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白金アリスの正体

 佐野雪芽の声がスピーカー越しに消えたあとも、太刀川家の空気はすぐには戻らなかった。


 “押した腕が映ってる”。


 それは顔でも名前でもない。けれど、事故ではなく事件だと裏付けるには十分な一歩だった。犯人が存在する、という輪郭が急に濃くなる。濃くなった瞬間、人は救われるより先に、ぞっとする。犯人が“まだどこかにいる”という現実が、同じ強度で立ち上がるからだ。


 アリスは英単語帳を開いたまま、ページをめくっていなかった。指先が紙の端を触っているだけで、目は文字を追っていない。思考が別の場所に引っ張られているのが分かる。


 俺は机の下でアリスの手を握った。握り返す力が強い。痛いほどではない。でも、必死さが伝わってくる。


「……アリス、大丈夫か」


 俺が小さく聞くと、アリスは一拍置いて頷いた。


「大丈夫って言いたい」


「言いたい、か」


「うん。……でも、ちょっと怖い」


 正直な答えだった。強がらないで言えるのは、いい方向だ。怖いのに怖いと言えない方が危ない。


 健一さんは黙って、机の上の紙に目を落とした。メモだ。佐野の言葉を整理しているんだろう。父親としての感情を押し殺して、手順へ落とし込む。そういう硬さがあった。


 恵さんは、台所へ戻るふりをして、戻り切れずにその場に立っていた。胸元に手を当てて、息を整えている。取り乱してはいない。でも、心の中は荒れているはずだ。


 俺は、その場でできることが少ない自分が悔しかった。怒鳴っても、泣いても、犯人は捕まらない。必要なのは、進むことだ。進むための準備だ。


 健一さんがようやく口を開いた。


「……明日、佐野が来る」


 短い言葉。けれど重い。


「ここで、話を詰める。映像の照合と、駅の周辺の聞き込み。できる範囲でな」


 恵さんが声を絞り出す。


「朝日は、聞かなくていいよね」


 アリスの肩がわずかに揺れた。聞きたい。聞きたくない。両方がある。けれど、今のアリスに必要なのは“情報の洪水”じゃない。心が耐えられる分の情報だけだ。


「無理しなくていい」


 俺が言うと、アリスは小さく頷いた。


「うん……。でも、何も知らないのも嫌」


 その言葉に、健一さんが静かに頷いた。


「必要なことだけ伝える。怖がらせるための話はしない」


 父親の言葉は、重いけれど救いだった。


 ※ ※ ※


 翌朝、俺はいつもより早く目が覚めた。


 寝起きのぼんやりした頭の奥に、昨日の言葉が貼りついている。“腕”“癖”“同じ型”。朝の光を浴びても、すぐには剥がれない。


 制服に着替えて、朝食をとって、駅へ向かう。途中、太刀川家の前を通り、ふと窓を見る。いつもなら「アリス、起きてるかな」と思うだけなのに、今日は「無事かな」が先に来る。


 駅前で合流したアリスは、昨日より少し顔色が良かった。眠れたのかもしれない。けれど、笑顔は控えめだ。


「おはよ」


「おはよう」


 声が小さくて、でもちゃんと届く。


 学校へ向かう間、アリスはどこか遠くを見つめていた。視線がぼんやり遠い。考え事の目だ。俺は無理に話題を振らなかった。喋らせることが優しさになる時もあれば、黙って隣にいる方が効く時もある。


 学校は容赦がなかった。休み明けだからといって手加減しない小テスト。板書の量。先生の早口。クラスメイトの「やべ、ノートどこだっけ」という騒ぎ。そういう雑な日常の波に揉まれると、逆に心が少しだけ現実へ戻る。


 昼休み、アリスが弁当の蓋を開けながらぽつりと言った。


「……昨日の話、夢みたい」


「夢ならいいのにな」


「夢じゃない」


「うん。夢じゃない」


 俺は否定しない。否定したら、アリスの怖さが“嘘”みたいになる。それは違う。


 放課後になり、教室を出る直前に、俺のスマホが震えた。


 反射で肩が硬くなる。画面を見ると、佐野ではなく健一さんからだった。


『今日18時、うちで。佐野同席。隆太郎くんも来てほしい』


 来てほしい。健一さんが俺にそう言うのは、簡単なことじゃない。必要な場面だけ呼ぶ人だ。つまり、俺の記憶か、俺の視点が必要になった。


 俺はすぐに返信した。


『分かりました。行きます』


 送信して、息を吐く。隣でアリスが俺の顔を見ていた。


「……今日、佐野さん来る?」


「ああ。健一さんから。俺も行けって」


 アリスの眉が少し寄った。


「私もいる?」


「いるかどうかは……健一さん次第だな」


「……私、怖いけど、逃げたくない」


 その言葉の強さが、今のアリスの支えにも負担にもなっている気がした。逃げたくないのは立派だ。でも、逃げるべき時もある。安全のための撤退は、負けじゃない。


「無理はすんな」


 俺が言うと、アリスは小さく頷いた。


「分かってる。……でも、隆太郎の隣にいたい」


 胸が熱くなる。こういう時に言われると、余計に。


 俺は、照れをごまかすみたいに言った。


「じゃあ、俺の袖引っ張ってろ」


「子ども扱い」


「似たようなもんだろ」


「失礼な」


 アリスが少し笑った。笑いが出るなら、まだ大丈夫だ。


 ※ ※ ※


 夕方、太刀川家。


 玄関を開けると、靴が一足多かった。見慣れない、黒っぽいパンプス。嫌でも分かる。佐野はもう来ている。


 リビングに入ると、佐野雪芽がソファの端に座っていた。今日は黒いジャケット。仕事の顔。目の温度が低い。机の上にはファイルが二冊と、タブレット。準備の仕方がガチだ。


 健一さんと恵さん、そして母さんもいた。母さんがこちらに気づいて軽く頷く。アリスも一緒に来ていて、俺の半歩後ろに立っていた。緊張しているのが分かる。でも、逃げていない。


 健一さんが「座れ」と短く言い、俺とアリスは並んでソファに座った。


 健一さんは佐野を見て言う。


「始めてくれ」


 佐野は小さく頷き、タブレットを操作した。画面に映像の静止画が出る。駅前広場。解像度が低く、顔は判別しにくい。だが――腕の角度は確かに見える。押す動き。瞬間的な“力”。


「これが、当日」


 佐野は淡々と言った。


「ここで、右腕。押す動き。押し方に癖がある。手首が外に返る」


 佐野が指で軌跡をなぞる。説明が簡潔で、無駄がない。


 恵さんが唇を噛む。


「……それ、犯人ってこと?」


「可能性が高い」


 佐野が答える。「高い」を濁さない。だが断言もしない。探偵らしい距離感だ。


 佐野は次の画面を出した。


「そして、これ。別件。近隣で起きた襲撃」


 映像は荒い。ニュースで流れるほどのものではないのか、ソースが限定されているのが分かる。だが、そこにも腕の動きがあった。押し倒すような動き。手首の返り方が、確かに似ている。


 俺の背中に冷たい汗が浮く。


 同じ。もしくは同じ“型”。


「同一人物とまでは言えない」


 佐野が言った。


「でも、同じ人間が“やり方”を学んでいる可能性は高い。……真似じゃない。手際が良すぎる。慣れてる」


 慣れてる。その言葉が胸に刺さる。朝日を突き落としたのが“初めて”じゃない可能性。そう考えると、気持ち悪さの種類が変わる。


 健一さんが低く言った。


「佐野。結論は」


「連続化している可能性がある。朝日の件が単発ではなく、同一人物が別件も起こしている可能性」


 その瞬間、恵さんが小さく息を漏らした。泣く手前の声。


 アリスの肩が震えた。俺は机の下で手を握る。アリスが握り返す。指が冷たい。


 母さんが冷静に聞いた。


「次のアクションは?」


「警察への情報共有を準備する。ただし、こちらは探偵。動かせるのは“材料”だけ。警察が動くには、もう一段の確度が欲しい」


 佐野が言う“材料”は、俺たちにとっては充分怖いのに、社会的にはまだ弱いのだろう。悔しい現実だ。


 健一さんが頷き、次に俺を見た。


「隆太郎くん。もう一度確認する。駅前で別れた位置。右寄り。コンビニの看板。ベンチの視界。間違いないな」


「はい」


「その時、誰かにぶつかった記憶は」


「ありません」


 佐野が割って入る。


「宮本くん。別れた直後、後ろを振り返ってない。これは確定?」


 声が少しだけ鋭い。仕事の刃。


「確定です」


 俺が言うと、佐野は小さく頷いた。


「了解。……君が振り返らなかったこと自体が、犯人には都合がいい。目撃が増えないから」


 言い方が冷たい。でも、現実だ。


 その時、佐野がふっと肩の力を抜いた。椅子にもたれ、気だるそうに天井を見上げる。


「……はあ。真面目にやると疲れる」


 さっきまでの空気はどこへ行った、と思うくらい急に温度が変わる。ギャップが激しい。恵さんが思わず言った。


「佐野さん、急に……」


「仕事終わったわけじゃないけど、脳が糖分求めてる」


 佐野が淡々と呟く。母さんが小さく息を吐いた。


「甘いもの、出しましょうか」


「助かる」


 会話が人間っぽくなった瞬間、アリスの緊張がほんの少しだけ和らいだのが見えた。怖い話のまま息ができないより、こういう“ズレ”がある方が救われることもある。


 けれど、佐野は次の瞬間また仕事の目に戻った。


 そして、アリスを見た。


「……白金さん」


 アリスの身体が僅かに固まる。俺の胸も硬くなる。


「あなたの件、少しだけ分かったことがある」


 空気が一気に冷える。やっぱり掘っている。


 健一さんが低く言った。


「佐野。依頼は――」


「依頼の範囲内」


 佐野は淡々と言い切った。


「太刀川家に関わる人間は、調査対象になり得る。……白金アリスという人物、履歴が薄い。留学生として成立していない部分がある」


 言われた瞬間、アリスの指先が俺の手を強く握った。怖い。正体の揺らぎが、目の前で形になる。


 俺は息を吸って言い返そうとした。けれど、健一さんが先に口を開いた。


「佐野。それは俺が処理する。今は朝日の件を優先しろ」


 健一さんの声に、絶対に譲らない硬さがあった。


 佐野は一拍置いて、肩をすくめた。


「……分かった。じゃあ、これは“参考”だけ」


 そう言って、ファイルから一枚の写真を出した。スマホで撮ったような、雑誌の街角のスナップ。そこに写っていたのは――


 アリスと、驚くほど似た少女だった。


 髪の色は違う。けれど顔立ち、目の形、背の高さ、肩のライン。ぱっと見は別人なのに、並べたら同じ型紙で切り取ったみたいに一致する。


 アリスが息を呑む。


「……だれ」


 声が掠れている。


 佐野が淡々と言った。


「天音アイラ。……偶然ファッション誌から見つけた。あなたと一致する要素が多い」


 俺の喉がひやりとした。天音アイラ。初めて聞く名前なのに、ぞっとする。アリスの存在を揺らがせる“影”として完璧すぎる。


 佐野は続けた。


「まだ深追いはしてない。依頼の本筋じゃないから。……でも、白金アリスという人物が“正体不明”である可能性は上がった」


 正体不明。その言葉が鋭利すぎる。


 アリスの目が揺れて、今にも泣きそうになる。俺は反射で言った。


「佐野さん、それ以上――」


「言わない」


 佐野が珍しく即答した。


「今は言わない。……ただ、私は興味がある。矛盾があるから」


 淡い声。気だるいのに執拗な声。


 健一さんが低く言った。


「佐野。そこまでだ」


 佐野は小さく息を吐き、写真をファイルに戻した。


「分かった。……じゃ、今日はここまで」


 そう言って佐野が立ち上がる。オフの顔に戻りかけた瞬間、恵さんが小さく言った。


「佐野さん、甘いもの……」


「帰りに買う」


 短く答えて、佐野は玄関へ向かった。


 ドアが閉まったあと、リビングに残ったのは、張りつめた沈黙だった。


 健一さんがまず、アリスに向けて言った。


「アリス。大丈夫か」


 アリスは頷こうとして、途中で止まった。頷けない。怖すぎる。


 俺が代わりに言った。


「……大丈夫じゃない。でも、ここにいる」


 アリスがようやく、かすかに頷いた。涙が一粒落ちる。拭う手が震える。


 母さんが静かに言った。


「今日はもう休みましょう。情報が多すぎた」


 恵さんも頷く。


「朝日……じゃなくて、アリス。お茶飲もう。温かいの」


 言い直した恵さんの声が震えていた。怖いのはアリスだけじゃない。家族全員が揺れている。


 俺はアリスの手を握りながら、頭の中で二つのことを同時に考えてしまった。


 一つは、朝日を殺した犯人に近づいているということ。

 もう一つは、佐野雪芽が“白金アリス”に興味を抱いたということ。


 犯人を追う道と、アリスの正体が揺らぐ道が、同じ場所で交差し始めている。


 俺は、その交差点がいちばん危険だと直感していた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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