天音アイラ
翌朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
眠れなかったわけじゃない。ちゃんと寝たはずなのに、身体の奥だけが起きている。昨夜の冷房の匂い、モニターに映った粗い映像、佐野雪芽の淡い声――そういうものが、夢の底に沈みきらずに浮いている。
布団から起き上がって、顔を洗う。冷たい水が頬を打つと、ようやく現実が戻る。鏡に映る自分の目の下が少しだけ青い。事件の話、アリスの不安。理由はいくらでもある。
朝食を食べて、制服に袖を通す。靴紐を結ぶ。鍵を閉めて外に出る。その一連の動作が、俺にとっては一種の儀式になっていた。日常へ戻るための、毎朝の手順。
通学路を歩く。空は高い。蝉の声はまだあるけれど、前より少ない。代わりに、風が少しだけひんやりしている。夏が終わる前の、薄い境目。
角を曲がったところで、太刀川家が見えた。引っ越してきたばかりの頃より、周囲の景色に馴染んでいる。近い距離にあることが、今はありがたい。何かあった時に走れる距離は、ただの数字じゃない。
門の前にアリスがいた。制服姿で、鞄を抱えて立っている。髪はまとめていて、眠そうな目をしているのに、俺を見つけると少しだけ笑った。
「隆太郎」
「おう」
俺は声を落として言った。
「……朝日、昨日ちゃんと寝たか」
アリスは一瞬だけ目を瞬かせて、それから小さく頷いた。
「うん。途中で起きたけど、ちゃんと戻れた」
「偉い」
「偉くない。……でも、嬉しい」
その返事が、少しだけ柔らかくて安心した。昨日の夜は、好きだと言った直後でもアリスの指先が冷たかった。怖さが残っていると、体温が落ちる。今日は少しだけ戻っている。
並んで歩く。学校までの道は変わらない。けれど、並んでいるだけで心の密度が変わる。これが恋人ってことなんだと思う。事件がどうとか、犯人がどうとか、そういう大きな話の前に、もっと小さな“今”が俺たちを支えている。
「隆太郎」
「ん?」
「今日、放課後……寄り道しない?」
意外だった。昨夜の話のあとなら、まっすぐ帰りたくなるはずだ。
「どこに」
「本屋。参考書見たい」
「今さら?」
「今さら。だって、学校始まった」
アリスが少しだけ拗ねた顔をする。そういう拗ね方ができるなら、精神はまだ折れていない。俺は小さく笑って頷いた。
「いいよ。俺もノート買いたい」
「ほんと? じゃあ一緒」
その「一緒」が、今は何より強い約束に感じる。
※ ※ ※
学校は、相変わらず雑だった。
授業中に眠そうな顔をしてるやつ。先生に当てられて固まるやつ。休み時間に夏の思い出を語り始めるやつ。休み明けの学校には、まだ夏が残っている。俺とアリスだけが、夏の裏側の影も一緒に連れてきてしまっている気がして、少しだけ浮いているようにも思えた。
昼休み、アリスが弁当を開けて、箸を止めたままスマホを見つめていた。
「……どうした」
俺が聞くと、アリスは画面を俺に見せた。
ニュースの通知。昨夜の続き。連続不審死、捜査、事件性――そういう言葉が並んでいる。記事の見出しだけでも胃が冷える。
「また、増えてるって」
アリスの声が小さい。
「見ない方がいい」
俺はそう言いながらも、視線は一瞬だけ見出しを追ってしまった。増えている。つまり止まっていない。
胸の奥で、嫌な感覚が広がる。昨夜、佐野が「刺激になる」と言っていたのを思い出した。警察が動けば、相手は引くかもしれない。引かないかもしれない。引かないなら、もっと厄介だ。
「……隆太郎、私、怖いって言っていい?」
アリスがぽつりと言った。
「言っていい」
即答すると、アリスは少しだけ息を吐いた。
「怖い。でも、学校にいると、ちょっとだけ普通になれる」
「分かる」
俺も同じだ。教室のざわめきは、時々ありがたい。世界が事件だけでできていないと確認できるからだ。
アリスはスマホを伏せ、弁当を食べ始めた。箸の動きが少しずつ戻る。小さな回復。それを積むしかない。
※ ※ ※
放課後、俺たちは約束通り本屋へ向かった。
歩いて行ける距離にある大型書店。帰り道の選択肢が多い場所の方がいい。人も多い。視線が混ざる。安全の意味でも、今はそういう場所が助かる。
店に入ると、紙とインクの匂いがした。冷房の冷気が肌に触れて、外の熱気が一気に引く。アリスが「涼しい」と小さく笑う。たったそれだけの反応が嬉しい。
参考書コーナーで、アリスが英語の棚を眺め始める。背表紙を目で追い、指先で軽く触れていく。真剣な顔。こういう時のアリスは、怖さより“生活”が前に出る。
「隆太郎、これとこれ、どっちがいいと思う?」
アリスが二冊を持って見せる。どちらも英語の問題集。俺には違いが分からない。
「……表紙が強そうなのはこっち」
「雑」
「ごめん」
「でも、ちょっと分かる。こっちの方が圧ある」
アリスがくすっと笑って、結局もう少し棚を見た。俺はノート売り場へ行って、無地のノートを探す。何でもいいはずなのに、選ぶとなると意外と迷う。俺はそういうところがある。
レジへ向かう途中、雑誌コーナーの前でアリスが足を止めた。
ほんの一瞬だった。風に当たったみたいに、身体が固まる。俺はその変化にすぐ気づいた。
「……アリス?」
アリスの視線が、雑誌の一冊に吸い寄せられている。
ファッション誌。表紙にモデルの写真。大きな見出し。派手な色。
そして、表紙の片隅に、特集の告知が載っていた。読者モデル企画。小さな写真がいくつか並んでいて、その中の一枚が、妙に目につく。
アリスの顔色が少し落ちた。
「……やだ」
小さな声。
「何が」
俺が聞くと、アリスは指先で自分の制服の袖を握りしめた。
「……見たくないのに、目に入る」
その言い方で分かった。
天音アイラ。
佐野が偶然見つけた“雑誌の子”が、ここにも載っている可能性がある。偶然のはずなのに、こうやって目の前に出てくると偶然に見えない。
アリスは雑誌から目を逸らせないまま、震える声で言った。
「隆太郎、なんか……変」
「何が」
「私、あれ……知らないのに、知ってる気がする」
既視感。言葉にすると軽い。けれど、アリスの言い方は軽くなかった。自分の中の何かが反応してしまう、逃げられない感じ。
俺は一歩アリスの前に立って、視界を遮った。
「見なくていい」
「……でも」
「見たら、今は疲れる」
アリスは唇を噛み、ようやく頷いた。
「……うん」
俺はアリスの手を取って、雑誌コーナーから離れた。レジに並び、会計を済ませる。袋を受け取って店を出る。外の空気が熱い。けれど、さっきより息がしやすい。
店の前のベンチに座ると、アリスがようやく言葉を吐き出した。
「あの子……私じゃないのに、私みたい」
「似てるって言われたんだろ」
「うん。似てるのが嫌なんじゃなくて……嫌っていうか、怖い」
「怖い、か」
「うん。説明できないけど、怖い」
アリスは自分の膝の上で指を絡め、何度もほどき直した。落ち着かない時の癖だ。俺はそれを見て、無理に理由を探さないことにした。理由を探すと、言葉が過剰になって、怖さが増える。
だから、俺は別の角度から支えた。
「じゃあ、今はこうしよう」
「なに」
「雑誌コーナーは当分避ける。必要なら俺が買ってくる。アリスは見なくていい」
アリスが少し驚いた顔をする。
「……隆太郎、過保護」
「今は過保護でいい」
「佐野さんみたい」
「それは嫌だ」
俺が即答すると、アリスが少し笑った。笑ってくれるだけで救われる。ほんとに単純だと思う。でも、俺は単純でいい。
アリスがぽつりと言った。
「隆太郎」
「ん」
「私、取られないよね」
またその言葉。佐野への嫉妬だけじゃない。見知らぬ“似ている誰か”に、自分の存在が揺らがされる恐怖も混ざっている。
俺は迷わず答えた。
「取られない」
そして、付け足す。
「俺が好きなのは、お前だ」
アリスの目が少し潤む。
「……もう、そういうのずるい」
「ずるくていい」
「よくない」
言いながら、アリスは少しだけ肩を寄せてきた。短い距離。触れる程度。でも、心には十分だった。
※ ※ ※
帰り道、アリスの歩幅は少しだけ小さかった。
本屋での既視感が残っているのか、顔が少し硬い。それでも、途中で何度か俺の方を見て、ちゃんと隣にいるか確認する。子どもみたいで可愛いと思うのに、同時に切ない。確認しないと安心できないほどの経験を、この夏でしてしまった。
太刀川家の前で、アリスが立ち止まる。
「……今日はありがとう」
「何が」
「本屋、付き合ってくれて。あと、止めてくれて」
「当たり前だろ」
アリスは少しだけ笑って、それから真面目な顔に戻った。
「隆太郎、明日も一緒に帰ろう」
「もちろん」
「約束」
「約束」
アリスが家に入っていくのを見送り、俺は自宅へ向かった。距離は近い。近いのに、別れる瞬間はやっぱり少しだけ胸が痛い。けれど、その痛みも前より薄くなっている。薄くなるのを、俺はちゃんと喜びたい。
夜、自宅で夕飯を食べていると、健一さんから短いメッセージが来た。
『佐野が警察へ情報提供。反応待ち。明日また動く』
短い文。だが、重い。動く。つまり、影が近づいてくる。
俺は返信した。
『了解です。アリスは不安になってます。こちらも警戒します』
送って、スマホを伏せた。母さんが俺の顔を見て、静かに言った。
「今日、本屋行ったの?」
「うん。……雑誌コーナーで、アリスがちょっと」
言葉を濁すと、母さんはそれ以上踏み込まなかった。ただ頷くだけ。
「無理に説明させなくていい。本人が言葉にできない怖さは、本人のせいじゃないから」
「うん」
母さんの言葉は、いつも現実的で、優しい。
風呂に入り、布団に入る。目を閉じると、本屋の雑誌の表紙が一瞬浮かぶ。アリスの顔色が変わった瞬間も浮かぶ。知らないのに知っている気がする、という言葉が胸に残る。
天音アイラ。
偶然雑誌に載っていた少女。
それがただの偶然じゃないように感じるのは、俺の想像が過敏になっているせいかもしれない。でも、アリスの反応が“気のせい”では片付けにくい種類だったのも確かだ。
俺は結論を急がないことにした。
急げば、アリスが苦しくなる。
急げば、俺が勝手に答えを作ってしまう。
今はただ、隣にいる。
怖いと言われたら、怖いを受け止める。
好きと言われたら、好きと返す。
それだけを、明日も続ける。
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