休日の続き
駅前のモールを出た瞬間、胸の奥に溜まっていたものが少しだけほどけた。
ハンカチを返した。それだけ。線も引いた。余計な誤解が生まれないように、短く終わらせた。自分で決めた手順を守れたことが、思った以上に効いた。俺は息を吐いて、アリスに送ったメッセージをもう一度確認する。
『終わった。ハンカチ返したよ。今から帰る』
既読がつき、すぐ返事が返ってきた。
『おつかれ! 午後、どこ行く? 秋っぽいの!』
その文面だけで、肩の力が抜けた。アリスは、俺が戻る場所だ。こういう戻り方ができるなら、余計なものに引きずられずに済む。
俺は歩きながら返信した。
『アリスの家の前で合流してから決めよう。歩いて行けるとこ』
『了解! 着替える!』
元気な返事。作ってる元気じゃなく、ちゃんと元気なやつだ。休日はこういう温度でいい。
太刀川家の前へ向かう道は、いつもより少しだけ明るく見えた。日差しはまだ強い。でも風は軽い。蝉の声は薄く、代わりに家の窓から生活音が漏れている。子どもの声、包丁の音、テレビの音。そういう音があるだけで、街は事件の舞台じゃなくなる。
門の前に着くと、しばらくして玄関が開き、アリスが出てきた。
着替えると言っていた通り、私服だった。淡い色のワンピースに薄いカーディガン。髪は軽くまとめていて、休日の顔をしている。俺を見つけると、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「隆太郎!」
「おう」
アリスは俺の顔をじっと見て、ぱっと笑う。
「……うん。大丈夫そう」
「何が」
「顔。ちゃんと戻ってる」
戻ってる。そう言われると、胸が少し熱くなる。俺は自分の顔のことなんて分からない。でも、アリスは分かる。分かって、言ってくれる。
「そっちは?」
俺が聞くと、アリスは一瞬だけ頬を膨らませてから、すぐに笑った。
「私は元気。デートするから」
「栗パンの時と同じノリだな」
「同じノリでいいの。休日だから」
アリスが腕を組んでくる。くっつき方が自然で、少しだけ照れる。けど、こういう距離感が戻ってきているのは嬉しい。
「で、秋っぽいのって何だよ」
「うーん……とりあえず歩きたい」
「雑」
「歩くと秋っぽい気がするもん」
アリスは本気で言っている顔だった。俺は笑いそうになりながら頷く。
「じゃあ、商店街の方行くか」
「うん!」
商店街は休日らしく賑わっていた。家族連れ、学生、観光っぽい人。屋台まではないけれど、店先に季節限定の文字がちらほらある。焼き菓子の店に「さつまいも」、和菓子屋に「栗」、喫茶店に「かぼちゃ」。そういう単語を見るだけで、確かに秋の気配がする。
アリスはそれを見つけるたびに、いちいちテンションが上がった。
「見て、栗!」
「前も栗だっただろ」
「栗は秋の王様」
「王様多すぎ」
「秋は王様が多いの」
意味が分からないのに、勢いで押し切られる。アリスのこういうところが、俺は好きだ。頭を空っぽにして笑える。
商店街の端に、小さな雑貨屋があった。季節の飾りや小物が並んでいて、アリスが吸い寄せられるように入っていく。
「ちょっと見るだけ!」
「そう言って長いんだろ」
「長くない! たぶん!」
店内は木の匂いがした。小さな風鈴のような飾り、紅葉のモチーフのストラップ、手帳カバー。アリスは目を輝かせて棚を眺め、時々俺に「これどう?」と聞いてくる。俺はセンスがある方じゃないのに、聞かれると真面目に考えてしまう。
「これ、アリスっぽい」
「どこが」
「明るい色」
「雑!」
「でも似合う」
そう言うと、アリスが少しだけ顔を赤くして、視線を逸らした。
「……そういうの、さらっと言うのずるい」
「褒めただけだ」
「褒め方がずるい」
アリスは文句を言いながら、結局そのストラップを買った。小さな袋を受け取って、嬉しそうに俺の前で揺らす。
「おそろいにしよ」
「俺も?」
「うん。これ」
同じデザインの色違いを指差される。俺は一瞬迷ってから、頷いた。
「じゃあ買う」
「やった」
会計を済ませて店を出ると、アリスがストラップを袋から出して、その場で自分の鞄につけた。小さな金具を器用に引っかけて、満足そうに頷く。
「見て、秋」
「それ秋の定義が広いな」
「いいの。秋っぽい気分になれば秋」
アリスの理屈はいつもこうだ。だが、実際少しだけ気分が変わる。さっきまでの胸の固さが、ほんの少し緩む。こういう小さな“気分”が、今は貴重だ。
歩いていると、ふいにアリスが俺の袖を引いた。
「隆太郎」
「ん?」
「……朝の用事、終わったって言ってたけど、変なことなかった?」
やっぱり気にしている。アリスが直接聞かなかったのは、信じようとしてくれたからだ。それでも、完全に気にならないわけじゃない。
「変なことはない」
俺はまずそう答えた。嘘ではない。
「ハンカチ返しただけ。短く終わった」
「うん」
アリスは頷いたが、目が少しだけ揺れる。俺は続けた。
「先に言っとく。俺は余計な誤解作るつもりない。だから、人が多いとこで、短く、って決めてた」
アリスの表情が少しだけ柔らかくなる。
「……ちゃんと考えてくれてたんだ」
「当たり前だろ」
アリスは小さく笑って、俺の腕に軽く寄りかかった。
「じゃあ、私も頑張る」
「何を」
「嫉妬しすぎないように」
素直すぎて、俺は言葉に詰まった。アリスの嫉妬は可愛いだけじゃない。不安が根にある。根を見ないふりはしない方がいい。
「嫉妬してもいい」
俺は言った。
「でも、俺が戻ってくるとこは変わらない」
アリスは目を瞬かせて、それから、少し照れた顔で頷いた。
「……うん。じゃあ、今日のデート続き!」
話を切り替える速さがアリスらしい。重くしすぎないように、自分で空気を動かす。そういうところも、強さだと思う。
※ ※ ※
商店街の奥にある小さなカフェに入った。窓際の席。冷たい飲み物と、季節限定のケーキ。アリスは迷わず栗のタルトを選んで、俺はシンプルなチーズケーキにした。
「また栗」
「また栗!」
アリスが誇らしげに言うから、俺は負けた気分になる。
ケーキを食べながら、アリスは学校の話をした。友達の話、委員の作業の話、文化祭が近いらしいという話。文化祭、という単語が出た瞬間、少しだけ胸が軽くなる。事件の話じゃない未来の予定が、生活の中に入ってくるのは良いことだ。
「文化祭、何やるんだろ」
アリスが言う。
「まだ決まってないだろ」
「でも、決めるの楽しそう」
「お前、そういうの好きだよな」
「うん。みんなでわちゃわちゃするの、好き」
アリスがそう言って笑った。その笑い方が、夏休みの頃より自然だった。俺はその笑顔を見て、少しだけ確信する。
こういう時間を守るために、俺は動いている。
帰り道、日が少し傾いていた。商店街の影が長くなって、風が涼しくなる。アリスが小さく言った。
「隆太郎、今日、ありがと」
「何が」
「ちゃんと休日してくれた」
ちゃんと休日。いい言葉だと思った。俺は最近、休日でも緊張していた。けれど今日は、ほんの少しだけ緊張が薄い。
「お前のおかげだ」
俺が言うと、アリスが満足そうに頷く。
「うん。じゃあ、またする」
「またするって、休日を?」
「デートを!」
即答されて、俺は笑った。
太刀川家の前まで来ると、アリスが立ち止まった。今日は別れるのが少しだけ名残惜しい顔。俺も同じかもしれない。
「ねえ、隆太郎」
「ん」
「最後に、もう一回言って」
「何を」
「分かってるくせに」
アリスが頬を膨らませる。休日の顔。俺は少しだけ笑って、ちゃんと言った。
「好きだよ」
アリスが目を細めて、満足そうに笑った。
「うん。じゃあ、また明日も頑張れる」
その言葉が胸に残った。好きだと言うことが、明日を頑張るための燃料になる。そんな状態が、少し切ない。でも、それだけ必要とされているのも事実だ。
俺は頷いて、自宅へ戻った。
夜、スマホにアリスからストラップの写真が送られてきた。鞄につけた赤い紅葉の飾り。小さな秋。俺は短く「似合ってる」と返した。
その後、何も起きなかった。
何も起きない夜は、ありがたい。
けれど、何も起きないことに慣れすぎたらいけないとも思う。事件は終わった“ことにされて”いるだけかもしれない。佐野の言葉が、ふと脳裏をよぎる。
だから、油断はしない。
でも、休日はちゃんと休日にする。
そのバランスを、今日少しだけ掴めた気がした。
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