑ったことが自分で恥ずかしいのかもしれない。でも笑えた。アリスの勝ちだ。


 アイラが少し迷ってから、ぽつりと言った。


「……わたしも、栗……好き……」


「ほんと? じゃあ仲良しだ」


 アリスが即決した。決めるのが早い。アイラが困った顔をしながらも、否定できない。


「……なか、よし……」


「うん。仲良し」


 アリスは笑った。アイラも、ほんの少しだけ口元が緩んだ。


 そして、しばらく話したあと、アイラが小さな声で自己紹介みたいに言った。


「……わたし、ハーフで……」


「ハーフ?」


 アリスが目を丸くする。アイラは俯いたまま、小さく頷いた。


「……お母さんが、日本で……お父さんが、アメリカ……」


 アリスの表情が一瞬だけ止まった。


 アリスは今、“留学生”という表向きの設定を背負っている。アメリカという単語が出るだけで、頭のどこかが反応するはずだ。けれどアリスは、動揺を顔に出さなかった。ただ、少しだけ視線を柔らかくして言った。


「そうなんだ。……素敵だね」


 アイラが驚いた顔をする。素敵、と言われるとは思っていなかったんだろう。


「……すてき……?」


「うん。だって、二つの場所の血があるってことだもん。大変なこともあるだろうけど」


 アイラが小さく頷いた。大変。そこには彼女の現実がある。アリスはそれを見逃さない。


 俺は、その場に割って入らずに距離を取ったまま、別の道を選んだ。


 ――もう一度、あの銀髪の少女に会う必要がある。


 さっきは情報を投げられただけだった。確認しなければならない。確認しないと、俺の中で勝手に形ができてしまう。その形が間違っていたら、取り返しがつかない。


 俺は商店街の端へ向かい、さっきの路地へ戻った。


 路地は静かだった。風の通り方が違う。生活の音が薄い。壁際には、さっき座っていたはずの影がない。


「……エンマ!」


 俺が声を出すと、すぐ背後から声が落ちた。


「呼んだ?」


 振り返ると、エンマがいた。さっきと同じ銀髪。同じ小さな体。なのに、現れ方が自然じゃない。歩いてきた気配がない。そこにいるだけで、現実の枠が歪む。


「……お前、本当に」


 俺が言葉に詰まると、エンマは首を傾げた。


「信じない顔」


「当たり前だろ」


「じゃあ、少しだけ“信じる材料”をあげる」


 エンマは、路地の壁にもたれながら言った。


「私は輪廻転生を司る。そういう仕事をしてる。……人間界の言葉で言うと、神様ってやつ」


 軽い口調なのに、言っていることはとんでもない。


「……輪廻転生」


 俺が繰り返すと、エンマは頷いた。


「本当はね、太刀川朝日の魂は、普通に次へ行く予定だった。別の家庭、別の人生。記憶は薄れて、また赤ちゃんから。君とは二度と会わない」


 喉の奥が詰まる。そんな“普通”を、俺は想像したことがある。朝日が死んだ夜、何度も考えた。もう会えない、という現実。だからこそ、今のアリスが奇跡だと知っている。


「でも、朝日は……未練が強かった」


 エンマがさらっと言う。


「本人は無自覚。未練って、本人が『未練だ』って言うとは限らないから。君のことも、家族のことも、日常のことも、全部が切れなかった」


 俺は拳を握りしめた。未練。無自覚。そんな風に言われると、朝日がただ弱かったみたいに聞こえる。違う。弱かったんじゃない。大事なものが多かっただけだ。


 エンマは、俺の顔を見て言った。


「怒ってる? 怒らなくていい。私は悪く言ってない。むしろ、面白いと思った」


「面白い?」


 言い方が腹立つ。


「興味、って言い換えてもいいよ」


 エンマは平然と続けた。


「朝日の人生を見た。君と一緒にいた時間も見た。……それで、私は朝日に“もう一度チャンスをあげようか”って言った」


 その言葉で、俺の背中に寒気が走った。


 アリスが時々、ふと黙り込む瞬間がある。何か思い出しそうな顔をする瞬間がある。今の言葉は、それと繋がる。


「……で、お前が転生させたと」


「うん。白金アリスとしてね」


 エンマは簡単に言う。簡単に言いすぎて、怖い。


「じゃあ、なんで姿が違う」


 俺は問う。ここが核心だ。朝日が朝日として戻るなら、話はまだ理解できる。だがアリスは金髪で、青い目で、留学生として存在している。そこに“作為”がある。


 エンマは指を立てた。


「魂だけ転がしても、体がないと始まらない。人間の体はね、都合よくポンって作れない。作れるとしても、ここではいろいろ面倒」


「面倒?」


「ルールがある」


 エンマは子どもみたいに言い切る。


「だから私は“ベース”を使った。転生体の土台。器。素体。……コピー元」


 胸が痛い。さっき聞いた単語が、もう一度現実になる。


「……それが、天音アイラ」


 俺が言うと、エンマは頷いた。


「うん。天音アイラの体の情報をベースに、朝日の魂を乗せた。だから似てる。似てない方が不自然でしょ?」


 似てない方が不自然。言い方が淡々としていて、気持ち悪いほど合理的だ。


「……そんなこと、信じられるか」


 俺は言う。言いながら、自分の声が震えているのが分かった。


 エンマは小さくため息をついた。


「じゃあ、君が信じるしかない話をする」


 エンマの目が細くなる。遊びの目じゃない。覗き込む目。見透かす目。


「君と朝日が小学生の時、放課後に河川敷で拾った石、覚えてる?」


 心臓が止まりそうになった。


 誰にも話していない。アリスと俺だけの、どうでもいい思い出だ。石に顔を描いて、変な名前をつけて、宝物だと言い張った。俺は恥ずかしくて覚えてないふりをしたのに、朝日はずっと覚えていた。


「……なんで、それを」


 俺が絞り出すと、エンマは平然と言った。


「全部見てたって言ったでしょ」


 次の瞬間、エンマはさらに細かい話を重ねる。


「君が中学の時に朝日に初めて“好き”って言いかけて、飲み込んだ日のこと。言いかけた場所。言いかけた言葉。……『朝日、俺――』で止まった」


 喉が詰まる。呼吸が浅くなる。これも、俺と朝日しか知らない。朝日は気づいていたかもしれない。でも、第三者が言葉として再現できるはずがない。


 エンマは楽しそうにではなく、淡々と続けた。


「朝日が死んだ日。駅前で別れた。君は徒歩で帰った。朝日は改札へ行った。君は振り返らなかった。……それを君はずっと後悔してる」


 胸の奥が、ぐっと痛んだ。


 全部、言い当てられている。俺が一番触れられたくない部分まで。


「やめろ……」


 俺が掠れた声で言うと、エンマは首を傾げた。


「怖い?」


「……怖い」


 正直に言った。怖いと認めるしかない。


 エンマは小さく頷いた。


「それでいい。信じるって、怖いから」


 俺は唾を飲み込んだ。半信半疑、なんて状態はもう保てない。目の前の存在が、常識の外側からこちらを覗いている。その現実だけが確かだ。


「……お前は、本当に」


 俺が言いかけると、エンマが先に言った。


「うん。私が朝日を白金アリスにした」


 言い切る。


 俺の膝が少しだけ震えた。立っているのがやっとだ。怒りより恐怖の方が先に来る。人間が理解できないものを前にすると、こうなるんだと初めて知った。


 それでも、聞かなければならない。


 俺は歯を食いしばって問う。


「……だったら、朝日を殺した犯人のことも分かるのか」


 エンマの目が、ほんの少しだけ動いた。反応。だが答えはすぐ出さない。


「聞きたい?」


「当たり前だろ」


「神様なんだろって顔」


 エンマが小さく笑う。笑っているのに、可愛げがない。


 俺は言った。


「神様なら、分かるだろ。朝日を殺したやつが誰か。どこにいるか」


 エンマは少しだけ黙った。沈黙が、路地の冷たさを増す。


 そして、淡く言った。


「その話は、次」


 次。逃げるみたいな言い方じゃない。順番を決めるみたいな言い方。


 俺は言い返したくなった。でも、ここで感情をぶつけても意味がない。相手は人間の尺度で動いていない。


 エンマは、念を押すように言った。


「今日は、朝日が白金アリスになった理由と、コピー元が天音アイラだってことを君に渡した。それだけで君の脳、もう限界」


 限界。確かにそうだ。頭が熱い。視界が少し狭い。呼吸が浅い。怖い。


「……アリスには」


 俺が言いかけると、エンマが目を細めた。


「言うかどうかは君が決めて。君の選択を私は見てる」


 見てる。さっきからその言葉が刺さる。監視じゃないと言いながら、実質は監視だ。


 俺は路地の出口の方を見た。アリスとアイラはまだ話しているだろうか。今、俺が知ったことを、そのままアリスにぶつけたらどうなる。崩れるかもしれない。崩れなくても、揺れる。揺れた時、俺は支えられるのか。


 エンマが最後に、さらっと言った。


「君、守るって決めたんでしょ」


 俺は答えられなかった。


 守る。守るという言葉の意味が、今、少し変わった。


 守る相手はアリスだ。

 でも、そのアリスの存在の土台に、アイラが関わっている。


 その事実は、アリスの心を揺らす。アイラの人生も揺らす。俺たちの関係も揺らす。


 俺は、今の自分が何を守るべきか、順番を間違えたくなかった。


 路地を出ると、アリスがちょうどアイラと別れるところだった。


「じゃあ、またね」


 アリスが笑う。


「……また……」


 アイラが小さく頷く。顔は赤いのに、逃げない。アリスと話して、今日一日で距離がぐっと縮んだのが分かる。アリスの明るさは、人を救うことがある。


 アイラが去っていき、アリスがこちらへ振り向いた。


「あっ、隆太郎! 見て見て、私ね――」


 弾む声。無邪気な顔。


 俺は一瞬、言葉が出なかった。さっきまでの路地の冷たさが、まだ身体に残っている。ここで変な顔をしたら、アリスはすぐ気づく。


 俺は必死に表情を整えて言った。


「……どうした」


「アイラさんと話した! 最初おどおどしてたけど、ちょっと笑ったよ!」


 アリスが嬉しそうに言う。その笑顔が眩しい。俺は、その笑顔を壊したくない。


「……よかったな」


「うん! ねえ、今度また会いたい!」


 アリスは無邪気に言った。


 俺は喉の奥で息を止めた。


 会いたい。

 その言葉の意味が、俺の中で重く鳴る。


 でも、今は答えを急がない。


 俺は頷いた。


「……また会えるといいな」


 アリスが満足そうに笑った。


 俺は笑えなかった。笑えないことを悟られないように、視線を少しだけ逸らした。


 エンマの言葉が、頭の中で繰り返される。


 コピー元が天音アイラ。


 そして、犯人のことは「次」。


 俺は、次を待つしかないのか。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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