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出会い

 翌日、放課後の空はまだ明るかった。


 夏の名残が残る時間帯。夕方と言うには早く、昼と言うには少し影が長い。校門を出る生徒たちは、それぞれの方向へ散っていく。部活へ向かう連中の声が遠くで弾んで、帰宅組はだるそうに歩いていく。その流れの中で、今日は俺だけが一人だった。


 アリスは用事があると言って、友達と先に帰った。今日は“普通”を取り戻すための時間を、アリスなりに作るらしい。俺はそれを邪魔したくなかった。だから、言われた通り「気をつけろ」とだけ伝えて、手を振った。


 一人で歩く帰り道は、意外と静かだった。


 最近ずっと隣に誰かがいたせいで、足音が一つしかないことが落ち着かない。無意識に背後を確認してしまうのも、嫌になる。俺はそれを誤魔化すように、帰り道を少しだけ変えた。大通りは避けて、商店街の裏の細い道。人通りはあるけれど、騒がしさは少ない。


 頭の中では、昨夜の佐野の声がまだ残っていた。


『事件はまだ終わってない』


 根拠はないと言っていた。でも、根拠がない言葉ほど刺さる時がある。根拠がないからこそ、こちらの不安が勝手に補強してしまう。


 俺はその声を追い払うように歩幅を少し速めた。


 角を曲がったところで、誰かとぶつかった。


 軽い衝撃。肩が当たって、鞄が揺れる。反射で足が止まり、謝罪の言葉が喉まで出る。


「すみ――」


 言いかけて、相手を見て止まった。


 女の子だった。高校生くらいか、同い年か少し下か。背はアリスと同じくらい。髪は暗めで、肩にかかるくらいの長さ。目元は伏しがちで、顔を上げるのが遅い。視線が合う前に、先に逃げ道を探しているような雰囲気があった。


 そして――顔立ちが、妙に見覚えのある“型”をしていた。


 輪郭、頬の線、目の形。髪色も雰囲気も違うのに、骨格が似ている。似ているというより、頭の中で無意識に「重なる」感じがある。


 俺は一瞬、息を止めた。


 この顔を、雑誌で見た。


 天音アイラ。


 佐野が雑誌で見せた名前。この前のコンビニで佐野が持っていた雑誌のページ。あの子だ。


 相手は俺の顔を見るなり、びくっと肩を跳ねさせた。驚いたというより、怯えた反応だった。すぐに視線を落とし、早口で言った。


「……す、すみません」


 声が小さい。聞き取りにくい。けれど、ちゃんと謝っている。


「いや、こっちこそ――」


 俺が言い終える前に、彼女は一歩下がった。距離を取る。逃げる準備だ。


「大丈夫です、ほんとに……」


 それだけ言って、彼女は身を翻して歩き出した。いや、歩くというより、逃げるように小走りになった。


「ちょ、待っ――」


 俺が呼びかけたが、彼女は振り返らない。振り返らずに、通りの先へ消えていく。


 俺はその場に立ち尽くした。


 ……何だ今の。


 頭の中が妙にざわつく。アリスに似ている子に出会った、というだけじゃない。あの子の空気が、アリスと真逆だったからだ。アリスは明るい。人に近づく。笑って、話して、距離を詰める。なのにあの子は、最初から壁を作っていた。近づかれたくない、見られたくない、話しかけられたくない。そういう空気が全身に貼りついていた。


 そして、逃げ方が必死だった。


 俺は迷った。追いかけるべきか。追いかけたら余計に怖がらせるかもしれない。けれど、ぶつかって謝って、それで終わりにするには、胸の奥の引っかかりが強すぎた。


 俺は結局、軽く走った。全力ではない。追い詰めるような速さにはしない。距離を保って、見失わない程度。


 商店街の角を曲がると、彼女が少し先に見えた。周囲の人混みに紛れようとしているのが分かる。人の多い場所に入れば、安心できるのかもしれない。


 その時だった。


「ねえねえ、ちょっとさ」


 男の声がした。


 彼女の前に、二十代くらいの男が立ち塞がっていた。服装は派手ではないが、距離の詰め方が軽い。片手を上げて、道を塞ぐ。ナンパだ。


 彼女――天音アイラは、明らかに固まった。視線が落ち、肩が縮む。声が出ない。逃げたいのに足が動かない。そういう身体の反応。


「モデル? めっちゃ可愛いじゃん。写真撮っていい?」


「……ちが……」


 かすれた声。拒否の言葉が弱い。男はそれを拒否として扱わない。


「いいっていいって。てかさ、今時間ある? お茶しよ」


 男が一歩詰める。彼女が一歩引く。背中が壁際に近づく。逃げ道が消える。


 俺は、その光景を見た瞬間に身体が動いた。


 考えるより先に走っていた。


「すみません」


 俺は男と彼女の間に入った。声は落とす。怒鳴らない。人通りのある場所で騒げば、逆に彼女が怖くなる。


「知り合いなんで」


 男が俺を見る。


「は? 誰」


「彼氏です」


 嘘だ。けど、この場ではそれが一番早い。男が面倒だと思えば引く。引かないなら、次の手だ。


 男が鼻で笑った。


「彼氏? いや、今初めて見たけど」


「俺も今初めて見ましたよ」


 俺は淡々と言った。


「だから離れてください」


 男が舌打ちする。


「うざ。別に何もしてねえじゃん」


「してます」


 俺は言い切った。


「嫌がってるの、見えないんですか」


 男が一歩詰めようとした。その瞬間、彼女の腕に手を伸ばした。


 俺はその手首を掴んだ。


 掴む瞬間の感触が妙に鮮明だった。骨の硬さ、筋肉の反射、皮膚の温度。掴んだ瞬間、男の動きが止まる。


「……触るな」


 声が低くなる。自分でも驚くくらい低い。怒りが混ざっている。


 男が俺の手を振りほどこうとする。


「は? 何だよお前」


「触るなって言ってる」


 俺は手を離さなかった。力を入れすぎない。骨を痛めるほどではない。でも、逃げられるほど緩くもしない。相手に「面倒だ」と思わせる強さ。


 周囲の通行人がちらりとこちらを見る。視線が集まり始める。男はそれに気づいたらしく、表情が少し変わった。こういう男は、人に見られるのを嫌う。悪者扱いされるのを嫌う。


「……ちっ」


 男は舌打ちして、俺の手を振りほどいた。


「勝手にしろよ」


 吐き捨てて、男は人混みに紛れるように去っていった。


 俺は息を吐いた。心臓が速い。背中に汗が滲んでいる。だが、今はそれどころじゃない。


 振り返ると、天音アイラが壁際に立っていた。手が震えている。呼吸が浅い。目が大きく見開かれている。怖いという感情が、顔にそのまま出ていた。


「……大丈夫?」


 俺が声を落として聞くと、彼女は数秒遅れて頷いた。


「……はい……」


 声が小さい。けれど、返事ができた。少しだけ戻った。


「さっきぶつかったよね。急に追いかけてごめん。……ああいうの、放っておけなかった」


 言い訳みたいに聞こえないように、言葉を選ぶ。謝りすぎると余計に距離ができる。だから、短く、丁寧に。


 彼女は視線を上げたり下げたりして、俺の顔をまともに見ないまま言った。


「……ありがとうございました」


「うん」


 俺は頷いた。


「名前、聞いていい?」


 彼女が一瞬だけ固まる。逃げる準備の顔になる。


 俺は慌てて付け足した。


「無理ならいい。怖かったなら、忘れて」


 その言い方が効いたのか、彼女は少しだけ息を吐いて、かすれた声で答えた。


「……天音……アイラ……です」


 やっぱりそうだ。胸の奥がざわつく。名前まで一致していると、偶然なのに偶然じゃない感じが増してくる。


「俺は宮本隆太郎」


 名乗ると、アイラは小さく頷いた。でも、次の瞬間、また逃げるみたいに身体が揺れた。


「……私、行きます」


「どこか、送ろうか」


「い、いえ……大丈夫です」


 大丈夫じゃない顔なのに、そう言う。人見知りというより、他人に頼れないタイプの拒否だ。


 アイラは小さく頭を下げて、早足で歩き出した。今度はさっきより落ち着いた歩き方。でも、背中は硬い。逃げることに慣れている背中だった。


 俺は追いかけなかった。


 追いかけたら、また怖がらせる。


 ただ、胸の奥に引っかかりだけが残る。助けたのに、距離は縮まらない。むしろ「近づかれたくない」の方が強い。なのに――最後の最後に、彼女が振り返った。


 ほんの一瞬だけ。


 視線が合った。彼女の目の中に、怯えとは別のものが混じっていた。


 興味。


 小さくて、薄くて、でも確かにある興味。


 彼女はすぐに視線を逸らし、また歩き出した。だが、さっきまでの“完全な拒絶”とは違う。逃げながらも、背中のどこかがこっちを意識している。


 俺はその変化に、言いようのない戸惑いを覚えた。


 そして同時に思った。


 アリスと似た顔立ちの少女が、この街にいる。

 性格は真逆みたいに違う。

 それなのに、俺が手を伸ばした時、彼女はほんの僅かにこちらを見た。


 偶然のはずなのに、偶然だけで片付けるには、引っかかりが強すぎた。


 俺は大きく息を吐き、帰り道を再開した。


 空はまだ明るい。けれど、胸の中だけが妙に重い。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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