恐怖は身近に
日常は、戻る時ほど厄介だと思う。
戻ってきたと錯覚した瞬間に、隙ができる。人は安心すると視界が狭くなる。狭くなるから、また不意打ちを食らう。そうやって緊張と安心を行ったり来たりして、心が削れていく。
田村の件が落ち着いて、佐野雪芽の“線引き”も一応は通ったはずだった。健一さん経由にする、と佐野は言った。言ったからといって守るとは限らないが、少なくともその場では引いた。
なのに翌日、俺のスマホは一度も震えなかった。
それが逆に気持ち悪い。
相手が静かな時ほど、こっちの想像が勝手に膨らむ。佐野が引いたのか、それとも別のやり方に切り替えたのか。探偵という職業は、“連絡しないこと”すら行動に見えるから困る。
そして、その答えは、放課後にいきなり出た。
※ ※ ※
放課後の教室。担任が出ていって、クラスの空気がゆるむ。俺は机の上のプリントを鞄にしまいながら、隣のアリスを見た。アリスはノートを閉じて、息を吐く。疲れは見えるけど、ちゃんと“学校の顔”に戻っている。
「今日、どうする?」
俺が聞くと、アリスは少し考えた。
「……私の家、寄ってから帰る。お母さんが夕飯早めって言ってた」
「じゃあ途中まで一緒だな」
「うん」
教室を出て廊下を歩いていると、後ろから声がした。
「宮本くん」
聞き慣れているはずの、でもここでは聞きたくない声。
俺は反射で足を止めた。アリスも同時に止まる。振り返ると、そこにいたのは佐野雪芽だった。
校舎の中。
入っている。
いや、正確に言えば“入れる場所”にいた。保護者受付の札を首から下げ、事務室の前の廊下に立っている。学校関係者として合法的に中へ入っている。合理的すぎて、背筋が冷えた。
「……なんで、ここに」
俺が言うと、佐野は気だるげに答える。
「健一さんに頼まれた。学校の先生と話す。ついでに、君に一言だけ」
ついでに、という言い方が嫌だった。俺は“ついで”で消費される情報じゃない。
アリスが俺の袖を掴む。強くはない。けれど、爪先に力が入っているのが分かる。逃げたい。でも逃げたくない。そんな揺れ。
「一言って何ですか」
俺が聞くと、佐野は小さく頷いた。
「朝日の件。駅の周辺で、同時期に“似た手口”があった」
その言葉で、廊下の空気が一段冷えるのを感じた。似た手口。突き落とし。事故に見せかけるやり方。
「……何の話ですか」
俺の声が少し低くなる。
佐野は淡々と続けた。
「まだ確定じゃない。けど、別件で女性が襲われた事件もある。時期が近い。場所が近い。……そして、相手の動きが綺麗すぎる」
綺麗すぎる。昨日も佐野は同じようなことを言っていた。準備してる。手際がいい。
その言葉が、胸に冷たい針を落とした。
アリスが小さく息を呑む。顔色が少し落ちる。田村とは違う脅威の匂いを、彼女も感じ取ったんだと思う。
「それ、ニュースになってないですよね」
俺が言うと、佐野は頷いた。
「小さい扱い。事件としては繋がってない。……でも私は繋げたくなる」
言い方が、ぞっとするほど真面目だった。自分の好奇心で繋げたいのではなく、仕事として繋げるべきだと思っている目。
佐野は俺を見た。
「宮本くん。下校の導線、変えた方がいい」
「……導線?」
「毎日同じ道は読まれる。特に太刀川家と君の家は近い。交差点で分かれるのも、分かりやすい」
それは現実的な忠告だった。田村の時も、ルーティンが読まれることの怖さはあった。けれど佐野が言っているのは、そのレベルじゃない。もっと冷たい脅威を想定している。
アリスが掠れた声で言った。
「佐野さん……それって、私たちが狙われてるってことですか」
佐野は一拍置いて、答えた。
「狙われてるとは言わない。……でも、“目立つ”」
目立つ。金髪の留学生。事件の当事者の家族の周辺。俺たちの存在が、どこかで“目印”になる可能性がある。
佐野は続ける。
「今日はこれだけ。今から先生と話す。……帰り道、気をつけて」
そう言って、佐野は事務室の方へ歩いていった。気だるげなのに、動きは無駄がない。仕事モードのままの背中。
俺とアリスは、その場でしばらく動けなかった。
廊下を歩く生徒の声が遠い。部活の掛け声も遠い。自分たちだけが、別の空気の中にいるみたいだった。
「……隆太郎」
アリスが小さく呼ぶ。
「ん」
「私、また怖くなった」
その言葉が、胸の奥を締めた。田村が終わって、ようやく呼吸が戻りかけたところなのに、また別の恐怖が忍び寄る。
俺は、アリスの袖を掴む指の上に自分の手を重ねた。
「怖いよな」
否定しない。否定したら、アリスは自分の感覚を責める。
「でも、今は“怖い”って言えてる。それが大事だ」
アリスが少しだけ頷く。目が潤んでいる。頑張ってるのが分かる。
「……帰ろ」
俺が言うと、アリスは「うん」と答えた。短い返事。けれど、足はちゃんと動いた。
校門を出る。外の空気はまだ暑い。なのに、肌が少し寒い感じがする。背中に冷たい風が当たるような感覚。
帰り道、俺は普段の交差点を避けた。一本手前で曲がって、少し遠回りして歩く。アリスも黙ってついてくる。歩幅が揃うだけで、心が少し落ち着く。
「今日、遠回りだね」
アリスがようやく言った。
「ああ。佐野さんの言う通り、読まれるのは嫌だ」
「……私、佐野さんのこと、嫌いって言いそう」
「嫌いでもいい。でも、言わない方がいい」
「分かってる……悔しい」
アリスの悔しさは、佐野への反発だけじゃない。世界が勝手に踏み込んでくることへの悔しさだ。
俺は言った。
「悔しいなら、俺たちができることを増やす」
「例えば?」
「例えば、帰り道を変える。例えば、二人で歩く。例えば、何かあったらすぐ連絡する。……小さなことでも、積む」
アリスは少し考えてから頷いた。
「……うん、分かった」
その言葉が、妙に頼もしかった。
田村の件は決着がついた。
でも、“怖さ”は別の形で戻ってきた。
そしてそれは、恋愛の勘違いみたいに生ぬるいものではなく、もっと冷たい種類の影の匂いがした。
佐野雪芽が言った“似た手口”。
その言葉だけが、耳の奥に残って離れなかった。
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