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好きって言って

 校門の外から佐野雪芽の姿が消えたあとも、教室の空気はすぐには元に戻らなかった。


 正確に言えば、教室自体は何も変わっていない。解散の声がかかれば、みんな一斉に鞄を掴んで立ち上がるし、昼どうするだの、どこ寄るだの、そんな話が飛び交う。始業式の日らしいゆるさもある。世界はちゃんと“普通”のスピードで動いている。


 ただ、俺とアリスだけが、その普通に半歩遅れていた。


 アリスは席を立ったあとも、窓の外を一度だけ確認してから、ようやく鞄を肩にかけた。俺も同じように視線を流したが、もうそこに佐野の姿はなかった。


「……いないね」


 アリスが小さく言う。


「いないな」


「ほんとに帰ったのかな」


「分からない」


 曖昧に答えるしかない。今の俺たちにとって、一番嫌なのは“見えてないだけ”の状態だ。見えていれば警戒できる。見えなくなると、想像が勝手に膨らむ。


 俺たちは一緒に教室を出た。廊下はまだ騒がしい。休み明け初日で午前解散ともなれば、みんな足取りが軽い。部活の予定を話してるやつ、購買へ走るやつ、スマホを見ながら笑ってるやつ。学校の廊下は、事件も探偵も知らない顔をしている。


 その無関心さに、少し救われる。


 階段を降りながら、アリスが俺の袖をちょんと引いた。


「隆太郎」


「ん?」


「……今日、ちょっとだけ寄り道したい」


 意外だった。佐野が校門の外に立っていた直後だ。俺なら真っ直ぐ帰りたくなる。


「寄り道?」


「コンビニでアイス買うくらいの、ちょっとだけ」


 その言い方に、俺は少しだけ納得する。逃げるんじゃなく、普通を取り戻したいんだろう。怖いからって一直線に閉じると、次に外へ出る時のハードルが上がる。それをアリスも、なんとなく分かっているのかもしれない。


「……いいけど、俺と一緒な」


「そのつもり」


 アリスが少しだけ笑う。その笑顔が見られただけで、俺の中の警戒が少しだけ和らいだ。


 下駄箱で靴を履き替え、校門へ向かう。自然と歩幅が揃う。こういう何でもない動きの一つ一つが、俺にはありがたかった。今まで何度も“当たり前”を失いかけてきたから、こういう当たり前が妙に重い。


 校門を出る前、俺は一度だけ周囲を見た。道路沿い、向かいの自販機、少し離れた交差点。佐野の姿はない。


「……やっぱ帰ったかな」


 アリスが言う。


「かもな」


 言った直後だった。


「帰ってない」


 すぐ横から声がした。


 俺もアリスも揃って肩を震わせた。反射みたいに振り向くと、校門脇の塀の影に、佐野雪芽が立っていた。壁にもたれるみたいな気だるい姿勢。なのに、目だけはしっかりこっちを見ている。


「……びっくりした」


 アリスが本気で息を呑んでいる。俺も心臓が変な跳ね方をした。


 佐野は少しだけ首を傾げた。


「ごめん。そんなに驚くと思わなかった」


「思うだろ」


 俺が言うと、佐野は小さく瞬きをしただけだった。悪気があるのかないのか、判断しにくい。そこがまたやりづらい。


「……何ですか」


 俺は声を低くして聞く。校門のすぐ前だ。学校の目もある。ここで変に揉めるのは避けたい。


 佐野は手に持っていた紙コップのコーヒーを一口飲んでから、淡い声で言った。


「追加。白金さんに一つだけ聞きたい」


「嫌です」


 アリスより先に俺が返した。自分でも少し驚くくらい早かった。


 佐野の目がわずかに細くなる。


「……即答か」


「さっきも言いましたよね。必要なら健一さん経由でって」


「仕事が遅くなる」


「それはこっちの都合じゃない」


 言いながら、俺は自分の声が少し硬くなっているのを自覚した。怒っているわけじゃない。いや、少しは怒っている。けど、それ以上に“これ以上踏み込ませたくない”という警戒心の方が強い。


 アリスが俺の横で、小さく息を吸った。緊張している時の呼吸だ。


 佐野はその気配を感じ取ったのか、今度はアリスに直接視線を向けた。


「……ごめん。そんなに身構えないで」


 そう言う声だけは柔らかい。仕事の時の冷たさとも、気だるい時の投げやりさとも少し違う。相手を落ち着かせるために“調整した声”だ。


 でも、それが余計に気持ち悪かった。必要に応じて温度を変える人間は、どこまでが本音か分からない。


「何を聞きたいんですか」


 アリスが先に聞いた。声は少しだけ硬いが、逃げていない。俺はその横顔を見て、胸が痛くなる。頑張らなくていいのに、頑張ろうとしてしまう。


 佐野は紙コップを持ち替えて、さらっと言った。


「日本に来た時期。大まかでいい」


 またそれだ。


 “事件の調査”を装いながら、アリスの履歴へ触れてくる。探偵としては自然な確認かもしれない。でも、俺たちにとっては最も触れられたくない場所だ。


「佐野さん」


 俺が遮ると、佐野はやれやれという顔もせずにこちらを見た。


「何」


「それ、朝日の事件に関係ありますか」


「あるかもしれない」


「かもしれない、で踏み込みすぎです」


 佐野は少しだけ黙った。周囲を数人の生徒が通り過ぎていく。誰もこっちを気にしない。学校の外の会話なんて、その程度のものだ。だからこそ、こっちの緊張だけが浮く。


 やがて佐野は、諦めたみたいに肩を落とした。


「……分かった。今日はやめる」


「今日は、じゃなくて」


 俺が言いかけると、佐野は珍しく少しだけ笑った。


「宮本くん、君、ほんとに彼氏なんだね」


 その言葉に、アリスの肩がぴくっと動いた。頬がほんの少し赤くなる。俺も一瞬だけ言葉に詰まりそうになったが、負ける気がして、平静を装った。


「そうですけど」


「へえ」


 佐野はそれ以上そこには触れなかった。でも、“確認した”目はしていた。


 そして、予想外のことを言った。


「じゃあ、今日は私もコンビニ行く」


「……は?」


 俺もアリスも揃って変な声が出た。


「アイス買うって言ってたでしょ」


 佐野は気だるげに言う。さっきの会話、聞こえていたらしい。しかも悪びれもしない。


「聞いてたんですか」


「近かったから」


 近かったから、で済ませるなよ、と思う。俺の中で警戒と呆れが同時に湧く。アリスは完全に警戒色の顔だ。


「嫌です」


 今度はアリスが先に言った。はっきりと。短く、でも迷いなく。


 佐野が少しだけ目を見開く。驚いたらしい。


「……そう」


「嫌です」


 アリスは繰り返した。今度は少し強く。たぶん、自分でも驚いているはずだ。田村の件のあと、“嫌”を口にする強さを少しずつ覚えてきた。その成長が、ここで出た。


 俺は横で、心の中だけで拍手したい気分だった。けど表情は変えず、言葉だけ添える。


「そういうことです」


 佐野は数秒だけ黙って、それから、紙コップを軽く振った。


「……分かった。じゃあ帰る。今日は嫌われた」


 “今日は”という言い方が気になる。でも、今はそれ以上相手を刺激したくなかった。


 佐野は本当に踵を返した。拍子抜けするくらい素直に去っていく。けれど、数歩進んだところで、振り返らずに言った。


「白金さん」


 アリスが身構える。


「嫌って言えるのは、ちゃんと強いよ」


 それだけ言って、佐野は手をひらひらさせながら歩いていった。


 残された俺たちは、しばらくその場から動けなかった。


 先に口を開いたのはアリスだった。


「……なんなの、あの人」


「俺が聞きたい」


「褒めてるのか、怖がらせたいのか、全然分かんない」


「多分、本人も全部は分かってない」


 俺がそう言うと、アリスが少しだけ笑った。緊張で固まっていた顔が、やっと少し崩れる。


「……ねえ、隆太郎」


「ん?」


「私、今の言い方、変じゃなかった?」


「全然。むしろよかった」


 アリスがほっとしたように息をついた。


「よかった……。言ったあとで、足ちょっと震えた」


「見えなかった」


「ほんとは震えてたもん」


「じゃあ、なおさら偉い」


 アリスは少しだけ照れた顔をして、視線を逸らした。


「……褒められると、恥ずかしい」


「でも褒める」


「うう……」


 その反応が可愛くて、俺は少しだけ笑った。アリスもつられて笑う。さっきまでの空気がようやく抜けていく。


 結局、俺たちは当初の予定通りコンビニへ行った。校門から少し離れたところにある、小さな店だ。冷房が効きすぎていて、外の熱気が嘘みたいに消える。


 アイスケースの前で、アリスが真剣に悩み始めた。


「どうしよう」


「さっき苺食ってただろ」


「それとこれとは違うの」


「違うのか」


「違うの。今日はね、頑張ったから」


「じゃあ高いやつにしろ」


 そう言うと、アリスが吹き出した。


「雑な褒め方」


「いいだろ」


 アリスは結局、少し高めのカップアイスを選んだ。俺は適当にバニラを取る。レジを済ませて、店の前のベンチに座る。平日の午後で人も少ない。日陰に入ると、風が少しだけ通る。


 アリスはスプーンで一口すくって食べて、それから隣の俺を見た。


「……ねえ」


「ん」


「さっき、“彼氏なんだね”って言われて、ちょっと嬉しかった」


 不意打ちだった。


「なんでだよ」


「だって、ちゃんとそう見えてるってことでしょ」


「……まあ」


「で、隆太郎もちゃんと『そうですけど』って言った」


 そこか。


 アリスの目が少し楽しそうになっている。さっきまであんなに緊張していたのに、こうして回復していく速度が時々すごい。


「そこ、嬉しいのか」


「うれしい」


 きっぱり言われると、こっちの方が照れる。


 アリスはスプーンを持ったまま、少しだけ身を寄せた。


「だから……今日の佐野さん、ちょっとだけ嫌だったけど、ちょっとだけありがとうかも」


「複雑だな」


「うん。すごく複雑」


 アリスが笑う。俺も苦笑いするしかない。


 でも、その笑顔を見て、俺は思った。こうやって嫉妬したり、拗ねたり、好きだと言葉を欲しがったり、そういう“普通の恋人っぽさ”が戻ってきているのは、たぶん良いことだ。事件も探偵も厄介だけど、それとは別に、俺たちはちゃんと恋人としての日常を積み直している。


 そのことを、もっと大事にしないといけない。


 佐野雪芽はこれからも、たぶん接触してくる。

 アリスの身元を探るために。

 朝日の事件の真相に近づくために。


 でも、そのたびにアリスが不安になるなら、俺は毎回ちゃんと埋める。


 言葉でも、態度でも、手を握ることでも。


 “取られない”を、何度でも実感させる。


 ベンチの上で、アリスがぽつりと言った。


「……隆太郎」


「ん?」


「もう一回、言って」


 何を、なんて聞かなくても分かった。分かったけど、少しだけ意地悪したくなる。


「何を」


「分かってるくせに」


「ちゃんと言わないと分かんねえな」


 アリスがむっとした顔になり、少しだけ頬を膨らませる。


「……好きって」


 声が小さすぎて、最後の方は風に溶けそうだった。


 俺は少しだけ笑って、それでもちゃんと聞こえるように言った。


「好きだよ」


 アリスが目を細めて、満足そうに笑った。


「うん。じゃあ大丈夫」


 その“じゃあ大丈夫”が、今日の答えだった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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