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運命という名の偶然

 佐野雪芽が帰ったあと、太刀川家のリビングには、しばらく誰も手をつけられない空気が残った。


 怖い話をしたから、というだけじゃない。情報が多すぎて、心の処理が追いつかなかったからだ。朝日の事件に“押した腕”という具体が出てきたこと。別件と繋がる可能性が浮かんだこと。そして何より――白金アリスという存在に、探偵の目が深く刺さったこと。


 アリスは泣かなかった。泣けない、が近かった。涙が出る寸前のところで踏ん張って、目を伏せて、唇を噛んでいる。震えを隠そうとしてるのが見える。


 俺は机の下でアリスの手を握り続けた。握っていないと、こっちの方が崩れそうだった。守る側のはずなのに、今は支え合っている感じが強い。


 恵さんが温かいお茶を持ってきて、アリスの前にそっと置いた。


「……飲める?」


 優しい声。いつもなら「うん」と返ってきそうなのに、アリスは少しだけ間を置いて、それから小さく頷いた。湯呑みに触れる指先が冷たい。


 健一さんはソファに座り直し、短く息を吐いた。目の奥の怒りを、言葉にしないまま押し込めている。


 母さんが落ち着いた声で言った。


「今日の整理をしましょう。ポイントは三つ。……事件の線、佐野さんの推理、そして“アリスちゃんへの興味”」


 母さんは言葉を選んでいた。“正体”とは言わない。ここでその単語を使うと、アリスの呼吸が止まりそうだからだ。


 健一さんが頷く。


「事件の線は、追う。佐野には最後までやらせる」


 恵さんが不安そうに言った。


「でも……朝日のことまで掘られたら」


 その瞬間、アリスが小さく肩を震わせた。俺は反射で握る手に力が入る。アリスが握り返してくる。痛いくらい。


 健一さんが、低い声で断言した。


「それは止める。……佐野の依頼は“朝日の件”だ。余計な線は切る」


 言い切ったのはありがたい。でも、探偵は依頼者が線を引いても、興味で動くことがある。佐野の目は、確かにそういう目だった。


 俺は胸の中の不安を押さえながら聞いた。


「……さっき見せた“天音アイラ”ってやつ、どこで見つけたんでしたっけ?」


 健一さんが答える前に、母さんが口を開いた。


「佐野さんが見せたの、どこかの街を歩く女の子の写真だったわね」


 そう言われて、俺は思い出す。佐野という"探偵"としての力量が働いて見つけたのか、それとも偶然ファッション誌で見つけて、たまたまとある街で見つけたのか。


 恵さんも頷いた。


「まさか、朝日のことをあそこまで執着するなんて……」


 健一さんが短く補足する。


「佐野は、偶然ファッション誌で見たと言っていた。そして、たまたま朝日と似た子を街で見かけた、と」


 偶然。


 偶然にしては、引っかかりすぎる偶然だった。アリスと一致する少女が、ファッション誌に載っている。世の中には似た人間がいる。そう言われたらそれまでだ。けど、今の俺たちにとっては“似ている”だけで怖い。


 アリスが掠れた声で言った。


「……私、雑誌なんて見てないから、知らない」


 当然だ。アリスが転生してきてからの三ヶ月で、ファッション誌に載るような偶然が起きるはずがない。起きるとしたら、別の意味になる。


 母さんが、アリスの湯呑みを見ながら言った。


「アリスちゃん。知らなくていいこともある。今日のは、まず“佐野さんが興味を持った”って事実だけ覚えておけばいい」


 アリスは小さく頷いた。頷いたけれど、目が揺れている。怖い。怖いのに、ちゃんと頷こうとしている。


 俺は、ここで安心を挟む余裕なんてないと思った。思ったのに、アリスがふいに俺の袖を引いた。


「……隆太郎」


「ん?」


「佐野さん、私のこと変って言うし、雑誌の子も出すし……隆太郎のこと、いっぱい呼び出すし」


 声が少しだけ拗ねている。怖さの中に、嫉妬が混じっている。アリスらしい。アリスは恐怖だけで固まらない。恋人の感情で、ちゃんと俺を引っ張ってくる。


「……不安か」


 俺が聞くと、アリスは小さく頷いた。


「うん。なんか、隆太郎が“向こう側”に連れていかれそう」


 向こう側。事件の側。探偵の側。説明と推理の側。そこに俺が引っ張られて、アリスだけが置いていかれる――そういう怖さ。


 俺は真剣に答えた。


「連れていかれない。俺はこっち側にいる」


「こっち側って、どっち」


「お前の隣」


 言った瞬間、恵さんが小さく咳払いして目を逸らした。母さんも「はいはい」と言いながら湯呑みを持って台所へ逃げた。健一さんは何も言わない。けど、口元がほんの僅かに緩んだ気がした。


 アリスは頬を赤くして、でもその赤は少しだけ血が戻った赤だった。


「……今の、ちゃんと効いた」


「効かせた」


「ずるい」


「ずるくていいんだよ」


 アリスが小さく笑う。笑えたことが、今日の救いだった。


 ※ ※ ※


 その夜、俺は自宅に戻った。


 母さんと帰り道を歩きながら、母さんがぽつりと言った。


「佐野さん、あの雑誌の子……天音アイラを“材料”として持ってきたのよね」


「材料」


「アリスちゃんにぶつけたわけじゃない。健一さんに向けたカード。でも、結果的にアリスちゃんも刺さる」


 母さんの分析は冷静で、俺の中の感情を少し整理してくれる。


「……佐野さん、アリスに興味持った」


「持ったでしょうね。しかも、あなたにも」


 俺は眉をひそめた。


「俺に?」


「あなたが一番揺さぶりやすいから。恋人っていう“感情の接点”がある。探偵は、そこを使うことがある」


 背筋が冷えた。佐野が悪人だとは思わない。けど、“必要な手段”として揺さぶる可能性はある。仕事のために。


 俺は歯を食いしばった。


「……揺さぶられない」


「うん。揺さぶられても戻ってくること。それが大事」


 母さんの言葉が、妙に刺さった。揺さぶられないのは理想だ。でも、人間は揺れる。揺れた時に戻れるかどうかが、勝負になる。


 家に着いてから、俺はベッドに倒れ込んだ。疲れが一気に降ってくる。学校が始まっただけで体力を持っていかれるのに、夕方にあれだけ濃い話を聞けば当然だ。


 スマホを見ると、通知が一件。


 健一さんからだった。


『明日、佐野が改めて来る。天音アイラの件は深入りさせない。隆太郎くん、学校の帰り道は当面一緒に。』


 短い文。けれど、頼まれている。役割を。


 俺は返信した。


『了解です。アリスは俺が守ります』


 送ってから、ふと自分の言葉を見つめた。


 守る。


 簡単に言ったつもりはない。守るには、感情だけじゃ足りない。手順も必要だ。導線も必要だ。言葉も必要だ。


 そして、何より――アリスの心が折れないように、毎日“普通”を積むことが必要だ。


 佐野雪芽が天音アイラを偶然雑誌で見つけたのは、ただの偶然かもしれない。


 けれど、探偵の手に“偶然”が載った時点で、それは次の事件の種になる。


 俺は目を閉じて、明日からのことを考えた。


 佐野はきっと、俺にまた接触してくる。

 その接触の中で、アリスは不安になる。

 不安になった時に、俺はちゃんと支えられるのか。


 考えれば考えるほど眠れなくなりそうだったから、俺は一度だけ深呼吸して、頭の中の整理を終えたことにした。


 今は休む。

 明日また動く。


 それだけだ。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

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