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文化祭

 文化祭の前日から、学校はもう学校じゃなくなっていた。


 授業は一応ある。チャイムも鳴る。先生も「出席取るぞ」と言う。けれど教室の空気は完全に別物で、机の上にはノートよりガムテープとハサミが増え、黒板には板書より役割表が貼られている。廊下には段ボール箱が積まれ、どこからかペンキの匂いがする。校舎全体が「明日、何かが起こる場所」へ変わっていく。


 俺たちのクラスの出し物は、秋のセルフカフェ。


 セルフと言っても、放っておけば勝手に回るわけじゃない。券売の導線、受け渡し、補充、ゴミ回収、呼び込み、トラブル対応。やることは山ほどある。準備が進むほど、抜けていた穴が見えてくる。そして穴が見えるたび、時間が足りない気がして焦る。


 その焦りを、アリスは不思議な勢いで押し流していた。


「大丈夫。今日で全部形にする」


 前日の放課後、教室の真ん中でアリスが言った。声は明るい。顔は少し疲れている。でも目が前を向いている。あの夏に縮んだ分を、今ここで取り返すみたいな顔だった。


「全部って、何を」


 俺が聞くと、アリスは指を折っていく。


「飾りの完成。券の最終確認。受け渡しの動線テスト。写真映えの調整。あと……栗」


「最後ふざけただろ」


「ふざけてない。栗は大事」


 周りが笑う。笑いが出るだけで空気が軽くなる。文化祭準備の良さはそこにある。苦しいのに、苦しいまま前に進める。


 俺はメニュー表と券売表の最終チェックを任されていた。数字が合っているか、券の枚数は足りるか、価格表示にミスはないか。地味な作業だが、こういう地味が崩れると当日が死ぬ。だから、俺はそこだけは真面目にやる。


「宮本、これ、紅茶の券とココアの券の色、逆じゃね?」


 クラスメイトが持ってきた券束を見て、俺は眉をひそめた。


「……逆だな」


「え、マジ? やば」


「やばい」


 言葉にすると本当にやばくなる。でも、今気づけたのは大きい。俺はすぐに修正案を出した。


「券の色はそのままでいい。掲示の色を券に合わせて変える。印刷し直すより早い」


「天才」


「天才じゃない。今から印刷し直す時間がないだけ」


 現実を積む。こういう判断が、準備の終盤では一番効く。


 アリスがその会話を聞きつけて、俺の横に来た。


「隆太郎、助かった?」


「助かった」


「じゃあ褒める。えらい」


「子ども扱いすんな」


「子ども扱いじゃない。リーダー扱い」


「リーダーはお前だろ」


「私は秋の代表」


「意味が分からん」


 アリスが笑う。俺も笑う。周りも笑う。笑いが回ると、教室の空気が前へ進む。


 結局、前日の放課後は、時間が溶けるように過ぎた。


 ガーランドの紅葉が壁一面に並び、入口の看板が完成し、券売の掲示も貼り替え、机の配置も決まる。最後に動線テストをして、人が通る幅を確保して、ゴミ箱の位置を決めた。誰かが「もう帰りたい」と言い、誰かが「終わった!」と叫ぶ。


 アリスが教室の中央で手を叩いた。


「はい、今日の勝ち!」


「勝ちって何だよ」


「勝ちだよ。明日できる」


 その言葉が、妙に頼もしかった。明日できる。文化祭は、たぶんそういう言葉の積み重ねで回る。


 帰り道、アリスと並んで歩いた。夜風が少し冷たくて、夏とは違う匂いがする。秋が近い。


「明日、緊張する?」


 俺が聞くと、アリスは少しだけ考えてから言った。


「する。でも、楽しみの方が大きい」


「すごいな」


「だって文化祭だよ。高校生のイベントだよ」


 アリスが拳を小さく握る。可愛い。こういう普通のテンションが戻ってきたことが嬉しい。


 太刀川家の前で立ち止まって、アリスが小さく言った。


「隆太郎、明日も一緒にいてね」


「当たり前だろ」


「ありがとう」


 アリスが笑う。俺はその笑顔を見て、胸の奥の疲れが少し軽くなるのを感じた。


 ※ ※ ※


 文化祭当日。


 朝の校門は、いつもと違う音がしていた。外部の人の声、他校の制服、屋台っぽい匂い、拡声器の案内。学校が街みたいになる。たった一日だけ、校舎が非日常の装置になる。


 教室に入ると、すでにクラスメイトが動いていた。エプロンをつけるやつ、髪をまとめるやつ、看板を外に出すやつ。俺は券売係の担当だった。アリスは受け渡しと呼び込みの両方に顔を出す、実質の回し役だ。


「隆太郎、券、これね! 間違えたら死ぬやつ!」


「死なない」


「死ぬ!」


 アリスが真剣な顔で言うから、周りが笑った。笑えるうちは大丈夫だ。


 開場の時間になり、客が流れ込んでくる。


 最初は静かだった。様子見の人が多い。廊下で看板を眺め、教室の中を覗き、通り過ぎる。呼び込みが弱いと、あっさり流される。


 アリスが、廊下へ出て声を張った。


「秋のセルフカフェやってまーす! 栗あります! 紅茶あります! 休憩にどうぞー!」


 栗を武器にするな。と思うのに、その声は妙に通った。明るさが廊下を跳ねる。通り過ぎていた人が足を止める。友達同士が「行ってみる?」と言い出す。人が入ってくる。


 あっという間に、教室が“店”になった。


 券売係の俺は、目の前の流れを捌くことに集中した。券を渡し、説明し、ゴミ箱の位置を案内し、席を誘導する。やることは単純なのに、回数が増えると頭が追いつかなくなる。だから、手順を固定する。言葉も固定する。


「こちら券です。受け渡しは奥、席は空いてるとこどうぞ。ゴミは出口横です」


 固定した言葉は強い。迷いを消してくれる。


 途中、やっぱりトラブルが起きた。


「え、これココアじゃなくて紅茶だよ?」


 券の色を見間違えた客が出た。俺はすぐに笑顔で言った。


「すみません、色が分かりづらいので。券の文字で確認できます。こっちがココアです」


 券を交換して、説明し直す。焦らない。焦ると空気が崩れる。客は文化祭を楽しみに来ている。トラブルも含めてイベントだ。


 アリスが奥から走ってきて、俺の横で小声で言った。


「隆太郎、今の対応、完璧」


「当たり前だろ」


「当たり前って言うの好き」


 またそれかよ、と言い返したいのに、忙しくてそれどころじゃない。アリスは満足そうに頷いて、また奥へ戻った。


 昼過ぎ、混雑の波が一段落した。客が一斉に他の出し物へ散っていく時間帯。俺たちは交代で休憩を取る。


 アリスが「今、隆太郎休んで」と言って、俺を廊下へ押し出した。押し出される形で教室を出ると、廊下の空気が少し冷たく感じる。教室の中が熱いからだ。人の熱と声と甘い匂いが混ざって、空気が濃くなっている。


 廊下の端の窓際で、俺はペットボトルの水を飲んだ。喉がからからだった。文化祭って、こんなに喋るイベントだったっけ。


 少しして、アリスが廊下に出てきた。エプロン姿のまま、髪が少し乱れている。汗が額に光っているのに、表情は生き生きしていた。


「隆太郎、どう? 楽しい?」


「忙しい」


「忙しいは楽しい!」


 アリスが即答して、俺は苦笑した。確かに忙しいと余計なことを考えなくて済む。今の俺たちには、それがありがたい。


 アリスが窓の外を見て、ふっと笑った。


「見て、他のクラスのお化け屋敷、めっちゃ並んでる」


「行きたいのか」


「行きたい。文化祭終わったら行こう」


「終わったら疲れて死ぬだろ」


「死なない。行く」


 アリスが真剣な顔をする。やっぱりこういうところがアリスだ。


 休憩を終えて教室へ戻ると、また客が入ってきた。夕方に向けて、もう一度波が来る。俺は券を捌き、アリスは受け渡しを回し、クラスメイトは補充と片付けを回す。回る。回っている。教室が生き物みたいに動く。


 途中、アリスが小さく「やば」と呟いた。


「どうした」


「栗パン、残り少ない」


「栗が尽きるのか」


「秋の王様が……」


「王様、引退か」


「引退させない!」


 アリスが走って補充係に声をかけ、在庫を確認して、足りない分は早めに終了を告知する段取りを作る。判断が速い。俺はその背中を見て、やっぱりすごいと思った。


 閉場の時間が近づくと、客足が落ち着いてくる。片付けの準備を始める。ゴミ袋を縛り、机を拭き、残った飲み物を整理する。誰かが「終わるの早いな」と言い、誰かが「もう一回やりたい」と言う。祭りの終わりはいつもこうだ。終わりが見えると、妙に寂しい。


 閉場のアナウンスが流れた。


 教室の中の音が、少しずつ抜けていく。笑い声が減り、作業の音が増える。最後の客を送り出し、看板を片付け、飾りを外し始める。


「終わったー!」


 誰かが叫んで、クラスが一斉に笑った。疲れた笑い。達成の笑い。俺はその笑いを聞きながら、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。


 俺たちは今日、ちゃんと“文化祭”をやった。


 事件の影があっても、怖さが残っていても、生活は進める。笑える。忙しがれる。未来の話ができる。そういう一日だった。


 片付けが終わって、教室がいつもの教室に戻る。壁の紅葉が剥がされ、机が元の位置に戻され、床が拭かれる。夕方の光が斜めに差して、教室の埃がきらきらする。


 帰り支度をしていると、アリスが俺のところへ来た。エプロンを外し、髪を整え、少しだけ疲れた顔。でも、目は満足そうだった。


「隆太郎」


「おう」


「今日、楽しかった」


「俺も」


 短い言葉の方が、今は合っていた。


 アリスが少しだけ照れた顔になって、声を落とす。


「……ねえ、帰り、少しだけ寄り道していい?」


「どこ」


「お化け屋敷」


「やっぱりか」


「行く」


 命令形。疲れてるくせに勢いだけはある。俺は笑って頷いた。


「ちょっとだけな」


 お化け屋敷は、想像以上に並んでいた。校舎の一角に列ができていて、外部の客も混ざっている。俺たちは列の最後尾に並び、少しずつ進む。アリスはわくわくしているのに、俺は別の意味で緊張していた。暗いのは苦手だ。しかも最近、暗さは余計に嫌な想像を呼ぶ。


「隆太郎、怖い?」


 アリスが聞く。


「別に」


「手、繋ぐ?」


「……繋ぐ」


 素直に言うとアリスが嬉しそうに笑って、手を握ってきた。指が温かい。温かいだけで、余計な想像が少しだけ遠ざかる。


 お化け屋敷の中は、文化祭らしい手作りの怖さだった。驚かせ方が雑で、逆に笑ってしまう。アリスが「きゃっ」と言って俺の腕にしがみつき、次の瞬間「今の演技うまい」と真顔で評価している。感情の切り替えが忙しい。


「お前、怖いのか怖くないのかどっちだ」


「怖いけど楽しい!」


 それが文化祭の正解なんだろう。


 外に出ると、空はもう暗かった。校舎の窓の灯りが、いつもより華やかに見える。帰り道、アリスは疲れた顔をしながらも、時々笑っていた。今日の笑いは、ちゃんと生活の笑いだった。


 太刀川家の前で、アリスが立ち止まる。いつもの場所。いつもの別れ。


「隆太郎」


「ん」


「今日、頑張った」


「頑張ったな」


「褒めて」


 アリスが素直に言う。俺は少し笑って、ちゃんと言った。


「好きだよ」


 アリスが目を細めて、満足そうに頷いた。


「うん。じゃあ、明日も大丈夫」


 明日も大丈夫。そう言える日が増えている。それが嬉しい。


 アリスが家に入っていくのを見送って、俺は自宅へ向かった。夜風が涼しい。文化祭の熱が少しずつ抜けていく。疲れているはずなのに、胸の奥は妙に温かかった。


 文化祭は終わった。


 けれど、終わったからこそ、また日常が戻ってくる。


 その日常を、俺は守る。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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