文化祭 前戯
文化祭の準備が本格的に動き出すと、放課後の教室が“別の顔”になる。
普段なら帰宅の準備で鞄を閉じる音が一斉にして、廊下へ人が流れていく。けれど今週は、残る人間の方が多い。机を寄せて作業台みたいにし、誰かがガムテープを切り、誰かがプリントを読み上げる。教室の空気が、授業のものから作業のものへ切り替わる。その切り替えが、妙に安心だった。未来へ向かっている感じがするからだ。
今日の放課後は、装飾班とメニュー班の合同作業の日だった。
秋のセルフカフェ。見た目が大事だ、ということで、飾りの方向性を決める。紅葉の折り紙を壁に貼るのか、テーブルにミニ装飾を置くのか、看板をどうするのか。俺はメニュー班だが、計算や在庫管理の話だけでは済まない。動き出した行事は、だいたい全部が繋がっている。
教室の前方に、アリスが立っていた。ホワイトボードの前で、簡単なラフを描いている。紅葉の形のガーランド、メニュー表のレイアウト、券売の導線。普段はふわっとしているのに、こういう時は驚くほど具体的だ。
「入口にこれ。で、券ここ。受け渡しはこっち。並ぶ列はここだと、教室が狭く見えない」
アリスが言うと、周りが「それいい」と頷く。アリスはその反応を見て、少しだけ嬉しそうに笑う。笑いながらも、次の案を出す。場が回っていく。
俺はその横顔を見て、胸の奥が静かに温かくなった。
アリスがこうして教室の中心に立って話している。夏の間、怖さで小さくなっていた時期を知っているからこそ、この姿が眩しい。事件の影が消えたわけじゃない。それでも生活は前へ進める。そういう証明みたいだった。
「宮本もなんか言えよ」
クラスメイトに振られて、俺は少しだけ肩をすくめた。
「……衛生的に、飾りは床に落ちない形の方がいい。回収が大変になる」
「現実」
「現実が勝つ」
誰かが笑う。アリスが横で「隆太郎らしい」と小さく言って、俺の肘を軽くつついた。小さな接触がくすぐったい。
そのまま役割分担が決まった。今日は、装飾用の材料を買いに行く班と、教室内で制作を始める班に分かれる。俺とアリスは買い出し組になった。理由は単純で、アリスが「紅葉の色は実物見て決めたい」と言い張ったからだ。
※ ※ ※
商店街の文具店は、文化祭シーズンの匂いがした。
カラーペーパー、のり、画用紙、マーカー、ガーランド用の紐、両面テープ。棚の前に同じような学生が何組もいて、みんな同じように悩んでいる。こういう光景は毎年ある。毎年あるものが、今はありがたい。
アリスはカラーペーパーの棚で真剣に悩み始めた。
「ねえ、紅葉ってさ、赤だけじゃないよね」
「黄とか橙もあるな」
「じゃあ赤だけだと嘘っぽい」
「嘘っぽい紅葉って何だよ」
「紅葉にだってリアリティが必要なの」
アリスは真面目な顔で言うから、笑っていいのか迷う。俺は結局、笑いを堪えきれずに口元が緩んだ。
「笑った」
「笑うだろ」
「じゃあ採用。隆太郎が笑った案は正しい」
「ルールが雑すぎる」
アリスが楽しそうに笑う。買い物カゴに赤、橙、黄を入れ、ついでに茶色も入れる。さらに金色っぽい紙を見つけて「これ秋っぽい!」と目を輝かせる。秋っぽいという言葉が、アリスの中では万能すぎる。
会計を済ませて店を出ると、紙袋が意外と重かった。材料なんて軽いと思っていたが、まとめるとそれなりに重量が出る。アリスが半分持とうとするので、俺は自然に言った。
「俺が持つ」
「え、いいのに」
「いい」
アリスが少しだけ目を丸くして、それから小さく笑った。
「……なんか、彼氏っぽい」
「彼氏だろ」
「うん。知ってるけど、改めて感じた」
改めて、という言い方が可愛くて、俺は少しだけ視線を逸らした。こういう会話をしていると、事件が遠くに感じる。その遠さが必要だ。
学校へ戻る途中、アリスがふいに言った。
「隆太郎、最近さ」
「ん?」
「ちゃんと“戻ってくる”のが上手くなった」
戻ってくる。言葉の意味は分かる。怖い話、嫌な出来事、不安な夜。そういうものに引っ張られたあとでも、アリスのところへ戻ってくる、日常へ戻ってくる。その感覚。
「上手くなったっていうか、慣れただけだ」
「慣れって大事だよ」
アリスはそう言って、紙袋の紐を握り直した。
「私はまだ下手。だから、隆太郎見て覚える」
その言葉が、胸の奥に残った。俺は上手くなんてない。でも、アリスがそう言ってくれるなら、俺はもう少し踏ん張れる。
※ ※ ※
教室へ戻ると、制作班がすでに机を寄せて作業を始めていた。
ガーランドの紐を切る人、型紙を作る人、メニュー表のフォントを悩む人。教室が工作室みたいになっている。アリスが材料を配り始めると、空気がさらに回る。
「これ赤。これ橙。黄は少し薄いからアクセントね」
「仕切りが先生みたい」
「先生より怖くないから助かる」
そういうやり取りが飛ぶ。アリスが笑って「怖くないもん」と返す。その返しが自然で、俺はまた少しだけ安心する。
俺はメニュー表の原案を作る係になった。セルフ式で券売、受け渡し、ゴミ捨ての導線。文字が多いと読まれない。短く、分かりやすく。そう考えると、妙にビジネスっぽい作業になる。
作業に集中していると、ポケットのスマホが震えた。
一瞬だけ肩が硬くなる。最近、振動だけで身構える癖がついた。だが、画面を見ると相手は佐野でも健一さんでもなく、天音アイラだった。
『昨日はありがとうございました……撮影、終わりました。
帰り、駅まで人が多くて、怖かったです。でも、行けました』
短い報告。律儀な報告。俺は教室の中で、返信の言葉を選んだ。長く会話を続ける必要はない。けれど、突き放すような返事も違う。
『おつかれ。行けたなら十分。帰りは明るい道で。駅員のいる側通って』
それだけ送って、スマホをしまった。既読はついたが、返事は来ない。来ないのがちょうどいい。
その直後、アリスが俺の机の横に立った。
「隆太郎、今スマホ見た?」
「見た」
「……誰」
声のトーンは軽い。でも、目がちゃんとこちらを見ている。冗談半分の確認に見せて、安心のための確認だ。
「昨日付き添った友達だよ」
「ふーん」
アリスが少しだけ頬を膨らませる。分かりやすい。嫉妬というより、置いていかれる怖さの名残だ。俺は作業の手を止めずに言った。
「特に何も無かったよ」
「うん……」
アリスは一拍置いて、俺の机の端を指でトントン叩いた。
「じゃあ、褒める」
「何を」
「ちゃんと線を守ってる」
その言い方が真面目で、俺は少しだけ笑った。
「お前も褒められる側だろ。今日仕切ってた」
「えへへ」
アリスが照れたように笑う。照れた顔のまま、少しだけ声を落とした。
「……ねえ、隆太郎」
「ん?」
「今日、帰り一緒に帰れる?」
「帰れる」
即答すると、アリスの肩が少しだけ落ちた。緊張が抜ける動き。俺はそれを見て、胸の奥で小さく頷いた。安心はこうやって積むしかない。
※ ※ ※
作業が一段落したのは、すっかり日が傾いた頃だった。
教室に貼った試作品のガーランドが、夕方の光を受けて少しだけ綺麗に見えた。紅葉の色は確かに赤だけじゃない方がいい。アリスの感覚は正しかった。俺はメニュー表の原案をプリントし、担任に見せるためにまとめる。今日は“進んだ”という実感がある。これが学校行事の気持ちよさだ。
帰り道、アリスと並んで歩く。夕方の風が少し涼しくて、昼間の熱が薄れる。アリスが紙袋の残りを持っていて、俺が少し多めに持つ。歩きながら、アリスが言った。
「文化祭、ちょっと楽しみになってきた」
「今さらか」
「今さら。だって、準備って意外と楽しい」
「揉めるのも?」
「揉めるのも楽しい。みんな必死で可愛い」
「言い方が上からだ」
「上からじゃない。愛」
アリスが笑う。俺も笑う。こういう笑いは、最近ようやく戻ってきたものだ。
太刀川家の前で立ち止まった時、アリスが小さく言った。
「隆太郎、お願い!」
俺はちゃんと言った。
「好きだよ」
アリスが満足そうに頷く。
「うん。じゃあ、明日も頑張れる」
それを聞いて、俺も少しだけ頑張れる気がした。
文化祭は、秋の行事だ。
秋は、前へ進む季節だ。
俺たちは今、その季節の入口に立っている。
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