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日常の中に潜む影

 次の日の朝、鏡の中の自分の顔が少しだけ疲れて見えた。


 寝不足というより、眠りの質が浅い。目を閉じても、頭のどこかが起きている。帰り道の足音、校門の外の視線、スマホの震え。そういうものが、夢の中にまで入り込んでくる。


 それでも制服に袖を通す。朝食を口に入れる。駅へ向かう。生活を止めると、相手に生活を奪われる。それだけはもう嫌だった。


 駅前でアリスと合流すると、アリスは少し笑って見せた。見せた、という感じだった。頬の緩みが浅い。目の奥に眠気と緊張が残っている。けれど、ちゃんと来た。ちゃんと立っている。そこが強い。


「おはよ」


「おはよう」


 声の温度は昨日より少し低い。アリスも同じことを考えているんだろう。


 ――佐野が今日も動く。

 ――天音アイラの話がどこまで広がるか分からない。

 ――朝日の犯人が“連続”になっている可能性。


 考える材料が多すぎる。


 登校中で、アリスが小さく言った。


「隆太郎、今日さ……帰り、一緒に帰ろ」


「当たり前だろ」


 即答すると、アリスが少しだけ肩の力を抜いた。


「……うん。昨日からずっと、変な感じで」


「変な感じ?」


「心が、ずっと硬い。なんか、笑いたいのに笑えない」


 その表現が、妙に正確だった。笑いたいのに笑えない。普通になりたいのに、身体が先に身構える。恐怖の名残はそういう形で残る。


 俺は、言葉を選んで答えた。


「無理に笑わなくていい」


「でも、ずっとこうだと嫌」


「じゃあ、今日は一個だけ、笑う予定作る」


「……なにそれ」


「放課後、コンビニで一個だけ甘いやつ買う。高いやつ」


 アリスがふっと笑った。


「高いやつ、好きだよね」


「お前が頑張った日に買うやつだ」


「……私、毎日頑張ってるけど」


「じゃあ毎日買うか」


「破産する」


 ようやくちゃんとした笑いが出た。俺は胸の奥で少しだけ安堵した。笑いが出るなら、まだ壊れていない。


 ※ ※ ※


 学校は、いつも通りに回った。


 授業、板書、先生の小言、提出物。休み時間に机を囲んで喋るクラスメイト。俺はそういう輪の中心にはいないけど、存在するだけでいい。そういう雑な日常に混ざっていること自体が、今は回復の工程だった。


 ただ、俺の視線は時々窓の外へ流れる。校門の外。佐野の影がないか。自分でも嫌になる癖だ。アリスに指摘されていたのに、完全には抑えられない。


 昼休み、アリスが俺のノートに小さく落書きをした。


 小さい丸と、変な顔の猫。たぶん猫。猫に見える。見えなくもない。


「……なにこれ」


「隆太郎」


「俺?」


「うん。今の顔」


「俺、こんな顔してねえよ」


「してる。ずっと怖い顔」


 アリスが小さく笑う。俺はその猫(俺)を指で軽く弾いて、消しゴムで消した。


「じゃあ、帰りに直す」


「直せるの?」


「お前が隣にいれば」


 言った瞬間、アリスの頬がほんの少し赤くなる。こういう反応があるだけで、俺は少し落ち着く。恋人の反応は、現実の温度だ。


 放課後、俺たちは教室を出た。下駄箱へ向かう途中、事務室前の廊下が見えた。昨日佐野が立っていた場所だ。今日は――いない。


 少しだけ呼吸が戻る。


 しかし、“いない”ことは安心でもあり、不安でもある。佐野は仕事のために動く。必要があるなら、別の場所で待つ。


 校門を出る時、俺は周囲を確認した。車道の向こう、信号の角、コンビニ前。佐野の姿は見えない。


「……今日は平和?」


 アリスが小さく言う。


「そうだといい」


 俺たちは昨日とは違うルートで歩いた。細い住宅街の道。人通りは少ないが、見通しはいい。交差点を一つ余分に曲がる。その程度の遠回り。けれど、それが“読まれない”というだけで、心の負担は少し減る。


 太刀川家の近くまで来たところで、健一さんの車が路肩に停まっているのが見えた。珍しい。いつもならこの時間は仕事のはずだ。


 車の横に立っている女がいた。


 黒いジャケット。肩の力が抜けた立ち方。だるそうな目。


 佐野雪芽。


 やっぱりいた。


 アリスの足が一瞬止まる。俺も止まる。逃げたい気持ちを抑える。逃げると、佐野の“確認”が強くなる。


 佐野は俺たちを見つけると、小さく手を上げた。


「……おかえり」


 挨拶の言葉が変だった。家族に言うみたいな言い方。距離感が妙だ。わざとなのか、本人が距離を測っているのか分からない。


 健一さんもそこにいた。車のドアにもたれ、腕を組んでいる。顔が硬い。仕事の顔ではなく、父親の顔だ。


「隆太郎くん、アリス」


 健一さんが二人を呼んだ。ここでは“アリス”。当然の運用。俺の中で確認する。佐野の前では絶対に間違えない。


「佐野が少し話したいと言っている。……俺も同席する」


 同席。つまり、勝手に二人きりにはさせないということだ。ありがたい。健一さんは線を守るのが上手い。


 佐野は気だるげに頷いた。


「別に二人きりにしたいわけじゃない。……誤解されるの、面倒」


 面倒と言いながら、誤解されることをちゃんと気にしている。そういうところが不気味でもあり、人間っぽくもある。


 佐野は俺を見た。


「宮本くん。昨日の続き。天音アイラの件、誤解してほしくない」


「誤解?」


 俺が聞くと、佐野は淡い声で言った。


「私があの子を見つけたのは偶然。ファッション誌」


 ここだ。設定の修正。俺は黙って頷いた。佐野が自分から言ったということは、材料の出所を誤魔化したくないということだ。仕事の誠実さが、変な方向に出ている。


 佐野は続ける。


「雑誌の特集。街の読者モデル枠。……写真だけ見た瞬間、白金さんに似てると思った。だから撮った」


 アリスが息を呑む。俺は机の下ならぬ、道路脇でそっとアリスの手を握った。アリスが握り返す。冷たい。


「それで、何が言いたいんですか」


 俺が聞くと、佐野は少しだけ眉を動かした。


「似てる人間がいる。それだけ。……でも、似てるはずがないレベルで似てる。だから、白金アリスという人物を“正体不明”と断定する材料になり得る」


 言い方が淡々としていて、余計に怖い。断定。材料。人間を証拠品みたいに扱う言葉。


 健一さんが低い声で言った。


「佐野。その話は俺が扱うと言ったはずだ」


「言った」


 佐野はすぐに頷いた。


「だから深入りはしない。……ただ、太刀川さん、依頼の本筋にも影響する可能性がある」


「どういう意味だ」


 健一さんの声が硬くなる。


 佐野は少しだけ表情を変えた。気だるさが消え、仕事の目になる。ここからが本題だと、身体が先に理解する。


「朝日の事件の犯人像。痕跡を消す。カメラの画質を落とす。……“周辺情報”を操作できるタイプ」


 佐野の淡い声が続く。


「そういう相手なら、偽の身元を作ることも、目くらましを置くこともできる。……天音アイラがその可能性に関わるかは分からない。でも、無視できない」


 俺の背中に冷たい汗が浮いた。


 犯人が、目くらましを置く。


 つまり、アリスに似た誰かが“仕込まれている”可能性がゼロじゃない、と言っている。


 そんなこと、現実にあるのかと思う。でも、朝日の映像が欠落しているような相手なら、あり得ないとは言い切れない。恐怖が、別の角度で増える。


 アリスが掠れた声で言った。


「私……関係ない」


 関係ない、と言いながら関係があるような話が出てしまっているのが一番苦しい。アリスの声が震える。


 俺は、ここでアリスの不安を増やしたくなかった。だから一度、話を切る。


「佐野さん。今その話をする必要ありますか」


 佐野は俺を見た。少しだけ目の温度が戻る。


「……必要があるかどうかは、太刀川さんが決める」


 健一さんが短く言った。


「今日のところは、保留だ」


 その言葉が、空気を一旦止めた。保留。つまり、佐野は一旦引けという命令。


 佐野は小さく頷いた。


「了解。……じゃあ本題。連続事件のニュース、今夜出る可能性がある」


 話が一気に事件側へ戻る。アリスの話題から離れる。俺はそれに少し救われた。


「出る可能性?」


 健一さんが聞くと、佐野は淡々と答えた。


「被害が続いてる。警察が動き始めた。報道が追いかける。……犯人は快楽犯寄り。特徴が出る」


 快楽犯。その単語だけで胃が冷える。


「特徴って、どんな」


 俺が聞いてしまうと、佐野は一瞬だけ躊躇した。珍しい。言葉を選んでいる。


「……目立つ特徴はない。だから厄介。でも、映像から“所作”が見える。手の使い方、間合いの詰め方。朝日の件と一致する可能性がある」


 また所作だ。腕の癖だ。型だ。顔じゃないのに、同一性を感じさせるもの。


 健一さんが短く言った。


「今夜、ニュースが出たらすぐ連絡しろ」


「するよ」


 佐野は淡い声で答えた。


 そして、佐野は唐突に肩の力を抜いた。


「……あー、疲れた。帰りにコンビニ寄りたい」


 空気がまた変わる。オフの気だるさ。ギャップが激しい。


 健一さんが低く言った。


「帰れ」


「はーい」


 佐野は素直に返して、車から離れた。去り際に一度だけアリスを見た。測る目ではなく、少しだけ柔らかい目だった――ような気がした。気のせいかもしれない。


「……白金さん」


 佐野が淡い声で呼ぶ。


 アリスがびくっとする。


「怖がらせたならごめん。……でも、私は嘘つくの下手」


 それだけ言って、佐野は歩いていった。


 残された俺たちは、しばらく動けなかった。


 健一さんが言った。


「家に入ろう」


 言われて、ようやく足が動く。


 ※ ※ ※


 太刀川家のリビングに入ると、アリスはソファに座り込むように腰を落とした。顔色が白い。さっきまで踏ん張っていたぶん、反動が来ている。


「……アリス」


 俺が呼ぶと、アリスは小さく頷いた。


「大丈夫。……大丈夫って言いたい」


 またそれだ。でも、それでもいい。言いたいと言えるだけで、崩れてはいない。


 恵さんが温かいお茶を出しながら言う。


「無理しないで。今日は早めにお風呂入って、寝よう」


 健一さんは窓の外を一度確認してから、低い声で言った。


「今夜、ニュースを待つ。……佐野の言う通り、動きがある」


 俺はアリスの隣に座り、そっと手を握った。アリスが少しだけ力を込めて握り返す。


「隆太郎」


「ん」


「天音アイラって子……私と似てるんだよね」


「ああ」


「怖い。私の知らないところに、私みたいな子がいるのが怖い」


 その恐怖は分かる。自分の存在が揺らぐ感覚。転生して姿が変わっているアリスにとって、似た姿の“別人”はなおさら不安だ。


「佐野さんは偶然だって言ってた」


「偶然でも怖い」


「……うん」


 アリスは小さく息を吐いた。


「ねえ、隆太郎。私、取られないって言って」


 安心の要求に見えるけれど、今はそれだけじゃない。不安の支柱としての言葉だ。


 俺は、ちゃんと言った。


「取られない。俺はお前の隣にいる」


 アリスの目が少し潤んで、笑いそうになって、結局小さく頷いた。


「……うん」


 その夜、ニュースは本当に流れた。


 テレビの速報が鳴り、画面に「連続不審死」だの「事件性」だの、嫌な言葉が並ぶ。アナウンサーの声が冷静で、余計に怖い。淡々とした声で、人の死が情報になる。


 佐野の言葉が現実になった。


 そして、その現実の中に、朝日の影が重なっていく。


 俺は画面を見ながら、アリスの手を握り直した。


 守るべきものが増えていく感じがした。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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