等価交換
佐野雪芽が玄関の向こうに消えてから、太刀川家のリビングには“湿った沈黙”が残った。
田村の時の沈黙は、恐怖と怒りが混ざっていた。息が浅くなって、身体が固まるような沈黙。
佐野の残した沈黙は、別の種類だ。表面は静かなのに、内側がざらつく。言葉で殴られたわけじゃないのに、皮膚の下を撫でられたみたいに気持ち悪い。
「変」
あの一言が、アリスの心の柔らかいところに刺さっていた。佐野は悪意がないふりをして、必要なものだけ抜いていく。疑いを口にするのも、確定を避けながら“観察”へ移行するのも、きっと仕事の癖だ。
でも、アリスにとっては仕事かどうかなんて関係ない。正体が揺らぐ恐怖は、命綱が擦り切れる感覚に近い。俺はそれを分かっているのに、うまい慰め方が見つからなかった。
恵さんが台所へ逃げたあと、俺とアリスはソファに並んで座った。アリスは膝を抱えて、視線を落とし、指先で自分の爪をなぞっている。考えごとの癖だ。
「……アリス」
「ん」
「さっきの“変”ってのは、佐野さんの癖だ」
俺が言うと、アリスは小さく首を振った。
「癖とかじゃない。あの人、見てる。測ってる。……田村先輩の“見てる”とも違う」
「……違う」
俺も頷く。田村は感情で見ていた。佐野は情報で見ている。その差は大きい。情報で見られると、人は“説明できる形”にされる。説明できる形にされたら、秘密はほどけやすい。
アリスが、ぽつりと言った。
「隆太郎、私……バレるのかな」
胸が締まった。アリスの正体が露見することは、彼女の生活の前提が崩れることだ。留学生設定で成り立っている学校生活も、宮本家での生活も、全部がひっくり返る。
でも、俺はここで「バレない」と断言できない。佐野は探偵だ。バレる可能性はある。可能性を無視した励ましは、アリスの恐怖を軽く扱うことになる。
だから、俺は言い方を変えた。
「……バレないようにする。俺たちが守る」
アリスが少しだけ目を上げる。青い瞳が揺れる。
「どうやって」
「線を作る。佐野さんに、これ以上踏み込ませない線」
アリスは息を吐いた。
「……また、線」
「線は大事だ。田村の時も、線で止めた」
アリスは頷いた。田村の件は、最終的に誓約という形で止まった。線は役に立つ。それをアリス自身が知っている。
でも、佐野は違う。敵じゃない。敵じゃないから、線が引きにくい。依頼者は健一さん。つまり、佐野を完全に排除すれば、朝日の事件追跡に影響が出る。
俺はそのジレンマを、胸の中で噛み砕いた。
※ ※ ※
その日の帰り道、俺は健一さんに連絡した。
『佐野さんがアリスに強い違和感を持ってます。身元に踏み込む可能性があります。こちらの線引きが必要です』
送信してすぐに既読がついた。健一さんの返信は短い。
『分かっている。こちらで扱う。余計なことは言うな。』
余計なことは言うな。つまり、朝日=アリスの件を佐野に漏らすな、という意味だ。それは当然だし、健一さんの意志が固いのはありがたい。けれど、「こちらで扱う」という言葉の中に不確実さがある。健一さんがいくら黙っても、佐野が勝手に掘る可能性は消えない。
だから俺は、アリス側の“感情の守り”も同時にやらなきゃいけない。
次の日、俺は太刀川家へ行く前にコンビニでアイスを買った。バニラと、チョコと、苺。アリスがどれを選ぶか分からないから、全部。小学生みたいな買い方だ。でも、こういう“くだらない選択肢”があると、心は少し休める。
太刀川家に着いて、リビングに入ると、アリスが机に突っ伏していた。
「おい、どうした」
俺が言うと、アリスは顔を上げずに言った。
「……隆太郎、遅い」
「まだ時間通りだろ」
「遅い」
拗ねている。分かりやすく拗ねている。昨日の続きだ。佐野のことで不安が残っていて、俺が視界から消えることに敏感になっている。
俺は袋を持ち上げた。
「アイス買ってきた」
アリスがぴくっと反応して、顔を上げる。
「……何味」
「全部」
「ばか」
そう言いながら、アリスの口元が少しだけ緩んだ。効いている。母さんの言っていた“安心を身体に戻す”ってやつだ。
俺はソファに座り、アリスの隣に座った。袋からアイスを出し、アリスの前に並べる。
「選べ」
「……苺」
アリスが苺を取り、包みを開ける。ひと口食べて、目を閉じた。
「おいしい」
「だろ」
たったそれだけの会話で、部屋の空気が少し軽くなる。俺はその隙に、安心という“処方箋”を投入することにした。今のアリスには、理屈より安心が必要だ。
「アリス」
「ん」
「昨日の話の続き」
「……やだ」
「やだって言い方がかわいい」
「今、褒めてない」
アリスがむっとした顔をする。俺は笑いそうになりながら言った。
「佐野さんがどう思おうと、俺はお前の彼氏だ」
昨日と似た言葉。でも、今日は強度を上げる。アリスの不安が長引くなら、言葉も繰り返すしかない。
アリスの頬が赤くなる。
「……また言う」
「何回でも言うよ」
「……何回?」
「お前が安心するまで」
アリスがアイスを持ったまま固まった。次の瞬間、視線を逸らして小さく呟く。
「……ずるい」
「ずるいのは佐野さんだろ」
「そうじゃない。隆太郎が、ずるい」
アリスが拗ねたまま笑った。その笑い方が、久しぶりに柔らかくて、俺の胸が温かくなる。
けど、そこで終わらせない。アリスの不安は“取られる”だけじゃない。“バレる”もある。両方を抱えている。だから、俺はもう一歩踏み込んで言った。
「バレるのが怖いなら、俺は先に守る」
アリスが目を瞬かせる。
「……守るって、どうやって」
「佐野さんが踏み込んできたら、俺が止める。健一さんも止める。母さんも止める。……家族で止める」
アリスの目が潤む。
「家族……」
「お前は一人じゃない」
言った瞬間、アリスの表情が崩れそうになった。涙が出る前の顔。俺は慌てて言い足す。
「泣くな。溶けるぞ、アイス」
「……ひどい」
アリスが笑いながら、目元を袖で拭いた。笑って泣きそうになる顔。俺はそれが一番好きで、一番怖い。守りたいと思うほど、失う恐怖も同時に浮かぶ。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
ピンポーン。
アリスの身体が一瞬だけ固まる。田村の件の名残だ。俺も反射で背筋が伸びた。
恵さんの声が廊下から聞こえる。
「はいはーい……あら」
そして、次に聞こえたのは、淡い声だった。
「……こんにちは。佐野。少しだけ」
アリスの顔色が変わる。俺の胸の奥が冷たくなる。
早い。来るのが早すぎる。
アリスが小さく俺の袖を掴む。
「……隆太郎」
「大丈夫」
俺は短く言って立ち上がった。ここで逃げたら、佐野の“観察”が加速する。逃げない。でも、入れない。線を引く。
廊下の先から佐野雪芽が現れた。今日はさらに気だるげで、目元が少し眠そうだ。なのに、手にはファイルがある。仕事モードの証拠だ。
佐野は俺を見て言った。
「宮本くん。追加質問」
「健一さん経由でって言いました」
「健一さん、今いない。……でも、私は今日中に確認したい」
言い方が当たり前すぎる。目的が正しいと、手段も正しいと思い込むタイプだ。
俺は低く言った。
「今日は無理です」
佐野が目を細める。
「理由は」
「俺たちは、今、休んでる」
あえて曖昧に言った。アリスのことは言わない。言えば佐野の興味が増す。俺の言葉が佐野に燃料を与える。
佐野は一拍置いて、気だるげに肩を落とした。
「……面倒。じゃあ、交換条件」
「は?」
「私が持ってる事件の情報を一つ渡す。その代わり、質問一つ」
その言い方が、妙に“取引”だった。俺の胸がざらつく。情報は欲しい。でも、佐野の土俵に乗りたくない。
俺が迷っていると、アリスが小さく言った。
「……隆太郎、やだ」
アリスの声は震えていない。はっきり嫌だと言った。成長だ。俺はそれを受け取って、即答した。
「取引しない。必要なら健一さんに言ってください」
佐野は少しだけ驚いたように瞬きをした。次に、小さく笑った。
「……恋人、強いね」
恋人。わざとそう言った。アリスの頬が赤くなるのが見えた。怒りの赤じゃない。照れの赤だ。佐野はそれを見て、ほんの一瞬だけ目の奥を動かした。何かを確かめるように。
佐野はファイルを閉じた。
「分かった。今日は引く。……でも、白金さん」
佐野がアリスを見る。
「あなたの身元、薄い。ちゃんと整えておいた方がいいよ。いつか困る」
忠告の形をした刺。アリスの肩が僅かに硬くなる。
俺が言い返す前に、恵さんが柔らかく、でもはっきり言った。
「佐野さん。今日は帰って。アリスは疲れてるの」
佐野は一拍置いて、気だるげに頷いた。
「……分かった。恵さんには逆らえないね」
そう言って、佐野は玄関へ向かった。去り際、振り返らずに一言だけ落とす。
「……宮本くん。君、いい盾だね」
盾。
その言葉が、胸に刺さった。褒め言葉じゃない。役割としての評価だ。俺は佐野の中でも“情報処理の対象”になっている。
ドアが閉まり、家の中に静けさが戻った。
アリスがその場で息を吐いた。
「……隆太郎、ありがとう」
「礼を言うな。俺は盾じゃない」
「……盾じゃないよ」
アリスが小さく言った。
「隆太郎は、隆太郎」
同じ言葉を返されて、俺は胸の奥が温かくなるのを感じた。
でも同時に、冷たい確信も生まれた。
佐野雪芽は、引かない。
疑ったものは調べる。
そして、アリスの“身元”を掘るために、俺に接触し続ける。
だから、次からは――俺が“揺さぶられない”設計を作る。
アリスを不安にさせないために。
俺たちの関係を、余所者の視線から守るために。
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