矛盾と揺れる心
次の日の朝、俺は昨日の出来事を何度も思い返していた。
街角でぶつかった少女。逃げるように去っていった背中。ナンパ男の手首を掴んだ瞬間の、妙に生々しい感触。そして、最後に一瞬だけ振り返って、こちらを見た目。
天音アイラ。
名前まで一致しているのに、俺の頭はまだ「偶然」と「偶然じゃない」の間を行ったり来たりしていた。考えすぎだ、と自分で言い聞かせても、胸の奥の引っかかりは落ちない。たぶん、理由は単純だ。
俺は“似ている”というものに、もう敏感になりすぎている。
だから、余計に厄介だ。何が現実で、何が過剰反応なのか、線が曖昧になる。
学校へ向かう途中、スマホが震えた。アリスからだった。
『今日は放課後、少しだけ友達と寄り道するね。ちゃんと帰る!』
絵文字が一つついている。アリスらしい。俺は短く返した。
『了解。気をつけろ。何かあったら連絡』
これだけで、胸の奥が少しだけ落ち着く。アリスが“自分の世界”を広げようとしているのが嬉しい。怖さを理由に狭くなるのが一番嫌だったから。
……なのに俺は今、別の少女のことを考えている。
その事実が、少しだけ後ろめたい。何もしていないのに、後ろめたいのが嫌だった。
※ ※ ※
放課後、俺は一人で帰った。
アリスは友達と寄り道だ。俺は言われた通り先に帰る。最近は一緒に帰るのが当たり前になっていたから、足音が一つだけなのが落ち着かない。けれど、今日はそれを“慣れる練習”だと思うことにした。
商店街の裏道を通ると、昨日と同じ景色が目に入る。角の曲がり方、看板の色、地面のタイルの割れ目。そこに記憶が重なってしまうのは仕方がない。
角を曲がったところで、ふと人影が見えた。
壁際に寄り添うように立っている少女。鞄を抱え、足先が内側に向いている。周囲を警戒するように視線を泳がせていて、誰かを探しているというより、誰かを避けている感じ。
昨日の子だ。
天音アイラは、俺に気づいた瞬間、びくっと肩を跳ねさせた。逃げると思った。昨日はそうだった。だから俺は、追いかけないために足を止めた。
だが、アイラは逃げなかった。
逃げない代わりに、固まった。身体だけが動けなくなって、目だけが俺を見たり逸らしたりしている。勇気を出そうとしている顔だった。
俺は距離を詰めすぎないように、立ち止まった位置のまま声をかけた。
「……昨日は大丈夫だった?」
アイラの喉が小さく動く。返事を作ろうとして、詰まって、もう一度息を吸う。
「……だい、じょうぶ……でした」
たどたどしい。けど、ちゃんと返ってきた。それだけで少し安心する。
「ならよかった。……あの後、変なことされてない?」
「……されて、ないです……」
アイラは小さく首を振った。視線は地面に落ちている。俺を見ない。見ないのに、俺がここにいることは確かめている。そういう距離感。
沈黙が落ちる。
昨日の俺なら、ここで「じゃあ」と言って去ったと思う。でも、昨日助けた相手に対して、今も同じ道で会って、何も言わずに去るのは落ち着かなかった。俺は余計なことを言いそうな自分を抑えて、無難な話題を探した。
「……学校帰り?」
アイラが小さく頷く。
「はい……」
「部活とか?」
聞いてから、しまったと思った。これ、答えづらい質問だ。
案の定、アイラは少しだけ肩を縮めた。
「……して、ないです」
「俺も」
俺がすぐに言うと、アイラの肩がほんの少しだけ戻った。共通点があるだけで、会話の難易度が下がる。
俺は続けた。
「俺、帰り道にここ通ること多い。……また何かあったら、声かけていい?」
声をかけていい? という聞き方にした。押しつけないために。
アイラは迷った。迷って、唇を噛んで、それから小さく頷いた。
「……はい」
返事が出た瞬間、彼女の目がほんの少しだけこちらを向いた。昨日より、ちゃんと目が合う時間が長い。
その変化が嬉しい、なんて思うのは変だ。でも、助けた相手が怯えたままだと、心が落ち着かない。たぶんそれだけだ、と自分に言い訳をする。
俺がもう一歩踏み込む前に、アイラが小さく声を出した。
「……宮本、さん……」
呼び方がぎこちない。けれど、名前で呼んだ。
「ん?」
アイラは鞄を抱え直し、ポケットから小さなものを出した。
ハンカチだった。淡い色の、控えめな柄。手のひらに乗るくらいのサイズ。彼女はそれを差し出す。
「……これ……」
「え?」
「きのう……手……」
言葉が詰まる。説明しようとして、途中で折れる。
俺はようやく理解した。昨日、俺が男の手首を掴んだあと、手が汗で汚れていたかもしれない。あるいは、アイラが落ち着くために握っていたものを、俺が落としたのかもしれない。どちらにせよ、アイラは“返しに来た”んだ。
「俺の?」
俺が聞くと、アイラは小さく首を振った。
「……私の……でも……」
でも、何だ。そこまで言って、アイラは顔を赤くした。
俺は察した。
“借り”みたいなものを残したくないんだ。
助けてもらったままだと落ち着かない。だから、何かを返したい。律儀で、優しいんだと思う。自分の感情を出すのが苦手なだけで。
「……ありがとう。じゃあ、預かる」
俺が手を出すと、アイラは一瞬だけ躊躇して、それからそっとハンカチを置いた。指先が触れない距離感。慎重さが出ている。
「返すよ」
俺が言うと、アイラが慌てて首を振った。
「い、いえ……」
「返す。次会った時」
次会った時、という言葉に、アイラの目が少しだけ揺れた。次がある前提。彼女にとって、それは少し怖いのに、少し嬉しいのかもしれない。表情に複雑さが出る。
「……はい」
小さな返事。
その時、アイラのスマホが震えた。通知音は切ってあるのか、彼女だけが振動に気づいた。画面を見て、表情がまた硬くなる。
「……行かないと」
アイラが小さく言った。
「用事?」
「……はい……」
言いにくい用事なんだろう。けど、無理に聞かない。
「気をつけて」
俺が言うと、アイラは少しだけ頭を下げた。
「……昨日……ありがとうございました」
また礼を言った。礼を言うことでしか、距離を作れない感じがする。
アイラは小走りで去っていった。昨日ほど必死じゃない。けれど、まだ背中は硬い。人の目が怖い背中だ。
それでも――去り際に、彼女はほんの一瞬だけ振り返った。
昨日と同じ。でも今日は、昨日よりほんの少しだけ目が柔らかい。
俺は手の中のハンカチを握りしめた。
たったこれだけの接触で、心がざわつくのが自分でも嫌だった。だが、ざわつく理由が嫌なものではないのも、もっと嫌だった。
※ ※ ※
自宅に戻る道すがら、俺のスマホが震えた。アリスからだ。
『友達と帰るの、ちょっと緊張したけど楽しかった! 今から帰るね』
その文を見た瞬間、胸の奥が温かくなる。よかった。ちゃんと“外側”へ踏み出せてる。
俺は返信した。
『よかった。気をつけて。着いたら連絡して』
送って、スマホを伏せる。
家に着いて鍵を閉め、部屋に入る。制服のまま椅子に腰を下ろすと、疲れが一気に降りてきた。机の上に、さっき受け取ったハンカチをそっと置く。折り目が綺麗で、匂いはほとんどしない。派手さのない、目立たない優しさがある。
――返しに来た。
それだけの行動に、どれだけ勇気が要るか。昨日のアイラの目を思い出すと分かる。怖いのに、話しかけた。怖いのに、渡した。きっと、あの子なりの限界まで踏み出したんだ。
俺は息を吐いた。
余計なことを考えすぎるな。
今は整理するだけだ。
その時、スマホがもう一度震えた。
『着いたよ! 疲れた〜!』
アリスから。太刀川家に戻ったんだろう。俺はすぐ返す。
『おつかれ。無事でよかった』
送って、しばらく迷った。
今日は一人で休むべきか。――でも、アリスの“楽しかった”をちゃんと聞きたい。電話でもいい。でも、声の温度は画面越しより伝わる。距離が近いことを、こういう時に使わないのはもったいない。
俺は上着だけ脱ぎ、財布とスマホを持って家を出た。
太刀川家は近い。歩けばすぐだ。夜風が少し涼しくて、昼間のざわつきがほんの少し落ちる。
玄関のチャイムを押すと、恵さんが出てきて笑った。
「隆太郎くん、いらっしゃい。朝日――じゃなくて、アリス、今リビングよ」
俺は頷いて中へ入る。
リビングに顔を出すと、アリスがソファから跳ねるように立ち上がった。
「隆太郎!」
「来た」
「え、来ると思わなかった」
「話、聞きたかった」
アリスの頬が少し赤くなる。嬉しそうに、でも照れた顔。
「……じゃあ聞いて。今日ね、友達がね――」
アリスは楽しそうに話し始めた。寄り道で見たもの、言われたこと、緊張した瞬間、笑った瞬間。言葉がころころ転がる。その転がり方が、前より少しだけ“普通の高校生”に戻っていて、俺は胸の奥がじんわり温かくなった。
俺はその話を最後まで聞いた。
最後まで聞いて、アリスが少し疲れた顔になったところで、俺は軽く言った。
「……頑張ったな」
「うん。頑張った」
「じゃあ、褒める」
「褒めて」
アリスが素直に言う。俺は少し笑って、ちゃんと言った。
「好きだよ」
アリスが目を細めて、満足そうに頷いた。
「うん。じゃあ大丈夫」
今日も一つ、安心を積んだ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




