文化祭の準備
眠気の残る目で制服の袖を通し、顔を洗っても頭の奥がまだぼんやりしている。けれど、玄関を出て通学路を歩き始めると、身体が勝手に平日の速度へ戻っていく。人間の習慣は便利だ。
太刀川家の前にはアリスがいた。今日は髪が少しだけ丁寧にまとめられていて、鞄の横に例の紅葉ストラップが揺れていた。俺のも同じように鞄で揺れている。小さな一致が、思ったより心を落ち着かせる。
「おはよう」
「隆太郎!」
アリスは俺の鞄のストラップを見て、満足そうに頷く。
「よし、今日も秋」
「秋の押し売りやめろ」
「押し売りじゃない。共有」
言い切るのがアリスらしい。俺は少し笑って、歩き出した。並んで歩く。歩幅が揃う。会話が途切れても気まずくない。それだけで、週の始まりが少しだけ楽になる。
学校に着くと、いつもの雑音が広がっていた。休み時間に騒ぐ声、先生の注意、廊下の足音。夏休みの頃はこの雑音さえ恋しかった。今はただ、生活の一部として受け取れる。
ホームルームの前、教室の空気が少しざわついているのに気づいた。担任が来る前に、クラスの誰かが黒板に大きく書いている。
『文化祭 出し物決め』
文化祭。
その文字だけで、教室の温度が少し上がる。事件の話題とは別の方向に、みんなの興味が向く。未来の予定が教室に入ってくると、空気が軽くなる。俺はそれが好きだ。
担任が入ってきて、出席を取り、淡々とした声で言った。
「はい、今週から文化祭準備に入る。出し物を決めるぞー。意見出していけ」
クラスが一斉にざわっとする。誰かが「やった」と言い、誰かが「めんど」と言う。毎年同じ反応。だけど今年は、その毎年がありがたいと思ってしまう。
担任が黒板に案を並べさせ、司会役を決め、班を作り、あっという間に“話し合いの地獄”が始まった。
「お化け屋敷でいいじゃん」
「定番すぎ」
「じゃあカフェ」
「接客誰がやんの」
「俺やだ」
「じゃあ展示系」
「地味」
「地味は嫌」
テンポよく揉める。揉め方が高校生っぽい。俺は輪の外側で聞いているだけのタイプだが、今日はアリスが妙に前に出ていた。女子の方に混ざりながら、でも男子の意見にも耳を傾けて、落とし所を探している。
アリスはこういう場だと強い。明るさが武器になる。人の表情を見て、言い方を変えられる。夏の間、怖さで縮んだ分を、今ここで取り戻そうとしているみたいだった。
「ねえ、さっきの“カフェ”さ、接客が嫌ならさ、セルフ式にしたら?」
アリスが言う。
「セルフ式?」
「うん。最初に券買ってもらって、受け渡しだけ。注文聞くのが嫌な人もいるでしょ?」
女子が「それいい」と言い、男子も「それなら…」と反応する。確かに落とし所としては強い。担任が「じゃあ飲食は衛生どうする」だの言い出して、別の揉めが始まるけど、それでも“進む揉め”になった。
俺は、アリスの横顔を見ながら思った。
こういう姿が見たかった。
怖さを抱えたままでも、ちゃんと前に出て、生活を作る姿。事件の影があっても、笑って、周りを巻き込んでいく姿。それができるなら、アリスはまだ折れていない。
結局、クラスの出し物は「秋のセルフカフェ(焼き菓子+ドリンク)」で落ち着いた。秋っぽさはアリスが押し込んだ。黒板に「秋」という文字が書かれた瞬間、アリスが俺を見てニヤッとした。
……やめろ、その顔。
昼休み、俺がパンを齧っていると、アリスが弁当を持って隣に来た。
「決まったね」
「決まったな。お前の秋が勝った」
「勝ったじゃない。浸透した」
「言い換えが腹立つ」
アリスが楽しそうに笑う。笑いながら、声を落とした。
「ねえ、隆太郎。文化祭、一緒に回ろうね」
「当たり前だろ」
俺が答えると、アリスが少しだけ照れた顔をした。
「……当たり前って言うの、好き」
言われて俺の方が照れる。こういう会話の温度が戻るだけで、胸が少し軽くなる。
放課後は、早速準備の段取りを決めることになった。買い出し班、装飾班、メニュー班。俺は目立つのが苦手なので、装飾班に入れられそうになったが、アリスが「隆太郎は手先器用じゃないから」と余計なことを言ってメニュー班へ回された。
「おい」
「事実でしょ」
「事実でも言うな」
「でも、メニュー班の方が向いてるよ。計算とかできるし」
褒めてるのか貶してるのか分からない。だが、言い方がアリスらしくて、俺は結局笑ってしまった。
帰り道、今日は一緒に歩けた。校門から商店街の手前まで、会話は文化祭の話ばかりだった。
「メニューさ、栗入れたい」
「お前の栗ブームいつまで続くんだ」
「秋が終わるまで」
「長い」
「長いから楽しいんだよ」
アリスは本気で楽しそうだった。俺も、その楽しさに引っ張られる。怖さは消えない。けれど、怖さだけに支配されない日が増えている。
太刀川家の前で、アリスが立ち止まった。
「隆太郎、今日も言って」
最近の合図みたいになっている。俺は躊躇せず言った。
「好きだよ」
アリスが目を細めて、満足そうに頷いた。
「うん。じゃあ、明日も頑張れる」
それを聞いて、俺も少しだけ頑張れる気がした。
自宅へ戻る道すがら、スマホが震えた。短い通知。天音アイラからだった。
『ハンカチ、ありがとうございました。迷惑かけません。』
それだけの文。律儀で、距離がある。俺は余計な会話を増やさず、短く返した。
『気にしないで。気をつけて』
送って、スマホをしまう。
俺の生活の中心は変わらない。文化祭の準備が始まって、アリスが笑って、クラスがわちゃわちゃして、日常が前へ動く。
それが、今の俺にとっての“回復”だった。
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