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ありがとうの一言

 翌朝、俺は昨日のハンカチを机の引き出しにしまった。


 見えるところに置いておくと、余計なことを考えてしまう。考えたくないわけじゃない。ただ、優先順位を間違えたくなかった。俺にはアリスがいる。守ると決めた相手がいる。だから、余計な揺れを自分で増やすのは違う。


 アリスと合流して、学校まで歩く。門の前で待っていたアリスは昨日より表情が軽く、友達と帰った話を少しだけ照れながら続けた。俺はそれを聞きながら、胸の奥が静かに落ち着いていくのを感じる。


 こういう“普通の話”が、俺たちを戻してくれる。


 そして同時に、俺は自分に釘を刺していた。


 昨日の出会いは偶然だ。

 助けたのも、その場で必要だったからだ。

 だからといって、そこに余計な意味を乗せるな。


 ※ ※ ※


 放課後。


 今日はアリスと一緒に帰った。最近の“安全の型”が戻ってきている。並んで歩いて、途中で少しだけ会話して、太刀川家の前で別れる。俺は自宅へ戻り、夕飯を食べて、少し落ち着いたら太刀川家へ寄る。ルーティンは、心を守る枠になる。


 太刀川家の前でアリスが言った。


「隆太郎、今日、顔ちょっと柔らかい」


「そうか」


「うん。いい感じ」


 それだけ言って、アリスは少し笑って家に入った。俺はその背中を見送ってから、自分の家へ向かった。


 夜、母さんに頼まれた買い物があって、近所のコンビニへ行くことになった。牛乳と、卵と、切れていた電池。日常の用事。こういう用事ができること自体が、ありがたいと思ってしまうのが最近の俺だ。


 コンビニからの帰り道、商店街の裏の道を通った。昼より暗く、街灯がぽつぽつと灯っている。人通りは少ない。こういう道は本当は避けるべきだと分かっているのに、近道だからつい選びそうになる。危ない癖だ。


 角を曲がったところで、俺は足を止めた。


 壁際に、誰かが立っていた。街灯の光が届かない影の部分。人影が小さく、でも確かにそこにいる。


 近づく前に分かった。


 天音アイラだ。


 制服ではない。私服。地味なパーカーに、細身のパンツ。髪は下ろしたまま。昼に見た時よりさらに存在感が薄い。夜の影に溶けるみたいに立っている。なのに、手には小さな紙袋。コンビニのロゴが見える。買い物帰りなのかもしれない。


 俺は一歩進んで、すぐ止まった。


 距離を詰めたら、彼女は逃げる。

 追いかけたら、彼女はもっと怖がる。


 それが昨日の感覚で分かっていた。


 だから、声をかける前に自分の足を落ち着かせる。ゆっくり呼吸して、声のトーンを抑える。


「……こんばんは」


 俺が言うと、アイラはびくっと肩を跳ねさせた。反射だ。振り返って俺を見て、すぐ視線を逸らす。逃げる準備の身体。でも、逃げなかった。


「……こんばんは」


 小さな声。返事が出た。昨日より一歩進んでいる。


「この辺、暗いな。……大丈夫? 帰るところ?」


 俺が聞くと、アイラは小さく頷いた。


「……はい」


 紙袋を抱える腕が少し強張っている。怖がっているのが分かる。俺はそれ以上距離を詰めず、角度だけ変えて、彼女の進行方向の邪魔にならない位置へ移動した。道を塞がない。それだけでも圧は減る。


「この道、帰り道に使ってるの?」


 アイラが小さく頷く。


「……近い、ので……」


「……そうか。暗いから気をつけて」


 俺はそれだけ言って終わらせるつもりだった。


 けれど、アイラが紙袋の上から指を少しだけ動かして、口を開いた。


「……宮本、さん」


「ん?」


 呼び方がまだぎこちない。でも、呼んだ。


 アイラは視線を落としたまま、紙袋から何かを取り出した。


 小さな封筒。いや、封筒というより、折った紙だ。手紙みたいに丁寧に折られている。そこに小さく、震えた字で書かれているのが見えた。


『ありがとう』


 それだけ。


 俺は言葉を失った。


 わざわざ用意したんだ。昨日助けたことへの礼を、言葉だけじゃなく形にして渡そうとした。人見知りの子が、ここまでやるのは相当だ。


「……これ、俺に?」


 俺が聞くと、アイラは小さく頷いた。


「……昨日……」


 言葉が続かない。けれど、十分だった。


 俺は受け取った。受け取る時、指先が少し触れた。彼女の指が冷たい。夜風のせいだけじゃない。緊張の冷たさだ。


「ありがとう」


 俺が言うと、アイラは目を瞬かせた。礼を言われると思っていなかったのかもしれない。


「……いえ……」


 声が消えそうに小さい。


 沈黙が落ちる。夜の静けさが強調される。俺はこの沈黙を、無理に埋めたくなかった。彼女のペースを壊したくない。


 だから、こちらから余計な質問はしない。その代わり、必要なことだけ言う。


「昨日みたいなことがあったら、逃げていい」


 アイラの目が少し揺れる。


「……逃げるの、得意です」


 ぽつりと、乾いた冗談みたいに言った。自虐にも聞こえる。俺は笑っていいのか迷ったが、笑わないと彼女の言葉が重くなる気がした。


「なら、生き残るのも得意だ」


 俺が言うと、アイラが一瞬だけ顔を上げた。ほんの一瞬、目が合う。驚きと、困惑と、少しだけの安心。


「……へん、なこと言う」


「変でもいい。生き残るのが一番大事だ」


 言ってから、自分の言葉が少し重いと気づいた。事件の影が俺の言葉を硬くしている。でも、こういう道で女の子が一人でいるのは危ない。それは現実だ。


 アイラは紙袋を抱え直して、小さく言った。


「……私、撮影……」


「撮影?」


 俺が聞き返すと、アイラはしまったという顔をした。言い過ぎた、という顔。それでも、言ってしまったから続けるしかない。


「……明日……雑誌の……」


 雑誌。そこで繋がる。俺の胸の奥が少しだけざわついた。


「読者モデル?」


 俺が聞くと、アイラは小さく頷いた。


「……いやで……でも……」


 嫌なのに、やる。事情がある。お金か、家庭か、何か。俺はそこに踏み込まない。踏み込んだら、彼女は逃げる。


「大変だな」


 俺はそれだけ言った。


 アイラが少しだけ肩を落とす。


「……大変、です」


 正直な返事だった。


 その時、遠くで男の笑い声がした。商店街の裏の道を歩く複数の足音。さっきのナンパ男じゃないかもしれない。でも、アイラの身体が一瞬で硬くなった。過敏というより、経験として刻まれている反射だ。


 俺は周囲を確認して、言った。


「家、どっち」


 アイラが指で、角の向こうを示す。俺は頷いた。


「そこまで一緒に行く。送るとかじゃない。……この道、今嫌だろ」


 アイラは一瞬迷って、でも小さく頷いた。


「……はい」


 俺たちは少し距離を空けて歩いた。横に並ぶと圧になるかもしれないから、半歩前を歩く。振り返れば彼女が見える距離。逃げ道を奪わない距離。


 角を曲がったところで、さっきの足音は遠ざかった。アイラの呼吸が少しだけ戻る。


「……宮本、さん」


「ん?」


「……さっきの、ありがとう、って……」


「受け取った。ちゃんと嬉しかった」


 アイラが小さく固まって、次に視線を落とした。耳が赤い。夜の光でも分かるくらい赤い。


「……そう、ですか」


 それだけ言って、あとは黙った。黙ったけれど、さっきまでの「逃げたい」沈黙じゃない。少しだけ落ち着いた沈黙だった。


 住宅街に入ると、灯りが増える。家の窓の光。自転車のライト。車のヘッドライト。生活の光があるだけで、夜道は急に優しくなる。


 アイラが立ち止まった。


「……ここです」


「分かった」


 俺は距離を保ったまま頷いた。


「気をつけて」


「……はい」


 アイラは小さく頭を下げ、玄関の方へ向かった。途中で一度だけ振り返る。昨日より長く目が合う。そして、小さく、口だけ動かした。


「……また」


 声は聞こえなかった。けれど、たぶんそう言った。


 俺はその言葉を、軽く受け取ることにした。重く受け取ると、余計な意味が生まれる。俺にはアリスがいる。だから、俺がやるべきことは、ただ一つだ。


 困っている人がいたら、手を貸す。

 それ以上でも、それ以下でもない。


 自宅に戻ると、母さんが「おかえり」と言った。


「遅かったわね」


「ちょっとだけ」


 俺はそれだけ答えた。余計な説明はしない。アイラのことは、俺の中でまだ整理がついていない。整理がついていないことを、アリスに持ち込むのは違う。母さんに話すのも、今じゃない。


 スマホを見ると、アリスからメッセージが来ていた。


『今から少しだけ勉強する! 隆太郎もする?』


 俺は少し笑って、返信した。


『する。頑張れ』


 送った瞬間、胸の奥が落ち着いた。アリスの言葉は、俺の生活の中心にちゃんとある。


 机に向かいながら、さっき受け取った「ありがとう」の折り紙を思い出す。


 あの小さな紙は、たぶんアイラにとっては大きな一歩だった。だから、その一歩を踏みにじらないように、俺は慎重でいたい。


 慎重でいることは、アリスを大事にすることにも繋がるはずだ。


 そう信じて、俺はシャーペンを握った。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

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