解明される事実
佐野雪芽の「似た手口がある」という言葉は、その日の夜になっても頭の中で離れなかった。
田村の件は、線を引き、枠を作り、誓約で終わらせた。怖さは残ったけど、あれは“形”にできる恐怖だった。相手の名前があり、行動のパターンがあり、対応の手順があった。だから、こちらも対策を積めた。
でも、佐野が匂わせたのは別だ。
名前も顔も分からない相手が、同じ街のどこかで動いている。しかも、動きが「綺麗すぎる」。準備している。痕跡を消す。偶然の事故に見せかける。
そういう相手を想像した瞬間、俺の身体は勝手に硬くなる。怖いのは、目の前の危険だけじゃない。危険が見えないこと、そのものが怖い。
その夜、アリスは太刀川家にいた。俺は自宅に戻っていて、机に向かっていたはずなのに、ページの数字が全然入ってこなかった。鉛筆の先がノートをなぞっているだけで、頭の中では佐野の淡い声が繰り返される。
――下校の導線、変えた方がいい。
導線。リスクマネジメントの言葉が、急に現実になる。俺は翌日から、アリスと帰るルートを二つ、三つと用意しておくことにした。遠回りでもいい。読まれない方がいい。たったそれだけの工夫で、最悪が一つ減るなら安い。
そうやって現実的な行動に落とし込もうとするほど、心は逆に追いつかなくなる。
朝日を突き落とした“本当の犯人”はまだ捕まっていない。
そして俺たちは、今もその街で生活している。
※ ※ ※
翌日、朝。
駅前でアリスと合流した。制服姿のアリスは、昨日より表情が固い。佐野の話が効いている。俺も同じだ。いつもより周囲を見る回数が増えてしまう。自分でも嫌になる。
「……隆太郎、見すぎ」
アリスが小さな声で言った。
「悪い」
「悪くないけど……私も怖くなる」
俺は息を吐いた。俺の警戒がアリスの恐怖を増やす。その悪循環は避けたい。守るためにやってるのに、逆に傷つけるなら意味がない。
「じゃあ、約束する」
「なに」
「周りを見るのはやめない。でも、顔には出さない」
アリスが一瞬だけぽかんとして、それから苦笑した。
「難しそう」
「難しい」
「正直だね」
「正直なのが売りだ」
「そういう売りいらない」
アリスが少し笑ってくれて、俺の胸がほんの少し軽くなる。こういう会話が、緊張を解くための呼吸になる。
学校は普通だった。授業、課題、小テスト。先生が「休み明けだからな」と言いながら容赦なく出してくるプリント。クラスメイトが「だる」とぼやきながらも、結局は手を動かしている。
そういう平和が、ありがたい。
けれど、放課後になって校門へ向かう頃、俺の中で警戒がまた静かに立ち上がった。佐野が昨日、校舎内の廊下にいた。合法的に入ってきた。今日も、いるかもしれない。
俺はアリスの顔を見た。アリスも同じことを考えている目をしていた。
「……今日、校門見てから出よ」
「うん」
二人で窓越しに外を確認する。佐野の姿はない。少しだけ呼吸が戻る。
校門を出て、今日は昨日と違うルートで歩いた。少し遠回り。住宅街の中の道。人通りは少ないが、見通しはいい。歩幅を揃え、会話を途切れさせない。
アリスがぽつりと言った。
「隆太郎、昨日のこと……お父さんたちに言う?」
「健一さんには、佐野が学校に来たこと伝えた。……俺たちの導線変える話も」
「うん……」
アリスは少し黙ってから言った。
「ねえ。佐野さんって、味方だよね?」
その問いが難しい。探偵としては味方だ。健一さんの依頼で動いている。朝日を殺した犯人を追うために。
でも、アリスの存在に不信感を持ち始めている。俺たちの生活に踏み込む。心を削る。
味方であって、厄介者でもある。
「……健一さんの味方だ」
俺は現実的に答えた。
「俺たちの味方かどうかは、これから分かる」
アリスが小さく頷く。
「分かるの、怖い」
「怖いな」
俺は短く認めた。怖いものを怖いと言えるのは大事だ。
※ ※ ※
その日の夜、太刀川家に寄った。夕飯の前に少し勉強を見て、食べて、帰る。最近のルーティンだ。
玄関を開けると、恵さんが「おかえり、隆太郎くん」と迎えてくれた。もうこの家に入る時、緊張より先に安堵が来るようになっている。太刀川家は俺にとっても“避難場所”になっていた。
リビングに入ると、健一さんが珍しくノートパソコンを開いていた。机の上に紙も広げている。仕事の顔だ。
「隆太郎くん」
健一さんが俺を見て言った。
「佐野から連絡があった」
胸が冷たくなる。佐野という名前だけで、空気が変わる。
「何て」
「……ニュースには出ていないが、近隣で女性が襲われた件がいくつかある。時期が近い。場所が近い。朝日の件と同じ匂いがする、と」
健一さんの言い方は抑えていた。でも、その抑えが逆に怒りを感じさせる。父親の怒りは、派手じゃない。静かで、深い。
恵さんがキッチンから出てきて、眉をひそめた。
「同じ匂いって……朝日を殺した人と同じってこと?」
「可能性がある」
健一さんが答える。
アリスはリビングの端で英単語帳を開いていたが、手が止まっていた。聞きたくないのに聞こえてしまう。顔が少し白い。俺は彼女の横に座り、机の下で手を握った。
アリスが小さな声で言った。
「……また、誰かが」
言葉が続かない。喉で止まる。恐怖と、怒りと、悲しさが絡まっている。
健一さんが言った。
「佐野は、朝日の件の“当日の映像”をもう一度洗い直すと言っている」
「映像?」
俺が聞き返すと、健一さんは頷いた。
「駅の監視カメラは欠落がある。だが、周辺のカメラは残っている。駅前広場の画質が落ちた時間帯、そこを重点的に」
画質が落ちた時間帯。偶然じゃない可能性。誰かが痕跡を消した可能性。
佐野が言っていた「欠け方が自然じゃない」という言葉が蘇る。
恵さんが不安そうに言った。
「……佐野さん、見つけられるの?」
「見つけると言っている」
健一さんの声が、少しだけ強くなる。信じたい。信じなければ折れる。そういう声だ。
その時、健一さんのスマホが震えた。画面を見た健一さんの表情が変わる。
「……佐野だ」
通話をスピーカーに切り替えると、佐野の淡い声が部屋に落ちた。仕事モードの温度だ。
『太刀川さん。今、駅前広場の映像を確認した。……“押した腕”が映ってる』
空気が凍った。
腕。
顔ではない。全身でもない。でも、腕が映っている。押した瞬間の行為が映っている。
健一さんが息を止める。
『ただ、解像度が足りない。顔は映らない。けど、右腕の動き、手首の角度、癖がある。映像の前後で同じ人物らしき影が出入りしてる』
佐野の言葉は淡々としていた。でも、その淡々さが余計に怖い。確信に近い情報を、感情なしで投げてくる。
『明日、別件の連続事件の映像と照合する。……似てる。たぶん同じ』
健一さんの声が低くなる。
「同じ?」
『同じ人物か、同じ型。……少なくとも偶然ではない』
恵さんが両手で口元を押さえた。声にならない息が漏れる。
アリスが小さく震え、俺の手を強く握り返した。痛いくらい。でも、その痛みが今はありがたかった。ここにいる。俺の手を掴める。生きている。
佐野が続ける。
『それと、田村の件は終わったと聞いた。良かった。……今後は別の危険が上がる。しばらく防犯優先。導線の固定は禁止』
口調が指示に近い。けれど今は反発できなかった。佐野が投げた情報の重さが、それを許さない。
健一さんが短く答える。
「分かった。朝日の件は――」
言いかけて、健一さんは言葉を止めた。佐野の前では、朝日=アリスのことは言えない。健一さんは一拍置き、言い換える。
「……娘の件は頼む」
『任せて』
佐野の声には、珍しく迷いがなかった。仕事の時の真面目さが、むき出しになっている。
通話が切れると、部屋の空気がしばらく動かなかった。誰も言葉を見つけられない。
俺はようやく息を吐いて、アリスの方を見る。アリスは唇を噛みしめていた。涙は出ていない。でも、目が揺れている。怖い。思い出したくない。けれど思い出が勝手に引きずり出される。
「……アリス」
俺が呼ぶと、アリスは小さく頷いた。
「……うん。大丈夫。今は、ここにいる」
自分で言い聞かせるみたいな声だった。その健気さが、胸を痛くする。
健一さんが低い声で言った。
「……やっぱり、事故じゃない。最初から、そうだと思っていた。だが、証拠が近づいてきた」
恵さんが震える声で言う。
「……朝日を、殺した人が、まだどこかで」
言葉が途切れる。続きを言いたくない。
俺はその続きを心の中で勝手に言ってしまう。
――まだどこかで、楽しんでいる。
あの不穏な夜が脳裏に浮かんでしまった。
俺は歯を食いしばった。怒りで動かない。でも、怒りを燃料にする。守るために。
佐野雪芽は、ただの不快な探偵じゃない。
朝日を殺した影に、本当に手を伸ばそうとしている。
それが救いなのか、新しい恐怖の始まりなのか。
まだ分からない。
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