転生の事情
文化祭が終わった翌週の平日、放課後の空気は妙に軽かった。
あれだけ騒がしかった校舎が、急に静かになる。机の上からガムテープもハサミも消えて、黒板の端に残っていた予定表も消されている。達成感が残っているはずなのに、どこか拍子抜けして、体の奥だけが空回りする。
アリスは教室を出ると、珍しく俺の袖を引いた。
「隆太郎、今日、ちょっとだけ一人で歩いていい?」
言い方が控えめで、それが逆に強い意思を感じさせた。怖いから逃げたいんじゃない。自分で歩けることを確かめたい顔だった。
「……大丈夫か」
「うん。文化祭、できたし。私、今日くらいは“普通”にしたい」
普通。アリスは最近、その言葉をよく使う。普通を取り戻すのは、簡単じゃない。だからこそ、言葉にして、掴みに行っている。
「分かった。……でも、無理はするな。何かあったらすぐ連絡」
「うん。ありがと」
アリスは笑って手を振り、商店街の方へ歩き出した。
俺はその背中を見送りながら、喉の奥で小さく息を止めた。
心配しないわけがない。
でも「心配だからやめろ」と言えば、アリスの一歩を潰す。だから折衷案を選ぶ。アリスには言わない。気づかれない距離で、俺が後ろから見ていればいい。
俺は適当にスマホをいじるふりをして数十秒遅れて歩き出し、彼女と同じ方向へ向かった。視界の端に入る程度の距離。話しかけられない距離。気配を消す距離。
商店街は夕方の買い物客でほどよく人がいた。視線が混ざり、会話が混ざり、誰か一人が目立ちにくい。アリスが一人で歩くには、むしろ良い環境だ。
アリスは店先の「秋限定」というポップを見て足を止めたり、パン屋の匂いに小さく鼻を動かしたりしていた。文化祭の後の、少し浮ついた顔。肩の力が抜けている。そういう姿が見られるだけで、俺の胸は少しだけ軽くなる。
その時だった。
角を曲がった先、狭い通りの入口で、アリスがふいに立ち止まった。
立ち止まった理由が、すぐ分かった。
通りの反対側から、女の子が歩いてきた。地味な服装、目立たない歩幅、俯きがちな視線。人の流れを避けるような動き。明るい商店街の中で、その子だけ影が濃い。
天音アイラ。
雑誌で見た顔立ち。俺が一度、街角でぶつかって、そして助けた子。
アリスの体が、ほんの一瞬硬くなった。足先が止まり、肩が上がる。驚きと混乱が一緒に出る反応。けれど、逃げなかった。
アリスは一歩、前へ出た。
「……あの」
声が少し震えていたが、ちゃんと届く。
アイラがびくっとして顔を上げた。目が泳ぐ。逃げる準備。けれど、逃げるより先にアリスが穏やかに言った。
「驚かせたらごめん。あなた……天音アイラさん、だよね?」
アイラの目がさらに大きくなる。なぜ知っているのか、という怖さが混ざる。
「……ど、どうして……」
アリスは一拍置いて、言葉を選んだ。自分も今、同じ戸惑いを抱えたまま立っているからだ。
「雑誌で見たの。……私、白金アリス。えっと、変に聞こえるかもしれないけど、あなたに少し興味があって」
興味。言い方がまっすぐだ。アリスらしい。
アイラは俯いて、鞄の紐を握りしめた。逃げるか迷っている。けれど、アリスは追い詰めない。距離を詰めず、ただそこに立って待った。
数秒の沈黙のあと、アイラが小さく言った。
「……わたし、あの……人と話すの、得意じゃなくて……」
「うん。大丈夫。私も、いきなり仲良くしようって言わない」
アリスはそう言って、少しだけ笑った。
「でも、もし迷惑じゃなければ、少しだけ。……立ち話でもいい?」
アイラの肩がわずかに落ちた。圧が弱まるのが分かったんだと思う。
「……すこし、なら……」
声は小さい。でも、返事が出た。
アリスは頷き、通りの端の自販機横――人の邪魔にならない場所へ誘導した。自然な動線。相手が怖がらないように、人の流れから少しだけ外れる。なのに完全に孤立しない。距離感が上手い。
「……アイラさん、写真、すごかった」
アリスが言うと、アイラは慌てて首を振った。
「すごくないです……わたし、向いてないし……」
「向いてないのに、やってるの?」
「……やらないと、いけなくて……」
事情がある言い方。アリスは深掘りしない。ただ、頷くだけ。
「そっか。大変だね」
その“そっか”が優しい。同情じゃなく、受け止める音だ。
アイラは少しだけ顔を上げた。アリスの顔を見て、また俯く。けれど、さっきより逃げる色が薄い。
「……白金さんは、アメリカの方ですか……?」
「うん。留学ってことになってる」
アリスがさらっと言った。アイラが「……なってる?」と小さく引っかかった顔をしたが、そこは追及しない。アイラは追及できるタイプじゃない。
代わりに、アイラがぽつりと言った。
「……白金さん、明るいですね……」
「そうかな。……頑張って明るくしてる時もある」
アリスは笑いながら言った。軽く言ったのに、妙に本音が混ざる。
アイラの指先が鞄の紐をきゅっと握った。共感した反応だ。明るい人に見えても、頑張っている人はいる。その“頑張り”を、アイラは感じ取った。
「……わたし、逆です。頑張っても暗いです」
アイラが言って、自分で言いすぎたみたいに目を伏せた。
アリスは吹き出さず、ただ小さく笑った。
「それ、ちょっと可愛い」
「……え」
アイラの耳が赤くなる。
「可愛いって……」
「うん。可愛い。だって、正直だもん」
アリスは言い切る。言い切るから、アイラは反論できない。反論できないまま、頬だけが赤くなる。
俺は少し離れた場所で、その様子を見守りながら思った。
アリスは、アイラに対して“怖さ”より“興味”を勝たせている。
似ている存在に怯えるより、近づいて確かめようとしている。
そして、その近づき方が乱暴じゃない。
……良かった。
でも、次の瞬間、俺の背中に妙な寒気が走った。
誰かに見られているような感覚。
振り返っても、商店街は普通だ。人が歩いていて、店が開いていて、夕方の光が差している。何もない。なのに、感覚だけが引っかかる。
俺は視線をもう一度前へ戻した。アリスとアイラは、少しずつ言葉が増えていた。アイラが笑いそうになって、口元を抑える。アリスがそれを見て嬉しそうに笑う。
……このままなら、きっと大丈夫。
そう思った瞬間、視界の端で銀色が揺れた。
商店街の外れ、細い路地の入口に、小さな影が立っている。
銀髪の、小学生くらいの女の子。
見覚えはない。銀髪の少女。
俺は呼吸を止めた。
変な子が、いる。でも偶然じゃなさそうな。
俺はアリスの方を一瞬だけ確認してから、路地へ向かった。アリスとアイラは楽しそうに話していて、俺の動きには気づいていない。今なら、離れても大丈夫だ。
路地に入ると、空気が少し冷たかった。商店街の明るさが嘘みたいに薄れる。銀髪の少女は路地の奥で、塀に腰掛けるみたいに座っていた。危なっかしいのに、妙に安定している。
「……君」
俺が声をかけると、少女は足をぶらぶらさせたまま、こちらを見上げた。
「やっと来た。遅いよ」
子どもの声なのに、言い方が妙に大人びている。
「お前、誰だ……」
「前? 屋上かな?」
少女は軽く頷いた。
「うん。見てたよ。ずっと見てるの、得意だから」
胸の奥がひやりとする。得意、で済ませるな。
「……何者だ」
俺が聞くと、少女は少しだけ口角を上げた。
「エンマ」
短く名乗る。
「……エンマ?」
「うん。ちゃん付けでもいいよ。人間、そういうの好きでしょ」
軽い口調。けれど、目が笑っていない。子どもの形をした“異物”の目だ。
「で、俺に何の用だ」
俺が言うと、エンマは指先で路地の空気をなぞるみたいに動かして、さらっと言った。
「君が知りたいこと、教えに来た」
「知りたいこと?」
「白金アリスのこと」
その名前が出た瞬間、背中が固まる。
「……何を知ってる」
エンマは首を傾げた。
「全部」
言い切る声が軽いのに、内容が重い。
「君、信じない顔してるね」
「当たり前だろ」
「じゃあ言うね。私が、太刀川朝日を白金アリスに転生させた」
路地の空気が、一段冷える。
俺は言葉を失った。冗談にしては、言い方が平坦すぎる。嘘にしては、胸の奥が変な反応をする。怖い。反射でそう思う。
「……そんな話、信じられるかよ」
俺が絞り出すと、エンマはあっさり言った。
「信じなくていい。でも、事実は事実」
俺は拳を握りしめた。
「証拠は」
「証拠? うーん」
エンマは子どもらしく顎に指を当てるふりをして、すぐに面倒そうに言った。
「今はまだ。今日は“事前説明”」
「ふざけるな」
「ふざけてない。君、知る順番を間違えると壊れるから」
胸の奥がざわつく。俺のことを知っている口ぶり。壊れる。そんな言葉を平然と使うのが怖い。
エンマは足をぶらぶらさせたまま、次の言葉を落とした。
「それとね。白金アリスの転生体には、コピー元がある」
俺の喉がひゅっと鳴った。
「……コピー元?」
「うん。器。ベース。人間の体って、急に作れないから」
何を当たり前みたいに言ってるんだ。頭が拒否するのに、心が先に理解しそうになるのが怖い。
エンマは、路地の出口の方――商店街の方を顎で示した。
「コピー元は、天音アイラ」
世界が一瞬、止まった。
アリスに似ている少女。
雑誌に載っていた少女。
俺が助けた少女。
そして今、アリスが話している少女。
全部が一本の線で繋がる感覚がして、俺は息を呑んだ。
「……何、言って……」
声が震える。
エンマは平然としていた。
「言った通り。コピー元。だから似てる。似てるのは偶然じゃない」
路地の奥で、風が吹いた。銀髪が揺れる。エンマはそのまま、俺を見上げて言った。
「君は、どうするの?」
試すみたいな目。
俺は答えられなかった。
今、この瞬間は、情報が重すぎる。アリスがあの向こうでアイラと笑っている。その笑いの前提が、今ここで崩れかけている。
俺の呼吸が浅くなる。胸の奥が痛い。
エンマは、ふっと笑った。
「まあ、今日はここまで。続きは、また話してあげる」
そして、子どもみたいに軽く言う。
「君、ちゃんと守ってね。いろいろ」
俺が言葉を返す前に、エンマの姿が路地の暗さに溶けるみたいに消えた。歩いて去った気配がない。風が抜けただけみたいに、そこからいなくなった。
俺はしばらく、その場から動けなかった。
頭の中が、言葉で埋まる。
転生。
コピー元。
天音アイラ。
そして――アリス。
俺はようやく路地を出て、商店街へ戻った。アリスとアイラはまだ話していた。距離が少し縮まっていて、アリスがスマホを取り出して何か見せている。アイラが小さく笑って、また俯く。
アリスは今、楽しそうだ。
その楽しさを、俺は守りたい。
だけど、エンマの言葉が本当なら――守るべきものの輪郭が、根本から変わる。
俺は笑えなかった。
ただ、アリスの方へ歩きながら、心の中で繰り返した。
落ち着け。
まだ決めるな。
まず、確かめろ。
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