ちょっとした嫉妬する休日
土曜日の朝は、平日より音が少ない。
車の通る回数が減って、通学路の足音が消える。代わりに聞こえるのは、遠くの掃除機の音とか、どこかの家の洗濯機の低い振動とか、鳥の声とか、そういう生活の裏側みたいな音だ。夏休みの頃は休日が怖かった。時間がありすぎて、考えすぎてしまうから。けれど最近は、少しずつ休日を休日として扱えるようになってきた。
朝食を食べ終えたところで、母さんが湯呑みを置きながら言った。
「今日、太刀川さんのところ行くの?」
「昼過ぎに」
「朝日ちゃん……じゃなくて、アリスちゃんは?」
母さんの言い直しが自然になっている。俺も少し前まで、呼び方の切り替えを意識しすぎて変に緊張していたけど、最近は呼び名のルールが身体に馴染んできた。
「午前は家で勉強するって」
「そう。……隆太郎も少し休みなさいよ。顔、硬い」
「硬くない」
「硬い」
母さんは容赦がない。俺は苦笑いして、皿を流しに運んだ。
自分でも分かっている。顔が硬い。事件のこと、佐野のこと、自首のニュース、そして“終わったことにされる”空気。その全部が、気づかないうちに俺の表情を固定している。
けれど今日は、少しだけ息を抜くと決めた。休日は休む日だ。休めないなら、休む練習をする日だ。
午前中、俺は自室で宿題を進めた。シャーペンの音だけが部屋に響く。ページをめくる音が、意外と落ち着く。頭の中が静かになる時間があると、逆に不安が大きくなることもある。でも、今日は大丈夫だった。大丈夫、というより、逃げずにいられた。
昼前、スマホが震えた。アリスからだ。
『今から少し散歩しない? コンビニ行きたい』
短い文。いつものアリスの調子。昨日までの不安の影が少し薄い。
俺はすぐ返信した。
『行く。太刀川家の前で待ってる』
家を出ると、日差しは強いけれど風が少しだけ涼しかった。真夏の重さとは違う。秋の入口の匂いが、ほんの少し混ざっている。
太刀川家の前に着くと、玄関が開いてアリスが出てきた。部屋着に近い格好。髪はラフにまとめていて、肩の力が抜けている。こういう姿を見ると、心が少しだけ軽くなる。守るべきものが“生活”としてそこにいるからだ。
「隆太郎」
「おう」
アリスは近づいてきて、俺の顔をじっと見た。
「……今日はちょっとだけ顔がマシ」
「褒めてんのか」
「褒めてるよ。休日だから」
アリスが小さく笑う。その笑いが自然で、俺は少し安心した。
コンビニまでは歩いて数分。近い。近いからこそ、生活の導線がこの街に固まっていく。固まるのは便利だけど、読まれやすい。佐野が言っていた導線の話が頭をよぎる。でも、今日はそのことを考えすぎないようにした。休日にまで神経を尖らせたら、俺たちは息ができなくなる。
コンビニに入ると、冷房の空気が頬に触れた。アリスが「あ、涼しい」と小声で言って、少しだけ嬉しそうに目を細める。些細な反応が可愛くて、俺は少し笑いそうになる。
アリスはアイスケースの前で悩み始めた。いつものことだ。
「どれにしよう……」
「また悩んでる」
「だってさ、休日のアイスって大事じゃん」
「平日のアイスは大事じゃないのか」
「平日のは“回復”で、休日のは“ご褒美”」
理屈が雑で可愛い。アリスは結局、少し高めのカップアイスを選んだ。俺は適当にバニラを取る。
会計を済ませて店を出たところで、アリスがふっと顔を上げた。
「……ねえ、隆太郎」
「ん?」
「今日、ちょっとだけ遠回りして帰らない?」
それは、ただの気まぐれに聞こえた。でも、アリスの目が少しだけ慎重だった。昨日のことや、最近のニュースが完全に消えたわけじゃない。だからこそ、アリスは“安全の工夫”を自分から提案できるようになっている。
「いいよ。川沿い行く?」
「うん。あそこ落ち着く」
俺たちは川沿いの遊歩道へ向かった。風が通る。水面が光る。人の気配が適度にある。ベンチに座ってアイスを食べる。こういう時間が、俺たちの休日だ。
アリスはスプーンでひと口食べて、目を閉じた。
「……うん。幸せ」
「アイスで幸せって安いな」
「安くない。今の私には高級」
アリスが言って、少しだけ笑う。
俺は、その笑い方を見て思う。アリスは少しずつ“日常で幸せを感じる感覚”を取り戻している。事件がどうとか、佐野がどうとか、そういうものに飲まれきらずに、こうしてアイスで幸せと言える。
その時、アリスが突然、真面目な顔になった。
「隆太郎」
「ん」
「最近、私……嫉妬してるかも」
「今さら?」
「今さらじゃない。……今さら“気づいた”」
アリスがスプーンを持ったまま言う。目が少しだけ不安そうだ。
「誰に」
俺が聞くと、アリスは少しだけ頬を膨らませた。
「天音アイラ」
名前が出た瞬間、俺の心臓が少し跳ねた。アリスは何も知らないはずだ。俺はアイラのことをアリスに話していない。なのに、名前が出たのは――雑誌の件があるからだ。佐野が見せた。だからアリスの中にもその名前が残っている。
「……なんで」
俺が言いかけると、アリスが先に言った。
「隆太郎、最近その子の話題になると、ちょっとだけ顔が変わる」
鋭い。アリスは俺の顔を見すぎている。
「変わってねえよ」
「変わってる。……気になる顔してる」
その言い方が不安そうで、俺はすぐに否定したくなった。けれど、否定だけでは足りない。アリスは“安心の根拠”が欲しい。
「アリス」
「なに」
「俺が大事なのはお前だ」
俺が言うと、アリスの頬が少し赤くなる。でも、すぐに視線を逸らす。
「……そういうの、言うのずるい」
「ずるくていいんだよ」
「よくない」
「じゃあ、どう言えばいい」
俺が聞くと、アリスはスプーンを持ったまま、少しだけ考えてから言った。
「……私の方見てるって分かる言い方」
俺は息を吸って、正面から言った。
「見てる。ずっと」
アリスの目が揺れた。少し潤む。けれど、泣かない。泣く前に、笑った。
「……うん。じゃあ大丈夫」
その返事が出れば、今日は成功だと思った。
俺はアイスを食べながら、頭の中で自分にもう一度言い聞かせた。アイラのことは、助けた。それだけだ。そこに余計な意味を足すな。アリスを不安にさせる必要はない。
ベンチの隣で、アリスがぽつりと言った。
「今日さ、午後、ちょっとだけデートしたい」
「デート?」
「うん。大げさじゃなくていい。秋っぽいもの見に行きたい」
秋っぽいもの。アリスらしい言い方だ。
「どこ」
「商店街の向こうのパン屋。限定の栗パン出てるって」
「それはデートなのか」
「デート!」
アリスが即答して、俺は笑った。
「じゃあ行くか」
「やった」
こういうやり取りをしていると、事件がどこか遠くに感じる。遠くに感じる時間があるだけで、人は少し回復する。
午後、俺たちは商店街のパン屋へ行った。栗の香りが店の外まで漏れていて、アリスが目を輝かせる。店員が「限定です」と言いながら袋に入れてくれる。アリスがそれを大事そうに受け取って、俺に小さく見せた。
「見て、秋」
「パンで秋を表現するな」
「秋だもん」
アリスが笑う。俺もつられて笑う。
帰り道、アリスが手を差し出してきた。
「手、繋ぐ」
「命令形だな」
「休日だから」
理由になってるようでなってない。けど、俺は黙って手を繋いだ。指先が温かい。さっきまで少し冷たかったのが、歩いてるうちに戻っている。
太刀川家の前まで来て、手を離すのが少しだけ名残惜しかった。アリスも同じ顔をしていた。
「また、夜に会う?」
「うん。勉強少し見る」
「じゃあ、待ってる」
アリスが家に入っていくのを見送って、俺は自宅へ向かった。休日は休憩のはずなのに、守ることは休めない。でも、守り方は少しだけ柔らかくできる。今日はそれができた気がした。
夜、太刀川家に寄って少し勉強を見た後、帰り道を歩きながら空を見上げた。星は少ない。街の灯りが強いからだ。それでも、空の高さだけはよく分かる。夏とは違う高さだ。
明日からまた平日が始まる。
けれど、今日みたいな休日があるなら、俺たちはちゃんと前に進める気がした。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




