好きは何度でも言う
佐野雪芽が帰ったあと、太刀川家のリビングには、妙に気まずい静けさが残った。
さっきまでそこにいた人間の気配だけが、空気に薄く貼りついているみたいだった。佐野は大声を出したわけでもないし、乱暴なことを言ったわけでもない。なのに、いるだけで場の輪郭を変える。会話の温度を勝手に下げて、こっちの呼吸のリズムまで奪っていく。
俺はソファに座り直して、テーブルの上に置きっぱなしだったアイスの袋を見た。溶けかけている。せっかく買ってきたのに、途中からそれどころじゃなくなっていた。
「……食べるか」
俺が言うと、アリスはまだ少し緊張の抜けない顔のまま、こくりと頷いた。
「食べる」
声が小さい。けど、さっきよりはましだった。
俺は冷凍庫に入れ直していた分を取り出して、苺味をアリスに渡した。アリスは包みを開けながら、まだ玄関の方を気にしているみたいに視線を一瞬だけ流した。
「もう帰ったぞ」
「……うん。分かってる」
「分かってる顔じゃない」
そう言うと、アリスは少しだけ唇を尖らせた。
「だって、また来そう」
「来るだろうな」
俺があっさり認めると、アリスがじろっとこっちを見る。
「そこは『来ない』って言ってよ」
「嘘ついても仕方ないだろ」
「……そうだけど」
アリスはアイスをひと口食べて、少しだけ肩の力を抜いた。冷たい甘さで、張っていた神経がほんの少し緩むのが分かる。
恵さんが台所から顔を出した。
「二人とも、晩ごはんまでにはお腹残してね」
「はーい」
アリスが返事をする。その声が、やっといつもの調子に近づいてきた。
俺はその横顔を見ながら、さっきの佐野の視線を思い出していた。アリスを見ていた。明らかに“違和感”を持っていた。しかも、それを隠す気があまりない。
探偵だから、で済ませるには嫌な見方だった。
「隆太郎」
「ん?」
「さっき……ありがとう」
アリスがアイスを持ったまま、少しだけこっちを見る。
「何が」
「私がいる前で、ちゃんと止めてくれたの」
佐野が踏み込みすぎた時のことだろう。俺は大したことをしたつもりはない。線を引いただけだ。でも、アリスにとってはその“だけ”が大きいのかもしれない。
「当たり前だろ」
「うん。でも、ちゃんと言いたかった」
アリスはそう言って、少しだけ笑った。柔らかい笑い方だった。さっきまでの強張りがようやく抜けてきている。
俺はその笑顔を見て、胸のあたりが少しだけ楽になるのを感じた。
「……怖かったか」
「怖かった」
アリスは間を置かずに答えた。
「田村先輩の時みたいな怖さじゃないけど……なんて言うんだろ。あの人、笑ってるわけでも怒ってるわけでもないのに、すごく見てくる」
「分かる」
「しかも、こっちが嫌がってるの分かってるのに、止まらない」
それは田村にも似ていた。ただ、田村は感情で押してきた。佐野は仕事を理由にする。そこが厄介だった。
「……でも、田村先輩とは違うんだよね」
アリスがぽつりと言う。
「違うな」
俺は頷いた。
「田村は、自分の気持ちが先だった。佐野さんは、気持ちより“答え”が先にある感じだ」
「答え……」
「犯人を見つけたい。そのために必要なら、人に踏み込む。そういうタイプ」
アリスは少しだけ考えてから、膝を抱え直した。
「じゃあ、私のことも調べるのかな」
その一言が、部屋の空気を少しだけ冷やした。
俺はすぐには答えられなかった。調べる可能性は高い。というか、もう調べ始めていてもおかしくない。アリスの日本語、距離感、この街への馴染み方。そういう違和感を持った以上、探偵が放っておくとは思えない。
でも、ここで下手に不安を煽る言い方はしたくなかった。
「……気にしてるのは確かだと思う」
結局、嘘のない言い方を選んだ。
「ただ、すぐ何かされるわけじゃない。まずは探る。だから、その前にこっちも準備する」
「準備?」
「言うことを揃える。余計なことは言わない。訊かれても、必要以上に答えない」
アリスは少し黙ってから、静かに頷いた。
「……うん」
その返事は真面目だった。こういう時、アリスはふざけない。きちんと自分の役割を理解して動こうとする。それが強さでもあり、無理をしすぎるところでもある。
だから俺は、あえて話をずらした。
「でもまあ、今はそれよりもっと大事な問題がある」
「え?」
「お前、さっきから俺のこと見すぎ」
アリスの目が丸くなる。
「見てない」
「見てる」
「見てないってば」
「じゃあなんで、俺がスマホ触るたび顔しかめるんだよ」
言った瞬間、アリスの顔がわかりやすく赤くなった。
「……だって」
「だって?」
「……佐野さんだったら嫌だし」
最後の方はほとんど消えそうな声だった。けれど、俺にはちゃんと聞こえた。
俺は思わず笑いそうになって、でも笑ったら拗ねるのが目に見えていたから、なんとか堪えた。
「そんな顔すんなよ」
「どんな顔」
「取られそうって思ってる顔」
アリスがすぐにむっとした。
「思ってない」
「思ってるだろ」
「……ちょっとだけ」
ちょっとだけ、で済む程度じゃないのは分かっている。でも、そこを無理に掘らない方がいい時もある。
俺はアイスの棒をゴミ箱に捨ててから、アリスの方へ身体を向けた。
「アリス」
「……なに」
「俺、お前から離れる気ないから」
アリスの瞳が少し揺れる。
「そういうの、さらっと言うのずるい」
「ずるくていい」
「よくない」
「じゃあ、どう言えばいい」
俺が聞くと、アリスは少しだけ考えて、視線を逸らしたまま言った。
「……もっとちゃんと」
「ちゃんと?」
「私のこと、好きって分かる言い方」
心臓が変な鳴り方をした。
こういうところだ。アリスは時々、こっちの防御を一番薄いところから抜いてくる。真面目な顔で、とんでもないことを言う。
「……今のじゃ足りないのか」
「足りるけど、もっと欲しい」
「欲張りだな」
「夏休み最後の日だから」
その言い訳はずるかった。俺は一度だけ息を吐いて、観念した。
「好きだよ」
言った瞬間、耳が熱くなるのが分かった。アリスの方を見るのが少し恥ずかしい。けど、逃げたら負けな気がして、ちゃんと見る。
アリスは、しばらくぽかんとしていた。次に、ふわっと頬を染めて、ものすごく小さな声で言った。
「……うれしい」
その一言で、俺の胸の奥がやたら温かくなった。言ってよかった。思った以上に、そう思った。
アリスが少しだけ身を寄せてくる。肩が触れる。軽くもたれかかる程度の重さ。けれど、その重みが心地いい。
「じゃあ、佐野さんに取られない?」
「取られない」
「ほんとに?」
「何回言わせるんだ」
「安心するまで」
さっきの俺の言い方をそのまま返されて、俺は苦笑いした。
「……じゃあ、何回でも言う」
「うん」
アリスが嬉しそうに笑う。その笑い方が、ようやく“夏休み最後の日”に似合うものになってきた。
※ ※ ※
その夜、俺は自宅に戻ってから、母さんに今日のことを話した。
佐野がまた来たこと。アリスの身元に踏み込もうとしたこと。俺が止めたこと。
母さんは最後まで黙って聞いて、それから静かに言った。
「佐野さん、もう気づいてるかもしれないわね」
「やっぱり?」
「確信はないと思う。でも、違和感は掴んでる。そういう人よ」
母さんが断言するのを聞くと、かえって落ち着く。曖昧に誤魔化すより、現実を認めた方が次の手が打てる。
「じゃあ、どうする」
「健一さんと話す。アリスちゃんの設定で、今どこが弱いか洗い出す。学校での振る舞いも含めて」
リスクマネジメントだ。感情で怖がるだけじゃなく、穴を塞ぐ。そこまでやる必要がある。
俺は頷いた。
「アリス、かなり不安になってる」
「でしょうね。でも今日は、少し回復してたんじゃない?」
母さんにそう言われて、俺はアリスが笑った時の顔を思い出した。肩にもたれてきた時の重さ。好きだと言った時の、あの素直な反応。
「……うん。少し」
「じゃあ、その少しを積み上げなさい。事件も大事。でも、生活を守ることも同じくらい大事よ」
母さんの言葉はいつも正しい。正しいから、背筋が伸びる。
俺はその夜、布団に入ってからもアリスとの会話を何度も思い返した。好きだ、と口にした時の熱。取られない、と言い切った時の責任。言葉は一度口にすると、自分を縛る。けど、その縛りが今は嫌じゃなかった。
守ると決めた相手に、好きだとちゃんと言う。
それは案外、強い。
そして同時に、俺は別のことも考えていた。
佐野雪芽は、もう引き返さない。
あの目は、違和感を見つけた人間の目だ。次はもっと静かに、もっと深く掘ってくる。
なら、こっちも先に備えるしかない。
アリスを守ること。
事件の真相に近づくこと。
その二つを、もう分けて考えることはできなくなっていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




