あなた、変だね?
佐野雪芽からの通知は、引き出しの中で眠ったままだった。
見なかった。見ないと決めた。俺たちの時間を守るために――そう言い切った手前、俺が先に崩れたら意味がない。田村の件で、境界線は“言った瞬間”じゃなく、“守り続けた時”に効くのだと学んだ。
けど、境界線を守るのは俺だけじゃない。
相手が、その線をどう扱うかで意味が変わる。
佐野は探偵だ。依頼者は健一さん。つまり、佐野にとっての“目的”は朝日の事件の解明で、その過程で俺の記憶や行動が必要なら、遠慮なく踏み込む。そういう合理性を持っている。合理性は、感情より強い。だから怖い。
翌朝、俺が自分の家で朝食を食べていると、母さんが淡々とスマホを見ながら言った。
「健一さんから。佐野さん、また来るって」
「……また?」
俺の声が少し尖った。母さんはその反応を責めず、落ち着いて続けた。
「駅前の監視カメラと、広場の防犯カメラの調査を進めるって。あなたにも聞き取りが必要かもって書いてある」
「俺は健一さん経由で、って言ったんだけど」
「佐野さん、そういうのあんまり気にしないタイプかもね」
母さんが苦笑いした。笑っているのに、目は真剣だ。母さんも佐野の“距離の詰め方”を危険として認識している。
「ただ、向こうも仕事。全部拒否すると、健一さんの調査が遅れる可能性がある。そこはバランス」
「……分かってる」
分かっている。でも、分かっているだけで納得はできない。朝日の事件は追いたい。真犯人は捕まっていない。あの突き落としの“理由”が分からないまま終わるのは嫌だ。
でも、その追跡の過程でアリスの存在が揺らぐのも嫌だ。
嫌なものが二つ並んで、どっちを選んでも胸が痛い。そういう状況が一番厄介だ。
※ ※ ※
昼過ぎ、俺は太刀川家へ向かった。
アリスと勉強をする予定だったし、何よりアリスの顔を見たかった。佐野の名前を考えるだけで胸がざらつく今、アリスの存在は俺にとっての“現実の錨”だ。
玄関を開けると、恵さんがいつも通り迎えてくれた。
「いらっしゃい、隆太郎くん。朝日、今リビングで――」
言い終える前に、廊下の奥からアリスが出てきた。今日のアリスは薄いTシャツに短パン。部屋着のまま。髪も適当にまとめていて、気を抜いた“家のアリス”だ。
「隆太郎」
その呼び方が、安心になる。
「来たよ」
俺が答えると、アリスはほっとしたように笑った。けれど、その笑顔の後ろに、ほんの少しだけ不安の影が見えた。
「……今日、佐野さん来る?」
いきなり核心。俺は一瞬で分かった。アリスは俺のスマホの通知を見ていないふりをして、見ている。見るつもりがなくても、佐野という名前だけで心が反応してしまう。
「分からない。来るかもってだけ」
「……そっか」
アリスは小さく頷いた。頷いたけれど、指先が自分のTシャツの裾をぎゅっと握っている。緊張している。
俺は、アリスの頭を撫でたい衝動を抑えて、代わりに言葉で支えた。
「来ても、俺はお前の隣にいる」
アリスの目が少し大きくなる。頬が僅かに赤くなる。
「……またそれ言う」
「効くだろ」
「効く……」
その小さな返事が可愛くて、俺は口元が緩みそうになる。
※ ※ ※
午後三時。
予感は当たった。
インターホンが鳴って、恵さんがモニターを確認し、少しだけ表情を引き締めてから玄関を開けた。
「……佐野さん。いらっしゃい」
佐野雪芽が玄関に立っていた。昨日と同じように、気だるげな目。疲れているように見えるのに、姿勢は崩れていない。今日は薄い色のシャツに細身のパンツ。動きやすい格好だ。仕事帰りではなく、仕事の途中だと分かる。
「こんにちは」
淡い声。挨拶なのに温度がない。
佐野は靴を揃える動作すら無駄がなく、廊下を進む。リビングに入ると、まず健一さんを探すように視線を動かし、いないと分かると俺に向き直った。
「宮本くん」
「……用件は?」
俺が先に出ると、佐野は小さく瞬きをした。驚いたわけじゃない。こちらの抵抗を“処理”した目だ。
「短く言う。駅前広場。あなたと朝日が別れた位置。もう少し正確に」
「覚えてないって言ったはずです」
「“覚えてない”の中にも精度はある。右側か左側か。コンビニの前か、バス停の前か。ベンチ付近か。……その程度」
その程度、という言い方が癪に障った。俺の記憶は、その日の痛みと一緒に沈んでいる。ただの座標じゃない。朝日が最後に笑った場所。最後に手を振った場所。俺が「じゃあな」と言った場所。
それを「その程度」と言われると、胸がざらつく。
俺が黙っていると、佐野の視線がアリスに移った。移った瞬間、空気の温度がさらに下がるのを感じる。
「白金さん」
呼び方だけは丁寧。でも、声の奥に“確認”がある。
「はい」
アリスは作った笑顔で返す。背筋が少し伸びている。戦っている姿勢だ。俺はその横顔を見て、胸が痛い。
「あなた、太刀川家にいつからいる?」
まただ。
仕事の質問を装いながら、アリスの存在を掘る。
恵さんが一歩前に出た。
「佐野さん、その話は――」
だが佐野は、気だるげに言う。
「恵さん、止めないで。依頼の対象に影響があるかもしれない。私は、ノイズを排除したい」
ノイズ。
アリスをノイズと呼んだ。
俺の中で何かが切れかけた。田村の時とは違う種類の怒り。侮辱に近い怒り。俺は一歩前に出て、低い声で言った。
「佐野さん。アリスはノイズじゃない」
佐野は俺を見た。目が少しだけ細くなる。怒っている俺をデータとして読む目だ。
「……感情的だね」
「当たり前だ」
俺は言い切った。声を荒げない。けれど、線は引く。
「事件のために必要なら、俺の記憶の範囲で答えます。でも、アリスの身元を掘るなら、健一さんの了承を取ってください。俺は協力しません」
佐野は一拍置いてから、小さく息を吐いた。
「分かった。じゃあ、健一さんに聞く」
あっさり引いたように見せた。だが、引いたというより“手順変更”だ。止まらない。止まらないことが怖い。
佐野はすぐに話を戻した。
「駅前広場。別れた位置。……あなたの体感でいい。駅のどの出口?」
俺は胸の奥のざらつきを押し込み、記憶を掘り起こした。痛みと一緒に絡まる記憶を、必要な分だけ抜く。
「……東口。改札出てすぐの広場。コンビニの看板が見える位置だった」
「ベンチは視界に?」
「……あった。少し離れたところに」
「朝日は改札へ。あなたは逆方向へ歩く。その時、あなたの視界に朝日の背中は何秒残った?」
質問が鋭い。秒。数字。感情を削って、情報だけにする。
「……十秒くらい。改札に吸い込まれるまで」
佐野は頷き、スマホに短くメモを打った。
「了解。これで十分」
十分。言い切って、佐野は立ち上がった。用が済んだら去る。余韻もない。ところが、去り際にもう一度アリスを見た。
目が、さっきより長く止まる。
測っている。
肩の高さ。首の長さ。目の色。髪の質感。――そんなものを数字に変換する目。
「……白金さん」
佐野が淡く言った。
「はい」
「あなた、変」
あまりに直球で、空気が一瞬凍った。
アリスの目が見開かれる。恵さんも固まる。俺は反射で言い返しそうになって、止めた。ここで噛みつけば、佐野の“検証”が加速する。相手は探偵だ。反応は燃料になる。
佐野は続ける。
「変っていうのは、悪い意味じゃない。……情報が整いすぎてる。留学生にしては、この街に馴染みすぎ。言葉も、距離感も」
淡々と指摘される。悪意がないふりをしているから、余計に刺さる。アリスは喉が鳴って、言葉が出ない。
俺は低い声で言った。
「佐野さん。そこまで言うなら、依頼者に報告してください。俺たちに言う必要はない」
佐野は一瞬だけ目を細め、そして、気だるげに肩を落とした。
「……そうする。じゃ」
それだけ言って、佐野は玄関へ向かった。歩き方は遅いのに迷いがない。廊下の先で靴を履き、ドアを開ける直前、振り返らずに呟いた。
「……真面目に仕事すると、嫌われるね」
嫌われることを気にしているのか、気にしていないのか分からない声だった。
ドアが閉まった。
家の中に残った空気が重い。
アリスが、ようやく息を吐いた。
「……隆太郎」
「ん」
「私、あの人、やっぱり苦手」
「俺もだ」
即答すると、アリスが少しだけ笑った。笑ったけれど、すぐに唇を噛む。
「……『変』って言われた。私、変なの?」
不安が見えた。留学生設定の綻びを突かれる恐怖。正体がバレる恐怖。田村とは別の、根本の恐怖。
俺は迷わず言った。
「変じゃない。……お前は、お前」
アリスの目が少し潤む。
「……佐野さん、隆太郎にいっぱい会うのかな」
「会わないようにする」
「でも、事件のこと――」
「事件のことは追う。でも、線は引く」
俺が言うと、アリスは小さく頷いて、俺の袖を掴んだ。
「……隆太郎、取られない?」
「取られねぇよ」
俺は即答した。
「俺は誰かに取られるもんじゃない。俺の意思で、お前の隣にいる」
言い切ると、アリスの頬が少し赤くなる。恵さんが遠慮がちに笑った。
「……ふふ。若いっていいわね」
「お母さん!」
アリスが恵さんを睨む。恵さんは笑いながら台所へ逃げた。
俺はアリスの頭を、今度は我慢せずに軽く撫でた。アリスが一瞬だけ驚いて、それから、小さく身を預けてくる。
その温度が、俺を現実に戻す。
けれど、胸の奥には別の現実が残っていた。
佐野雪芽は、アリスを“変”だと感じた。
そして、探偵は“変”を見逃さない。
きっと彼女は、アリスの身元を調べ始める。
そのために、俺にまた接触してくる。
俺はアリスの髪を撫でながら、心の中で静かに決めた。
佐野の矛先がアリスに向くなら、俺が受け止める。
でも、守り方を間違えない。
田村の時みたいに、枠を作る。
そして――アリスの不安は、恋人としてちゃんと抱える。
次は、俺が揺れない番だ。
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