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連絡先の交換

 月曜日の朝は、休日の余韻を雑に剥がしてくる。


 目覚ましの音がやけに刺さるし、制服のシャツは少しだけ硬く感じる。外へ出れば空は高いのに、身体はまだ休日の速度を引きずっている。俺はため息を飲み込みながら、いつもの通学路を歩いた。


 太刀川家の前にはアリスがいた。今日は制服の襟をきっちり整えていて、髪もいつもより丁寧にまとめている。本人はたぶん気づいていないけど、こういう小さな変化で気合いの入り方が分かる。


「隆太郎」


「おはよう」


 アリスは俺の顔を見て、少しだけ笑った。


「土曜日、楽しかった」


「栗パンのせいだろ」


「栗パン“も”ね。ちゃんとデートだったから」


 そう言ってアリスが胸を張る。胸を張るほどのことかと思うのに、あの子にとっては大事なんだろう。事件とか不安とか、そういうものが生活に混ざってしまった今、“ちゃんとデート”と言い切れる時間が貴重だ。


「また行くか」


「うん。次はもっと秋っぽいの」


 秋っぽい、という言葉の曖昧さがアリスらしくて、俺は少し笑った。


 並んで歩く。歩幅が揃うと、それだけで胸が落ち着く。こういう当たり前を当たり前にするために、俺たちは積み上げている。


 学校に着くと、いつものざわめきが広がっていた。友達同士の笑い声、先生の小言、廊下を走る足音。事件の影が遠くに感じる。遠くに感じる瞬間があるだけで、人は呼吸ができる。


 アリスは教室に入ると、すぐに女子の輪に呼ばれていった。最近、そういう場面が増えた。最初は緊張していたのに、今は自分から笑って返事ができる。ちゃんと戻っている。そう思うと、胸の奥がじんわり温かい。


 その温かさがあるから、俺は今日も平気な顔ができた。


 ……できていた、はずだった。


 ※ ※ ※

 

 放課後、授業が終わって教室がゆるむ中、アリスが俺のところへ来て小声で言った。


「隆太郎、ごめん。今日ちょっとだけ残っていい?」


「残る?」


「うん。委員の作業。先生に呼ばれてる」


 アリスは申し訳なさそうにしながらも、ちゃんと前を向いている顔だった。学校の中で役割を増やすのは、たぶんアリスにとっても大事な一歩だ。


「分かった。終わったら連絡してくれ」


「うん。すぐ帰る」


 アリスは小さく手を振って、教室の奥へ戻っていった。


 俺は一人で校門を出た。足音が一つになると、余計な考えが増える。だから歩く速度だけ一定にした。角を曲がり、商店街の裏道へ入る。街灯が点き始めて、夕方の匂いが少しだけ冷える。


 途中、ふと自販機の横に人影が見えた。


 壁際に寄り添うように立っている少女。小さな紙袋を抱え、視線を落としている。近づいた瞬間、昨日の記憶が重なった。


 天音アイラだ。


 アイラは俺に気づいて、びくっと肩を跳ねさせた。逃げると思ったが、逃げなかった。逃げない代わりに、固まった。口を開こうとして、閉じて、また息を吸う。


 俺は距離を詰めずに、立ち止まったまま声をかけた。


「……昨日は、もう大丈夫だった?」


 アイラは小さく頷いた。


「……はい……」


 声は小さい。でも、返事が出る。昨日より一歩だけ前に出ている。


 沈黙が落ちた。気まずい沈黙じゃなく、言葉の作り方を探している沈黙。


 しばらくして、アイラが鞄を抱え直しながら、小さく言った。


「……あの……宮本、さん……」


「ん?」


 アイラはポケットから小さく折った紙を出した。丁寧に畳まれた紙。この前の「ありがとう」と同じくらい慎重な手つきで、それを俺に差し出す。


「……これ……」


 受け取って開くと、短い文字が並んでいた。


『昨日、助けてくれてありがとうございました。ハンカチ、返してほしいです。もし迷惑じゃなければ、連絡先を教えてください。』


 その下に、小さくLINEのIDが書いてある。差のように俺の連絡先を勝手に知っているわけじゃない。“教えてほしい”と、ちゃんとお願いしている。


 俺は胸の奥の緊張が少しだけほどけるのを感じた。怖さがないわけじゃない。けど、これは普通のお願いだ。


「……分かった」


 俺は短く言って、スマホを取り出した。


「今ここで追加する? それとも、後で」


 アイラが目を丸くした。予想していなかった反応。たぶん、断られる方を想定していた。


「……い、いま……だいじょうぶ、です……」


 声が震えている。けれど、逃げない。


 俺はIDを検索して、追加画面を出した。


「これ?」


 画面を見せると、アイラが小さく頷いた。


「……はい……」


 俺は追加して、すぐに一文だけ送った。


『宮本です。昨日は大丈夫だった? ハンカチは次会った時返すよ』


 送信してスマホをしまう。ここで長引かせると、彼女は疲れる。


 アイラは紙袋を抱えたまま、少しだけ視線を彷徨わせた。それから、ぽつりと言った。


「……彼女さん……いる、んですか」


 小さな声。けれど、その質問には、ただの確認以上の揺れが混ざっていた。


 俺は余計に考えず、事実だけを返した。


「いる」


「……そう、ですか」


 アイラは俯いた。落ち込んだようにも見えるが、表情が読みきれない。人見知りの子の感情は、外に出る前に一度内側で折れる。


 俺は線をはっきりさせることにした。曖昧にすると、相手が苦しくなる。


「だから、変な誤解は作りたくない。ハンカチ返すのも、短く。人の多いところで」


 アイラは小さく頷いた。


「……はい……すみません」


「謝らなくていい」


 俺は即答した。


「連絡するのは、普通だろ。困った時に困るから」


 アイラが一瞬だけ顔を上げた。驚いた目。次に、すぐに視線を落とす。けれど、口元がほんの少しだけ緩んだ気がした。


「……ありがとうございます……」


 その言い方が、昨日より少しだけ柔らかい。


 アイラは小さく頭を下げて、歩き出した。数歩進んだところで、ふっと立ち止まり、振り返る。目が合う。すぐ逸らされる。けれど、その一瞬に、昨日までとは違う色が混ざっていた。


 怖いだけじゃない。

 気になる、という小さな熱。


 俺はその熱に気づけなかった。気づこうともしていなかった。今の俺の中で優先すべきものは一つしかないし、そういう余計な意味を勝手に読み取るのは違う。


 アイラは小さく手を振って、今度こそ人の流れへ消えた。


 俺は息を吐き、歩き出した。


 スマホの画面には、さっき送った短いメッセージが残っている。

 その文字は淡々としていて、感情の居場所がない。


 それでいい。


 俺はアリスを大事にする。

 その軸を揺らさないために、余計なことを増やさない。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

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