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新学期

 夏休みが終わった。


 その事実をいちばん先に実感したのは、始業式の朝、制服に袖を通した瞬間だった。


 白いシャツの感触。ネクタイを締める手つき。鏡の前に立った自分の姿。たった数週間前まで当たり前だったはずなのに、妙に久しぶりに感じる。夏休みの間に、あまりにも色んなことが起きすぎたせいだと思う。


 海に行って、祭りに行って、笑った。


 その隣で、田村の件があって、家の中まで気を張る時間が続いた。ようやく決着がついたと思ったら、今度は佐野雪芽という探偵が現れて、朝日の――いや、アリスのまわりを、静かに嗅ぎ回り始めた。


 楽しい思い出と、不穏な記憶が同じ夏休みの中に詰め込まれている。そのせいで、始業式の朝なのに、季節が一つ進んだというより、長い何かをようやくくぐり抜けたみたいな感覚の方が強かった。


 階下へ降りると、母さんが朝食を用意していた。トーストにスクランブルエッグ、サラダ。変わらない朝の匂いが、妙にありがたい。


「おはよう」


「おはよう、隆太郎。ネクタイ、ちょっと曲がってるわよ」


「うわ、マジか」


 鏡も見たのに、と言いながら結び直す。母さんがそれを見て小さく笑った。


「休み明けだものね。感覚、鈍るわよ」


「そういう問題かな……」


「そういう問題よ。朝ごはん食べて、ちゃんと頭起こしなさい」


 言われるまま席につく。トーストを口に運びながら、窓の外を見る。夏の光はまだ強い。けれど、朝の空気にほんの少しだけ乾いたものが混ざっていた。八月の終わりと九月の始まりの間にしかない、季節の継ぎ目みたいな匂いだった。


「アリスちゃん、今日は太刀川さんの家からそのまま行くのよね」


 母さんが何気ない調子で言う。


「うん。駅前で合流する」


「気をつけてね」


「分かってる」


 その一言の中に、母さんはいろんな意味を込めていた。


 田村の件が完全に“なかったこと”になったわけじゃないことも、佐野雪芽という新しい不安が生まれていることも、全部分かった上での「気をつけて」。俺は短く返して、残ったトーストを口に入れた。


 家を出ると、日差しはもう十分強かった。けれど、肌に触れる風だけが少し違う。蝉の声が前より減っていて、その代わりに空が高く見える。毎年同じように季節は移るのに、今年はそれを受け取る側の気持ちがいつもと違っていた。


 駅前へ向かう途中、太刀川家の前を通る。


 少し前に引っ越してきたばかりのその家は、もうすっかりこの辺りの風景に馴染み始めていた。近い。歩いて行ける距離に、アリスの両親の家がある。それは奇跡みたいな配置だと思う時もあるし、運命という言葉を安っぽく使いたくなる時もある。


 そして今の俺たちにとっては、その“近さ”が現実的な安全でもあった。


 駅前に着いて少し待つと、アリスがやってきた。


 制服姿を見ると、やっぱり少しだけ胸が鳴る。見慣れているはずなのに、休み明けの最初は別だ。金髪と青い瞳に学校の制服、という組み合わせの非日常感は、何度見ても不思議なのに、同時にもうそれが当たり前でもある。


「隆太郎」


「おう」


 アリスは俺の前で立ち止まって、少しだけ照れたように笑った。


「なんか、変な感じ」


「何が」


「制服で会うの。……いや、会ってたんだけど、休みの間ずっと違う服だったから」


 言われてみればそうだった。祭りも私服だったし、太刀川家で会う時も部屋着に近かった。こうして駅前で制服姿のアリスと並ぶと、ようやく“学校が始まる”という現実が形を持つ。


「俺も少し分かる」


「でしょ?」


 アリスがちょっと嬉しそうにする。その表情を見ていると、今朝まであった緊張が少しだけほぐれた。


「……学校、大丈夫そうか」


 俺が聞くと、アリスは一瞬だけ考える顔をした。


「大丈夫って言いたい」


「言いたい、か」


「うん。ちょっとだけ緊張する。でも、行きたくないわけじゃない」


 その答えに、俺は少し安心した。


 怖い思いをしたあと、人は“元の場所”に戻ること自体が難しくなる。学校もその一つだ。だから、アリスが“行きたくないわけじゃない”と言えたこと自体が、ちゃんと前に進んでる証拠だった。


「じゃあ、今日はそれで十分だ」


「十分?」


「緊張してても行けるなら、十分」


 アリスが小さく笑った。


「隆太郎、たまに先生みたいなこと言う」


「嫌か」


「ううん。そういうとこ、ちょっと好き」


 不意打ちでそんなことを言うから、俺は危うく変な顔をするところだった。朝の駅前で言うことじゃないだろ、と思うのに、言われた方は嬉しいから困る。


 始業式の日の通学路は独特だった。完全に休み気分でもない。宿題終わったか、と騒いでるやつもいれば、朝から眠そうに欠伸をしてるやつもいる。そういう空気が、むしろありがたかった。学校という場所が、ちゃんと“いつもの面倒くささ”を取り戻してる感じがした。


 アリスは俺の手を握りながら、小さな声で言った。


「……ねえ」


「ん?」


「もし、学校で佐野さんいたらどうする?」


 やっぱり気にしている。昨日のことが尾を引いているのは当然だ。


「校内には入ってこないだろ」


「でも、外なら?」


「その時はその時考える」


 俺がそう答えると、アリスは少しだけ唇を尖らせた。


「それ、安心しない答え方」


「安心する嘘よりマシだろ」


 アリスは一瞬だけむっとして、それから小さく息を吐いた。


「……まあ、そうだけど」


「でも、一つだけは決めてる」


「なに」


 俺はアリスの方を見た。


「お前を一人にしない」


 それだけ言うと、アリスの表情がやわらいだ。


「……うん」


 短い返事だった。けど、十分だった。


 学校に着く。校門までの道を他の生徒に混ざって歩く。見慣れた制服の集団、見慣れた校舎、見慣れた朝のだるさ。全部がひどく普通で、それがありがたい。


「おはよう、宮本、白金」


 クラスメイトに声をかけられて、「おはよう」と返す。たったそれだけで、ちゃんと学校の空気に戻れる気がした。


 教室に入ると、夏休み明けらしい騒がしさが広がっていた。旅行の話をしてるやつ、宿題を見せ合ってるやつ、始業式だるいと机に突っ伏してるやつ。高校生の教室は、こういう雑さがちょうどいい。


 アリスは自分の席に座って、ふっと息を吐いた。


「思ったより平気かも」


「よかったな」


「でも、お腹はちょっと痛い」


「それは緊張してるだけだろ」


「分かってる」


 アリスが苦笑いする。その顔を見て、俺も少し笑った。


 ホームルーム、始業式、校長の話。全部が長い。体育館は相変わらず暑いし、話は長いし、休み明けの頭にはちょっときつい。でも、この退屈さが戻ってきたこと自体は、悪いことじゃなかった。事件も探偵も関係ない、“学校の面倒くささ”に包まれる時間があるだけで、人は少し回復する。


 教室に戻って、担任の話が終わる頃には、もう午前いっぱい疲れた気分だった。まだ何もしていないのに、休み明けの学校というだけで妙に消耗する。


「はあ……終わった……」


 アリスが机に肘をついて呟く。


「まだ午前で解散なだけマシだろ」


「うん。でも、いるだけで疲れた」


「それは分かる」


 俺が言った、その時だった。


 教室の後ろ側、窓の向こう。校門の外のあたりに、見覚えのある女が立っていた。


 黒っぽい服。気だるげな立ち方。けれど、視線だけははっきりとこっちを見ている。


 佐野雪芽。


 俺の背中が一瞬で強張る。


「……どうしたの?」


 アリスが俺の視線を追う。そして、表情が止まった。


「……いる」


 声は小さかった。でも、ただ怯えてるだけじゃない。嫌なものを正面から見てしまった時の、硬い声だった。


 佐野は校門の外に立っている。学校に入ってきているわけじゃない。ただそこにいるだけ。なのに、存在感が強い。校内の空気とは明らかに違う種類の静けさをまとっている。


 クラスメイトの一人が窓際に寄ってきて、「誰あれ、めっちゃ美人じゃん」と軽く言った。そう見えるだろうな、とは思う。けれど、あの女を“美人”の一言で片付けられるほど、俺たちは無邪気じゃなかった。


 アリスが、机の下でそっと俺の袖を掴む。


「……来るかな。こっち」


「校内じゃ無理だろ。たぶん」


「たぶん、って言った」


「絶対って言えないからな」


 俺がそう言うと、アリスは少しだけ不満そうな顔をした。でも、すぐに諦めたように小さく息を吐く。


「……終わったら、一緒に帰る」


「そのつもり」


 佐野はしばらく校門の外に立っていたが、結局その場から動かなかった。スマホを見て、時々顔を上げて、また何かを考えるように視線を落とす。それだけだ。何もしない。何もしないからこそ、気持ち悪い。


 担任が解散を告げる頃には、姿は見えなくなっていた。


 それでも、俺とアリスはすぐには立ち上がれなかった。目に見える脅威が消えても、緊張は身体に残る。


「……帰るか」


 俺が言うと、アリスは小さく頷いた。


「うん」


 学校が始まった。


 ようやく日常が戻ってきたと思った矢先に、その日常の外側に、佐野雪芽が立っていた。


 俺たちの新学期は、思っていたより静かに、でも確実に揺さぶられ始めていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

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