初めて安心できる
月曜の朝、目が覚めた瞬間から胸の奥が少しだけ重かった。
文化祭準備が進んでいること自体は嬉しい。アリスが笑っているのも嬉しい。俺もクラスの一員として、ちゃんと予定に巻き込まれている。それは確かに“戻ってきた日常”だ。
なのに、重い。
理由は分かっている。
俺は、天音アイラと会ったことをアリスに言っていない。
秘密にしている、というほど大げさなつもりじゃない。ただ、話したらアリスが余計に不安になるのが目に見えていた。"天音アイラ"という自分と似て非なる存在。ドッペルゲンガーと言われても仕方ない程に似ている。そして、天音アイラとの火種を増やしたくなかった。
だから俺は、自分で線を引いて、自分で処理して、自分で終わらせるつもりでいる。
でも、秘密は秘密だ。
優先順位のための選択だと言い訳できても、胸の奥に小さな棘が刺さる。アリスに対して後ろめたい、という感情は簡単には消えない。
俺は顔を洗って、深呼吸を一つした。切り替えろ。今日は文化祭準備だ。アリスと並んで歩いて、学校へ行って、目の前のことをやる。それだけでいい。
※ ※ ※
通学路の途中で、アリスと合流した。
太刀川家の門の前に立つアリスは、今日はやけに機嫌が良さそうだった。鞄の紅葉ストラップが揺れるたび、本人が小さく嬉しそうにしているのが分かる。
「隆太郎」
「おう」
「今日ね、文化祭の話、女子でめっちゃ盛り上がった」
「まだ始まってもないのに」
「始まってなくても盛り上がるのが文化祭なの」
アリスが胸を張って言う。こういう会話ができるだけで、胸の重さが少し薄まる気がする。俺はそのまま歩幅を合わせて、学校へ向かった。
教室に着くと、朝からすでに文化祭ムードだった。黒板の端に貼られた役割表、机の上に増えるメモ、誰かが持ち込んだ折り紙の束。授業が始まればいつも通り眠いのに、休み時間になると一斉に作業の話になる。みんな、こういう“わちゃわちゃ”が嫌いじゃない。
放課後は、装飾班とメニュー班の合同作業の続きだった。
教室の壁にガーランドを仮止めし、券売の案内板を試作し、テーブル配置のイメージを作る。作業の途中で意見がぶつかる。ぶつかって、笑って、また進む。その繰り返しが、妙に健全だった。
アリスは今日も中心寄りにいた。誰かの意見を拾って、別の意見と繋いで、落とし所を作る。楽しそうにやっているのが、見ていて嬉しい。
「ここ、紅葉の色はグラデーションっぽくした方がいいと思う!」
「グラデーション? めんどくね?」
「めんどいけど可愛い!」
アリスが即答して、周りが笑う。可愛いで押し切るのが強い。
俺はその横で、案内文の文章を整えていた。セルフ式の導線が分かりにくいとクレームが出る。短く、読みやすく、迷わないように。こういう作業は地味だが、俺は嫌いじゃない。数字や配置と同じで、整えると落ち着く。
作業がひと段落して、片付けに入る頃。アリスが俺の机の横に来て、声を落とした。
「隆太郎、今日帰り、一緒に帰れる?」
「帰れる」
即答すると、アリスの表情がふっと緩んだ。安心の顔。最近アリスは、帰り道の約束だけで呼吸が深くなる時がある。俺はそれが分かるから、できるだけ崩さないようにしている。
「よかった。今日、ちょっと疲れた」
「頑張ってたもんな」
「うん。頑張った」
アリスが照れくさそうに笑って、俺の袖をちょんと引いた。何でもない接触なのに、胸の奥の棘がまた少し痛む。
……俺は、アリスに隠してることがある。
そう思うだけで、アリスの笑顔が眩しすぎて、少しだけ苦しくなる。
※ ※ ※
下校途中、商店街の角でアリスの友達と遭遇して、アリスは少しだけ立ち話をした。俺はその横で待つ。アリスが自然に友達と笑い合っているのを見ると、やっぱり安心する。アリスの世界が広がっている。怖さが全てを奪っていない。
話が終わって歩き出した時、アリスが言った。
「文化祭、本番も一緒に回ろうね」
「当たり前だろ」
「そういうの好き」
その返事が、ずるいくらい可愛い顔を引き出す。俺は笑って誤魔化して、太刀川家の前まで歩いた。
別れ際、アリスが立ち止まる。
「隆太郎、私も好きだよ!」
最近の合図。言葉が足場になる。
「俺も好きだよ」
俺が言うと、アリスが満足そうに頷く。
「うん。ありがと!」
アリスが家に入っていくのを見送り、俺は自宅へ向かった。距離は近い。近いのに、胸の奥の棘はまだ残る。
俺は家に着くまでに、決めた。
秘密は増やさない。
必要なことだけを、必要な形で整理する。アリスを守るための選択が、アリスを傷つける形になったら本末転倒だ。だから、これ以上深くはしない。アイラとの関わりは、あくまで最小限。助けるとしても“最後の補助”。それ以上にはしない。
そう決めて、ようやく少し呼吸が楽になった。
※ ※ ※
その夜。
机に向かって文化祭の資料を整理していると、スマホが小さく震えた。通知音は切っている。振動だけが静かな部屋に響く。
天音アイラからだった。
『こんばんは……。
この前の駅のこと、ありがとうございました。
今日、少しだけ、相談してもいいですか……』
相談。内容次第だ。俺はすぐには返さず、一呼吸置いてから、柔らかく、短く返すことにした。強い口調は彼女を萎縮させる。萎縮すると、必要な助けも求められなくなる。それは良くない。
『こんばんは。大丈夫だよ。短くだったら聞く。どうした?』
既読がつくまで少し時間がかかった。打ち直しているのか、迷っているのか。返ってきた文も、いかにも迷いながら作った文章だった。
『撮影、次が来週で……その日、人が多いところを通るのが怖くて……
でも、友達に頼めなくて……
駅から少しだけ、また一緒に歩いてもらえるか、迷ってます』
頼めなくて、迷ってます。頼むこと自体が負担なんだろう。
俺は、条件を柔らかく、でもはっきり置いた。
『その日が分かったら教えて。
駅の改札前で、5分だけなら大丈夫。
ただ、俺はいつも一緒にいる人がいるから、長くはできない。
困ったら駅員さんや大人に頼るのが先』
送信して、胸の奥がざわつく。
“一緒にいる人がいる”という言い方は、彼女に線を示すためだ。ここを曖昧にすると、アイラが余計に苦しくなる。俺が余計に困る。アリスが余計に傷つく。
返事はすぐ来た。
『……はい。分かりました。
ありがとうございます。すごく助かります』
そこで会話が途切れた。途切れてくれたことに、俺はほっとした。会話を増やしたくない。増やしたら、アリスに対する棘が大きくなる。
俺はスマホを伏せて、ノートに視線を戻した。
文化祭の準備は、確実に進んでいる。
アリスは笑っている。
俺は、そこへ戻る。
だから、余計なものを増やさない。
そう思っていたのに、次の瞬間、スマホがもう一度震えた。
『あと……宮本さん、今日も優しいですね』
短い一文。
その一文が、刺さった。
優しい、と言われるのは悪い気はしない。けれど、ここで受け取り方を間違えると、アイラの中の何かを膨らませる。膨らませたら、彼女が苦しくなる。俺も苦しくなる。アリスも傷つく。
だから、俺は“温度を上げない返事”を選んだ。
『そう感じたならよかった。無理しないでね。おやすみ』
既読がついた。返事は来ない。来ないのがちょうどいい。
俺は深く息を吐き、肩の力を抜いた。柔らかく返す。線を引く。距離を崩さない。今日の俺は、それができた。
※ ※ ※
同じ頃。
アイラは自室のベッドに腰を下ろして、スマホを握りしめていた。
画面には、宮本隆太郎との短い会話が並ぶ。短い。必要なことだけ。余計な言葉がない。なのに、そこに“安心”がある。
アイラは胸元を押さえた。
怖いのは、人混みだけじゃない。
人と関わることそのものが、怖い。
なのに、あの人と話すと、怖さが少しだけ薄くなる。
自分が自分のままでいられる時間が、少しだけ増える。
「……なんでだろ」
アイラは小さく呟いた。
そして、メッセージの最後の「おやすみ」を見つめて、耳が少し熱くなるのを感じた。
誰かの言葉で眠れることが、こんなに不思議だなんて思わなかった。
アイラは布団を被って、スマホを胸の上に置いた。
※ ※ ※
翌日。
文化祭準備はさらに加速していく。教室の壁は徐々に飾りで埋まり、メニュー表は完成に近づき、役割表も固まっていく。
アリスはその中心で、相変わらず明るく、少しだけ疲れた顔で笑っていた。
俺はその笑顔を見て、もう一度胸の奥で確認した。
俺が戻る場所は、ここだ。
だから、ブレない。
守る。
そして、文化祭を迎える。
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