止まる真相
翌朝、アリスは少しだけ遅れて学校へ来た。
いつもなら太刀川家の門の前で待っている時間に、今日はまだ姿がない。俺は門の向かいの電柱の影に立って、落ち着かない気持ちを誤魔化すように空を見上げた。雲は薄く、日差しは相変わらず強い。暑いのに、胸の奥は冷たい。
遅刻、というほどでもない。けれど、昨日のことがあった直後だから、こういう小さなズレが怖い。
少しして、門が開いてアリスが出てきた。制服姿。髪はまとめている。目元が少し赤い。泣いたのか、眠れなかったのか、その両方か分からない。
「隆太郎」
声は出ていた。でも、いつもの軽さはない。
「大丈夫か」
俺が聞くと、アリスは小さく頷いた。
「……大丈夫って言いたいな」
またその言い方。最近のアリスは、強がりをやめた代わりに、この言い方をするようになった。大丈夫だと断言できない。でも、崩れてもいない。自分の現在地をちゃんと認める言い方だ。
「朝日」
俺は声を落として呼んだ。ここには俺とアリスしかいない。
「昨日のこと、謝らなくていい」
アリスの目が少し揺れる。
「……ごめんって言いそうだった」
「言わなくていい」
「でも、怖かった。ほんとに」
「うん」
俺は短く頷いた。否定しない。怖いという感覚は正しい。
並んで歩き出す。学校へ向かう道は変わらないのに、今日は少しだけ遠く感じた。アリスの歩幅が小さい。無理に合わせず、自然に揃える。揃えるだけで、心が少し落ち着く。
「隆太郎」
アリスがふいに言う。
「……佐野さん、なんであんなことするの」
「分からない」
俺は正直に答えた。
「仕事のためかもしれないし、あの人の癖かもしれない」
「私、あの人のこと、嫌いになりそう」
「嫌いになっていい」
俺が言うと、アリスは少しだけ驚いた顔をした。
「……いいの?」
「嫌いになるのは自由だ。ただ、面と向かって言うのはやめとけ」
「分かってる。……悔しい」
悔しい、という言葉が重い。自分の生活が勝手に踏み荒らされる悔しさ。世界が思うようにいかない悔しさ。
俺は、その悔しさを無駄にしたくなかった。
「悔しいなら、俺たちの守り方を増やす」
「守り方……」
「例えば、困ったらすぐ言う。昨日みたいに」
アリスは小さく頷いた。
「……昨日、言えたよ」
「言えた。だから帰れた」
アリスの表情が少しだけ緩む。昨日は崩れかけた。でも、崩れきらなかった。そこが大事だ。
※ ※ ※
学校に着くと、いつもの雑音が二人を包んだ。
授業の始まりを告げるチャイム。先生の声。ノートを開く音。誰かのため息。そういう音が、現実の壁になる。事件の影が教室まで入り込んでこないように、俺たちはその壁に寄りかかる。
昼休み、俺のスマホが震えた。
画面を見る前に心臓が跳ねる。だが表示された名前は佐野ではなかった。健一さんだ。
『今日、警察から連絡。事情聴取の形で話を聞きたいと言われた。夜、こちらで動く。』
事情聴取。聞き取り。少なくとも、情報提供は受理されたらしい。動きがあるのはいい。けれど、動けば動くほど相手を刺激する可能性もある。昨日佐野が言っていた言葉が頭をよぎる。
刺激になる。
俺は返信した。
『了解です。アリスは昨夜かなり動揺してました。今は落ち着かせます。』
送って、スマホを伏せる。アリスが俺の表情を見て、すぐに察した。
「……何かあった?」
「健一さんから。警察が動き始めた」
アリスの箸が止まる。
「警察……」
「聞き取りだって」
アリスは少しだけ息を吐いて、視線を落とした。
「……捕まるのかな」
「分からない。でも、止まってはいない」
止まってはいない。それが希望でもあり、恐怖でもある。
※ ※ ※
放課後、俺とアリスは寄り道せずにまっすぐ帰った。
昨日の川沿いでの出来事が、まだ身体に残っている。佐野の雑誌を見た瞬間のアリスの震えも残っている。今日は余計な刺激を増やしたくなかった。
太刀川家の前で別れる時、アリスが袖を掴んだ。
「隆太郎、今日も……言って」
言って、が何を指すかは分かる。アリスは不安を言葉で支えたい。俺も同じだ。言葉は、今の俺たちの手すりになっている。
「好きだよ」
俺が言うと、アリスの目が少し潤んで、でも笑った。
「うん。じゃあ、行ける」
行ける。それは自分を動かすための言葉。俺の言葉を、自分の力に変換している。
アリスが家に入っていくのを見送ってから、俺は自宅へ向かった。
家に着くと母さんが「おかえり」と言って迎えてくれた。今日は少しだけ表情が硬い。母さんも健一さんから連絡を受けているんだろう。
「隆太郎、健一さんから聞いた?」
「聞いた。警察が動くって」
「ええ。今夜、太刀川さんのところで話があるみたい」
「俺も行く?」
母さんは少し考えてから言った。
「あなたは無理に行かなくていい。でも、行くなら心を固めて。……聞く情報は重いと思う」
重い情報。そう言われると、逆に行かない方が怖い。知らないままだと、想像が勝手に膨らむ。知れば辛い。知らなければもっと辛い。そんな状態が続いている。
「……行く」
俺は答えた。
「アリスと一緒に受け止める」
母さんが小さく頷いた。
「分かった。じゃあ、ご飯食べてから行きなさい。空腹だと余計に疲れる」
その言葉が現実的で、少しだけ救われた。
※ ※ ※
夜、太刀川家に集まると、リビングの空気がいつもより硬かった。
健一さんと恵さん、母さん、そして俺。アリスも座っていた。正体を知っている者だけの場だから、アリスの表情は少しだけ素の色が出ている。けれど、緊張で肩が上がっている。
テーブルの上には資料が数枚。佐野が用意したであろうコピー。モニターの静止画のプリント。見たくないのに目がいく。
健一さんが低い声で言った。
「警察が動く。情報提供を受けて、連続事件と朝日の件を照合しているらしい」
恵さんが唇を噛む。
「照合って……」
「すぐに逮捕とはいかない。ただ、捜査の線が一本太くなる」
健一さんの言い方は現実的だった。期待しすぎない。でも、諦めない。
母さんが聞く。
「佐野さんは?」
「今、警察とやり取りしている。……今日中にもう一つ報告が来るはずだ」
その時だった。
健一さんのスマホが鳴った。画面を見た健一さんが短く言う。
「佐野だ」
スピーカーに切り替える。淡い声が部屋に落ちた。
『警察の内部資料を見せてもらった。連続事件の現場付近で、防犯カメラに映った人物がいる。顔は不明。けど――右手首の返りが、朝日の映像と一致する可能性が高い』
まただ。腕。手首。所作。顔じゃないのに、確度が上がっていく。
『さらに、事件現場の周辺で目撃されている人物の特徴がある。大きな特徴はない。でも、妙に整った顔立ちの若い男という証言が複数。清潔感がある。目立たないのに印象に残る』
整った顔立ち。清潔感。目立たないのに印象に残る。
胸の奥が冷たくなる。そういう人間ほど、街の中に溶ける。溶けたまま、近づける。
恵さんが声を絞り出す。
「……イケメンってこと?」
『単に“整ってる”という証言。イケメンと言う人もいる。でも、重要なのはそこじゃない。――目撃者が同じ印象を言っている点』
佐野の声が淡々としているから、余計に怖い。
『警察はその人物を“参考人”として追う。ただし決定打がない。こちらが追い詰めると、相手が動く可能性がある』
動く。逃げる。あるいは、別の事件を起こす。
健一さんが短く言った。
「なら、どうする」
『いったん距離を取る。警察が動くのを待つ。……私の動きは止める』
佐野がそう言った瞬間、部屋の空気が少しだけ揺れた。
止める。追うのを止める。今まで積み上げてきたものを、ここで止める?
健一さんの声が少し強くなる。
「なぜだ」
『相手が“こちらの追跡”を察知した可能性がある。今、追うと逆に消える。……そして、こちらの生活圏が近すぎる』
生活圏。俺たちの家がある街。学校がある街。そこが舞台である限り、追うことは同時に危険を呼ぶ。
『だから、私の手は引く。警察へ材料を渡した。あとは公的捜査に委ねる』
淡い声でそう言って、佐野は通話を切った。
リビングに沈黙が落ちた。
恵さんが震える声で言う。
「……止めるって、そんな……」
健一さんは拳を握りしめていた。怒りと不安が混ざった顔。でも、暴れない。父親として、ただ耐えている。
アリスは俺の手をぎゅっと握っていた。指先が冷たい。けれど、今は震えていない。耐えている。
俺は思った。
追い詰めた瞬間に、相手が姿を消す。あるいは別の形で嘘を作る。
そんな相手なら、簡単には終わらない。
佐野が引いたことが、終わりではないはずだ。
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