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写真の中の誰か

 朝、玄関の鍵を回した瞬間、空気が少し違うと思った。


 冷えた、というほどじゃない。でも、肌に触れる風がわずかに乾いている。日差しはまだ強いのに、汗が引くのが少し早い。こういう変化に敏感になっている自分が嫌だった。前なら気にも留めない程度の違いを、今は「何かの予兆」に結びつけてしまう。


 洗面台で顔を洗い、歯を磨き、制服の襟を整える。ネクタイの結び目を鏡で確認する。その一つ一つを丁寧にやると、頭の中のノイズが少しだけ減る。生活を崩したら、崩した分だけ不安が入り込む。だから、崩さない。


 家を出て通学路を歩く。角を曲がると太刀川家が見える。門の前にアリスが立っていた。制服姿で、鞄を抱えて待っている。俺を見つけると、小さく手を上げて笑った。その笑い方が、昨日より少し自然に見えて、胸がほどけた。


「隆太郎」


「おはよう」


 俺は声を落として言った。ここには俺とアリスしかいない。余計な耳も目もない。


「……朝日、昨日眠れたか」


 アリスは一瞬だけ目を瞬かせてから、控えめに頷いた。


「途中で起きた。でも、眠れた」


「偉い」


「偉くないよ。ただ……眠れたのが嬉しい」


 その言い方が、妙に大人びていた。怖いのを消すんじゃなく、怖いままでも戻れる自分を確かめている。前は怖がって、泣いて、固まっていたのに、今は自分の状態を言葉にしている。俺はそれが頼もしくもあり、痛々しくもあった。


 並んで歩き出す。学校までの距離は変わらないのに、二人で歩くと短く感じる。足音が揃う。鞄が擦れる音が揃う。そういう小さな一致が、現実を作っている。


「……昨日さ」


 アリスが少しだけ言いにくそうに切り出す。


「ん?」


「あの雑誌、見なくていいって言ってくれたの、嬉しかった」


「そんなことでいいのか」


「そんなことがいいの」


 アリスが少し笑って、すぐ真面目な顔に戻る。


「でも、私……変だよね。知らないのに、知ってるみたいで」


 俺は答えに迷った。否定しすぎると、アリスは自分の感覚を責める。肯定しすぎると、不安が大きくなる。だから、現実に寄せる。


「変っていうより、反射じゃないか」


「反射」


「怖いもの見た時、心より先に身体が固まるだろ。あれと似てる。理由が分からないまま反応する時がある」


 アリスは少し考えてから頷いた。


「……そういうことにしておく」


「しておけ。今はそれで十分」


 アリスの肩が少し落ちた。肩が落ちるだけで、呼吸が深くなるのが分かる。俺はその変化を見逃さないようにしていた。守るって、こういう細かい変化を見つけることでもある。


 ※ ※ ※


 学校は、相変わらず騒がしかった。


 先生の声が教室を満たし、チョークの粉が空気に混ざる。休み時間には椅子が引かれて、机がぶつかって、笑い声が転がる。誰かの夏休みの土産話が途切れず続いている。俺はその輪の中心にはいないけど、耳に入ってくるだけで「世界は事件だけじゃない」と思える。


 昼休み、アリスは弁当を食べながらスマホを一度だけ見て、すぐ伏せた。見なくていい、と言う前に伏せたのが分かって、俺は少しだけ安心した。自分でコントロールしようとしている。


「放課後、どうする?」


 アリスが箸を動かしながら聞く。


「今日はまっすぐ帰る」


「寄り道なし?」


「なし。……昨日のこともあるし」


 アリスの眉が少し寄る。


「私のせいみたい」


「違う」


 俺は即答した。


「疲れるのが分かってるから避けるだけ。責任とかじゃない」


 アリスは「うん」と言いながらも表情が硬い。言葉の正しさと気持ちは別だ。俺は言い直した。


「代わりに、帰り道で少しだけ寄る。川沿い。人いるし、風もある」


「……それ、寄り道って言う?」


「言う」


 アリスが吹き出した。笑いが出るなら、それでいい。


 放課後、教室を出て下駄箱へ向かう。廊下の先、事務室前のあたりを一度だけ目で探してしまう。佐野がいないことに、ほっとする自分がいる。いるならいるで嫌で、いないならいないで気味が悪い。そんな状態が一番しんどい。


 校門を出て、俺たちは並んで歩いた。今日はいつもの交差点を避けて、住宅街の道を抜ける。見通しのいい道を選ぶ。アリスは黙ってついてくる。ついてくること自体が、信頼の形に見えた。


 川沿いの遊歩道に出ると、水面が光を跳ね返していた。子どもが石を投げて遊んでいる。犬を散歩させる人が通る。ベンチに座って缶ジュースを飲む学生がいる。生活の匂いが濃い場所は、心が少し楽になる。


 アリスが欄干にもたれて川を見た。


「……ここ、好き」


「そうか」


「落ち着く」


 落ち着く。そう言えることが大事だ。落ち着ける場所を、また一つ取り戻す。


 俺が「よかった」と言いかけた、その瞬間だった。


「宮本くん」


 背後から声がした。


 淡い声。耳が覚えてしまっている声。背中が一瞬で固くなる。アリスも同じで、呼吸が浅くなるのが分かった。


 振り返ると、佐野雪芽が立っていた。


 黒っぽい服。薄いジャケット。手には紙袋。気だるげに立っているのに、目だけはしっかりこっちを見ている。そこにいるだけで、場の温度が下がる。


「……なんでここに」


 俺が言うと、佐野は平然と答えた。


「この道、通り道。あなたたちが帰り道を変えるか確認したかった」


 確認したかった、で済ませるな。言い返したいのに、言い返すほど相手の土俵に乗る気がして、喉で止まる。


 アリスが一歩だけ俺の後ろに寄った。隠れるんじゃない。支える位置。俺はその気配が背中に触れて、少しだけ落ち着く。


「用件は」


 俺が短く聞くと、佐野は紙袋を軽く持ち上げた。


「今日は仕事じゃない。甘いの買っただけ」


「知らないです」


「うん。だから言っただけ」


 会話が噛み合わない。だが無意味でもない。佐野は距離を測っている。仕事じゃない顔で、警戒を緩めようとしているのかもしれない。あるいはただの気まぐれか。


 俺は警戒を崩さずに言った。


「俺たち、帰るところなんで」


「待って。三十秒だけ」


 佐野が淡く言う。その三十秒が、どれだけ長いか分かっていない顔だ。


 佐野は紙袋から雑誌を出した。ファッション誌。昨日アリスが本屋で足を止めたのと同じ系統。心臓が嫌な音を立てる。アリスの呼吸が浅くなる。


 佐野はページを開いた。読者モデル企画。そこに、見覚えのある顔があった。


 天音アイラ。


 写真越しでも分かる。輪郭が近い。目の形、頬の線、首の長さ。髪の色も雰囲気も違うのに、骨格が同じ型に見える。その一致が、気持ち悪い。


 アリスが掠れた声で言った。


「……やだ」


 俺は反射で一歩前に出て、雑誌を視界から遮った。


「佐野さん、やめてください」


「確認したいだけ」


 佐野は淡い声のまま言う。


「白金さんがこの顔に反応するかどうか。反応した。興味深い」


 冷たすぎる。俺の中で苛立ちが跳ねた。だが声を荒げたら負ける。俺は一度息を吸って、低い声で言う。


「それ、ただの実験です。人にやることじゃない」


 佐野は少しだけ目を細めた。


「実験じゃない。矛盾があると、確かめたくなるだけ」


「その“確かめたい”が、相手を傷つけるんです」


 佐野は一拍置いて、ページを閉じた。雑誌を紙袋へ戻す。ほんのわずかに、空気が戻る。


「白金さん」


 佐野がアリスに向けて言う。アリスは俺の背中に隠れるような位置のまま返事をしない。返事ができない。


 佐野は淡く続けた。


「この子は実在する。学校も、家も、生活もある。あなたと同じくらい実在してる。でも、実在の証拠が薄い」


 言葉が刃物みたいだった。存在を紙の上の証明に変える。そういう言葉がアリスに刺さるのが分かった。背中越しに、アリスの指先が震えている。


 俺ははっきり言った。


「もう帰ります」


「帰っていい」


 佐野はあっさり言う。引き止めるでもなく、謝るでもなく。その淡白さが、逆に怖い。


 ただ、佐野は最後に俺を見る。


「宮本くん。守りたいなら、守り方を間違えないで」


 その言い方だけは、少しだけ真面目だった。仕事じゃないと言ったのに、結局そこに戻る。佐野はそういう人間だ。


 佐野は踵を返して去っていった。歩き方はだるそうなのに迷いがない。人混みに溶ける前に一度だけ振り返り、手をひらひらさせた。それが別れの合図なのか、からかいなのかは分からない。


 残された俺はすぐにアリスの方を振り返った。


「……大丈夫か」


 アリスは頷こうとして途中で止まった。唇が震え、目が潤んでいる。怖さと悔しさが混ざっている顔。


「……見ちゃった」


 小さな声。


「見なくていいって言ったのに」


「謝るな」


 俺はすぐ言った。


「悪いのは佐野さんだ」


 アリスは胸元を押さえて、何度も息を吸った。


「変な感じがした。心臓が、ぎゅってなった。知らないのに……近いって思った」


 近い。昨日より強い言い方。身体が先に反応してしまう感覚。俺はそれを否定しない。


「今は、それでいい」


 俺は手を握った。


「説明できなくていい。怖いって言っていい。……俺がいる」


 アリスは涙をこぼさないまま、ようやく小さく頷いた。


 俺たちは歩き出した。川沿いの道がさっきより寒く感じる。風が吹くたび、雑誌のページが脳裏に浮かぶ。けれど、浮かんでも足は止めない。止めたら、また奪われる気がした。


 太刀川家の前に着くと、アリスが立ち止まった。今日だけは、一人になりたくない顔。


「……今日、寄ってく?」


「寄る」


 即答すると、アリスの肩が少し落ちた。


 玄関に入る前に、アリスが俺の袖を掴む。


「隆太郎」


「ん」


「……好きって言って」


 今のアリスには、言葉が必要だ。怖さを消すためじゃない。足場を作るために。


 俺はちゃんと言った。


「好きだよ」


 アリスの目が潤んで、ようやく涙が一粒落ちた。拭って、笑おうとする。笑いきれない。でも崩れない。


「……うん。じゃあ、歩ける」


 その言葉が胸に刺さった。好きだと言うことが、歩くための支えになるほど彼女は揺れている。


 俺はアリスの背中を押すように玄関へ入った。


 今日、佐野が見せたのはたった一枚のページだ。それだけで、アリスの心は大きく揺れた。事件の影と、雑誌の写真が、同じ夜風の中で重なってしまう。


 明日、何が起きるかは分からない。


 でも、ひとつだけは分かっている。


 俺はアリスの隣に戻る。何度でも。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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