とある日の休日
あの夜、天音アイラから送られてきたメッセージは短かった。
『……昨日は、ありがとうございました。おやすみなさい』
それだけ。絵文字もない。句読点も控えめで、文章の端が小さく震えているみたいだった。返した方がいいのは分かる。でも、返し方を間違えると距離が崩れる気がして、俺は一度だけ深呼吸してから短く返した。
『おやすみ。無理しないで』
それ以上は送らない。送れば送るほど、会話の形ができてしまう。今の俺に必要なのは、無駄な形を増やさないことだ。
翌日からの平日は、普段通りの顔をして進んだ。
授業、提出物、小テスト。休み時間のくだらない会話。放課後の校門の空気。アリスは委員の仕事や友達とのやり取りで、少しずつ学校に根を戻していた。笑顔の頻度が増えて、声の明るさも戻ってくる。その変化を見るたび、俺は救われる。
一方で、俺の中には小さな“処理”が増えていた。
アイラのハンカチを返す、という用事。
ただそれだけなのに、気を遣う点が多い。相手が人見知りであること。誤解を作らないこと。アリスの安心を揺らさないこと。自分が変に引っ張られないこと。全部が絡むと、ただの返却が面倒なイベントみたいになる。
だから、決めていた。
会うなら短く。
場所は人が多いところ。
用件が終わったら即帰る。
それが平日の間に固めた俺のルールだった。
※ ※ ※
土曜日の朝、目覚ましより先にスマホが震えた。
画面に表示されたのは、見慣れないアイコン。天音アイラからだった。
『おはようございます。ハンカチ、返してほしいです。もし迷惑じゃなければ、今日少しだけ会えますか……?』
文末の「……?」がやけに小さく見えた。断られる前提で書いている。お願いをするだけで、彼女なりに相当勇気を出しているのが分かる。
俺は布団の中で一度だけ息を吐いた。
会うこと自体は問題ない。俺が返すと言った。約束は守る。だが、状況は整える。余計な誤解も、余計な不安も増やさない。
俺は短く返した。
『大丈夫。12時に駅前のショッピングモール入口で。ハンカチ渡すだけ。5分くらい』
既読はすぐについた。
『ありがとうございます……! 5分で大丈夫です……!』
大丈夫。安心したい気持ちが漏れている。
俺はスマホを伏せて起き上がった。顔を洗い、着替え、朝食を口に入れる。母さんが「出かけるの?」と聞くので「ちょっと用事」とだけ答えた。必要以上に話を広げない。今はそれが一番いい。
それからアリスにも送る。
『昼にちょっと用事。終わったら連絡する。午後会える?』
すぐ返事が来た。
『うん! 午後空いてる! 用事ってなに?』
疑問は当然だ。隠しているように見えるのは嫌だった。でも、細部を言って余計な不安を増やすのも違う。俺は言葉を選ぶ。
『この前助けた子にハンカチ返すだけ』
少し間が空いて、アリスから返ってきた。
『分かった! 気をつけて。終わったらすぐ言ってね』
“気をつけて”と“すぐ言ってね”。アリスなりの安心の条件だ。俺は短く返した。
『うん』
※ ※ ※
駅前のショッピングモールは休日らしく人が多かった。
家族連れ、学生、買い物袋を提げた人。人の波が途切れない。こういう場所なら、変なことは起きにくい。起きにくい、というだけでゼロじゃないのが嫌だが、現実はいつだってゼロじゃない。
俺は入口の少し横、邪魔にならない位置で待った。時計を見る。十一時五十八分。約束まであと二分。
人の流れの中に、アイラはいた。
近づく速度が遅い。躊躇している。服装は地味なカーディガンと控えめな色のスカート。髪は下ろしていて、視線は地面に落ちている。人の波の中にいるのに、なるべく目立たないように縮こまっている感じがあった。
アイラは俺に気づいた瞬間、びくっと肩を跳ねさせた。そして小さく会釈をして、二歩だけ近づいて止まる。近づきすぎない距離。逃げ道を残す距離。
「……こんにちは」
声は小さい。
「こんにちは。来てくれてありがとう」
俺が言うと、アイラは一瞬だけ目を上げそうになって、すぐ逸らした。
「……すみません……来て」
「謝らなくていい。約束だから」
俺はそう言って、持ってきたハンカチを出した。綺麗に畳んである。アイラがそれを見て、少しだけ息を飲む。
「……ありがとうございます」
「はい」
手渡すと、アイラは両手で受け取った。受け取り方が丁寧すぎて、こっちが変に緊張する。ハンカチを胸元に抱えるようにして、彼女は小さく頭を下げた。
「……迷惑、じゃなかったですか」
「迷惑じゃない」
俺は即答した。
「でも、今日はこれで終わり。短い方が、お互い楽だろ」
アイラの目が少し揺れる。寂しいのか、安心なのか分からない。でも、どちらにせよ、今は短い方がいい。
「……はい」
返事は素直だった。素直すぎて、逆に胸が痛む。彼女は断るのが苦手なんだろう。だから、こちらが線を引く必要がある。
俺は一つだけ確認した。
「この前のことで、また嫌なことされてない?」
アイラは首を振った。
「……されてないです。あれから、怖くて……人の多いところだけ歩いてます」
「それがいい」
俺が言うと、アイラはほんの少しだけ安心した顔をした。
沈黙が落ちる。人の多い場所の沈黙は、逆に際立つ。アイラは何か言いたそうにして、言えずにいる。唇が少し開いては閉じる。その繰り返し。
そして、ようやく小さく言った。
「……宮本さん」
「ん?」
「……彼女さん、優しそうですか」
意外な質問だった。けれど、質問の仕方が回りくどい。本人の中で言い換えた末に出てきた言葉だと分かる。
「優しい」
俺は短く答えた。
「俺には、もったいないくらい」
言った瞬間、アイラの指がハンカチをきゅっと握った。表情は大きく変わらないのに、そこだけが動く。何かが胸の中で揺れた動き。
「……そう、ですか」
声が少しだけ沈む。
俺はその沈みを、深読みしないことにした。深読みすれば、余計な意味が生まれる。意味を生めば、誰かが傷つく。
だから、話を着地させる。
「じゃ、俺は行く。気をつけて帰って」
「……はい」
俺が半歩下がると、アイラも同じように会釈をした。去ろうとしたその時、アイラが小さく言った。
「……あの」
俺が振り返ると、アイラは視線を落としたまま、蚊の鳴くような声で言った。
「……また、何かあったら……言っていいですか」
言っていいですか、という言い方が、彼女の勇気の形だった。頼っていいかどうかを許可してほしい。その程度の距離にしか、まだ立てない。
俺は頷いた。
「いいよ。でも、危ない時はまず大人か警察。俺は最後の補助」
「……はい」
その返事が、少しだけ明るかった。
アイラは小さく会釈をして、人の波へ戻っていった。歩き方は慎重。でも、来る時より背中が少しだけ軽い気がした。
俺はすぐにスマホを取り出し、アリスに送った。
『終わった。ハンカチ返したから、今から帰る』
送信して、胸の奥が少しだけ落ち着いた。報告する。それだけで、軸が戻る。
帰り道、モールのガラスに自分の姿が映った。変な顔はしていない。大丈夫だ。余計なことは増やしていない。
午後、アリスと会う。
今日の“休日”は、そこからが本番だ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




