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深淵の向こう側

 佐野雪芽が「手を引く」と言って通話を切ったあと、太刀川家のリビングには、言葉にできない重さが沈んだ。


 正しい判断だと頭は理解できる。追い詰めれば逃げる。逃げたら、捕まらない。捕まらないまま、どこかでまた誰かが傷つくかもしれない。なら、公的捜査に委ねるのが合理的だ。


 でも、合理的だから納得できるとは限らない。


 健一さんの握りしめた拳がほどけない。恵さんは湯呑みを両手で包んだまま、視線を落としている。母さんは沈黙の中で、現実の整理を始めている顔をしていた。アリスは俺の手を強く握っている。冷たいのに、逃げない力だ。


 誰も声を出せない。


 声を出せば、たぶんどこかが崩れる。


 健一さんが先に息を吐いた。


「……佐野は“終わり”と言ったわけじゃない。やり方を変えると言っただけだ」


 声は低いが、揺れている。自分に言い聞かせるような言い方だった。


 母さんが静かに頷く。


「警察が動いているなら、こちらが焦って踏み込みすぎる必要はない。……ただ、生活の安全の確保は別」


「安全」


 恵さんが小さく繰り返す。その言葉に、アリスの肩が僅かに動いた。安全が話題になると、アリスの身体は反射で身構える。田村の件の名残もあるし、何より“殺した犯人が近くにいるかもしれない”という恐怖は、種類が違う。


 健一さんが、今度は俺を見た。


「隆太郎くん。今日の話は――」


 俺はすぐ頷いた。


「外では言いません」


 言い切る。ここで迷いを見せたら、健一さんの心が揺れる。俺はもう、揺れさせたくなかった。


 恵さんがアリスに向けて、優しく言った。


「アリス、今日はもう寝よう。頭が疲れすぎてる」


 アリスは小さく頷きかけて、でも言葉が出ない。目が揺れている。怖い。けれど、ここで崩れたくない。そういう目だ。


 俺はアリスの手を握り直して、声を落とした。


「……大丈夫。今日は、もう終わりにする」


 アリスがようやく小さく頷いた。


「うん……」


 健一さんが「送る」と言ったが、母さんが「今日は私が隆太郎を連れて帰る」と言った。健一さんも頷く。家が近いから、こういう移動ができる。近さが、こういう時に効く。


 玄関を出ると、夜の空気が少し冷たかった。虫の声が薄く鳴いている。夏の夜の音なのに、今日はやけに遠い。夜道を歩いているだけなのに、背後の暗闇が怖く感じる。


 母さんが俺の隣で小声で言った。


「隆太郎、今夜はあまり話さなくていい。頭が熱い時は、言葉が尖る」


「……うん」


 尖る言葉は、家族を傷つける。アリスを傷つける。だから、今夜は黙る。


 家に着いて、鍵を閉めた瞬間に、ようやく身体の力が抜けた。靴を脱いで、リビングの椅子に腰を下ろす。母さんが水を出してくれて、俺は一口飲んだ。冷たさが喉を通って、ようやく自分が呼吸しているのを思い出す。


「アリスちゃん、大丈夫そうだった?」


 母さんが聞く。


「……大丈夫そうに見せてた」


「うん。見せてる時が一番疲れるのよね」


 母さんの言い方はいつも現実的だ。現実的だから救われる。


 俺は頷いて、スマホを見た。通知はない。ないことが怖い。あることも怖い。どちらでも怖いのなら、せめて今夜は眠りたい。


 母さんが言った。


「お風呂入って、寝なさい。明日、学校がある」


「……うん」


 学校がある。たったそれだけの言葉なのに、ありがたいと思ってしまう。事件の話ばかりしていると、生活の軸が抜ける。学校がある。授業がある。宿題がある。くだらない会話がある。そういう日常の重さが、今は必要だった。


 ※ ※ ※


 翌朝、俺はいつも通り通学路を歩いた。


 太刀川家の門の前でアリスが待っている。いつもの制服姿。俺を見て、微かに笑う。


「隆太郎」


「おう」


 俺は声を落として呼んだ。


「……昨日、眠れたか」


 アリスは小さく首を振った。


「少しだけ」


「そっか」


「でも、来た」


 来た、というのが偉い。言葉にしなくても伝わる。俺は頷き、歩き出した。歩幅を合わせる。


 途中、アリスがぽつりと言った。


「佐野さん、もう追わないのかな」


「追わないって言ってた。警察に任せるって」


「……じゃあ、終わり?」


 終わり。そんな都合よく終わるわけがない。けれど、それをそのまま口にしたらアリスが折れるかもしれない。俺は言葉を選んだ。


「終わりに近づくためのやり方を変えたんだと思う」


 アリスは少しだけ頷いた。


「……私、わがままかな。もっと追ってほしいって思っちゃう」


「わがままじゃない」


 俺は即答した。


「そう思うのは普通だ。……でも追えば追うほど危ないってのも、たぶん本当だ」


 アリスは唇を噛んで、少しだけ歩幅を落とした。俺も合わせる。


「怖いね」


「怖い」


 怖い、と言えるだけでいい。怖いのに黙っていると、身体だけが先に壊れる。


 学校に着くと、いつも通りの雑音が二人を包んだ。チャイム、先生の声、机の音。今日はその雑音がありがたい。世界が回っている音だからだ。


 けれど、昼休みに入った頃、教室の空気が少しだけざわついた。


「なあ、ニュース見た?」


 クラスメイトがスマホを見せ合っている。画面に映る見出しに、俺の目が勝手に引っ張られた。


『連続殺人事件 容疑者が自首』


 文字が目に刺さる。


 自首。


 アリスも同じ見出しを見たらしく、顔色が変わった。箸が止まる。呼吸が浅くなる。


「……自首?」


 アリスが小さく呟く。


 俺のスマホも震えた。健一さんからだ。


『ニュースを見たか。今夜、話す』


 短い。硬い。感情が抑えきれない文章。


 昼休みの雑音が遠くなる。教室が急に狭く感じる。俺はアリスの方を見た。アリスはスマホを握ったまま固まっている。


「……大丈夫か」


 俺が聞くと、アリスは小さく頷いた。


「大丈夫……でも、心臓が……」


「呼吸しろ」


 俺は小声で言った。


「吸って、吐いて」


 アリスは俺に合わせて呼吸する。少しずつ顔色が戻る。俺も一緒に呼吸する。こういう時、言葉より呼吸の方が効く。


 放課後、俺はアリスと一緒に帰った。寄り道はしない。太刀川家の前まで送り、アリスの袖が離れる瞬間に、アリスが小さく言った。


「大丈夫だよね?」


「大丈夫だ」


 俺はすぐ言った。躊躇しない。


 アリスが少し笑って、でも目が潤む。


「……うん。ありがとう」


 アリスが家に入っていくのを見届けてから、俺もすぐ太刀川家に入った。健一さんから「今夜話す」と来たなら、俺も行くべきだ。逃げない。逃げたら、また不安が膨らむ。


 太刀川家のリビングには、健一さんと恵さん、母さんが揃っていた。アリスはというと別室で待機している。そして、テレビは消えているのに、ニュースの気配だけが残っている感じがした。


 健一さんが俺を見て、短く言った。


「自首だ」


「……本物ですか」


 俺が聞くと、健一さんは一拍置いて答えた。


「分からない。だが、警察は本物として扱う。少なくとも表向きは終結へ向かう」


 表向き。そこに引っかかりがある。


 恵さんが震える声で言った。


「終わるなら……それで……」


 言いながら、恵さんは自分の言葉を信じきれていない顔をしていた。終わってほしい。けれど、終わり方が不自然だと感じてしまう。


 母さんが静かに言う。


「“自首”は、世間にとって分かりやすい結末だから」


「分かりやすい結末ほど、疑うべきだ」


 健一さんが低い声で言った。俺はその言葉に背筋が伸びる。


 その時、健一さんのスマホが鳴った。表示名は佐野雪芽。


 健一さんがすぐスピーカーにした。淡い声が部屋に落ちる。いつもより、少しだけ温度が低い。真面目な時の声だ。


『自首のニュース、見たね』


「見た。どう思う」


『私は……追うのをやめる』


 即答だった。


 部屋が静まり返る。恵さんが息を呑む。健一さんの拳がまた握られる。


『自首した人物の供述が警察に乗れば、事件は“終わる”扱いになる。ここから個人探偵が動くと、邪魔になる。……だから私は今は撤退する』


「撤退……」


 健一さんの声がかすれる。


『あなたが納得できないのは分かる。でも、今は警察のフェーズ。これ以上の踏み込みは、あなたの生活を危険にする』


 佐野の声が淡々としているから、余計に冷たい。


 健一さんが言った。


「朝日の件は」


『連続事件の犯人が本当に同一なら、終わる。でも、同一でないなら、あなたはまた疑う。……ただ、今の私は証明できない』


「証明できない?」


『自首した人物と、朝日の映像の所作の一致は“可能性”止まり。証拠として足りない。足りないものを追うのは、今は危険が大きい』


 佐野は、判断としては正しいことを言っている。だが、正しさは心を救わない。


『太刀川さん。私は今日で手を止める。……あなたの娘の件は、あなたが守って』


 言い方が不器用だった。守って、という言葉に、仕事としての線引きが見える。依頼者と探偵の関係の終わり。


 通話が切れる。


 リビングに残ったのは、息の詰まる沈黙だった。


 健一さんが、しばらくしてから言った。


「……終わりなら、それでいい。だが――」


 言葉が続かない。終わってほしい。終わってほしくない。犯人が捕まるのは嬉しい。でも、それが本当に朝日の犯人か分からないなら、納得できない。


 俺はその葛藤を、言葉にできるほど上手くはない。ただ、胸の奥で同じものが疼いた。


 自首という結末は、綺麗すぎた。


 ※ ※ ※


 その夜。


 街のどこかで、男が一人、静かに笑った。


 テレビのニュースは、容疑者の顔を映している。カメラのフラッシュ。記者の声。騒がしい。だが、男の部屋は静かだった。ソファに深く腰を沈め、画面を眺めるだけ。


 男は整った顔をしていた。清潔感のある髪。無駄のない服。どこにでもいそうで、どこか印象に残る輪郭。目だけが少し冷たい。


「……よくやった」


 男は画面に向かって小さく呟いた。褒める声。だが、そこに温度はない。仕事の成果を確認するような声だ。


 男はスマホを手に取り、数時間前に送った短いメッセージを眺める。


『言った通りに話せ。お前は“自分がやった”と言い続けろ。家族のことは心配するな。金はもう渡した』


 それを見て、男は笑った。


 画面の中では、自首した男が頭を下げている。罪を背負った顔をしている。背負わされた罪を。


「……誰だって、金と恐怖には弱い」


 男は淡々と言った。


 そして、ソファの肘掛けに指を置き、指先をゆっくりと擦った。まるで、何かの感触を思い出すみたいに。血の温度ではなく、抵抗が消えていく瞬間の感触を。


「……楽しいな」


 男の声は小さかった。けれど、その小ささが異様に明るい。


「終わった? 違う。終わらせただけだ」


 男はテレビを消し、部屋の灯りを落とした。


 暗闇の中で、男の目だけが薄く光る。


「次は……どうしようか」


 独り言のように呟き、男は静かに笑った。


 自首は、偽りの幕引き。


 本当の犯人は、まだ街のどこかで呼吸している。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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