俺の役目
佐野雪芽が駅前の雑踏に消えたあとも、俺の手の中に残ったアリスの指先の冷たさは、しばらく消えなかった。
嫌な予感、という言葉は便利だ。確かな根拠がなくても、胸の奥のざらつきをまとめて説明できる。けれど今回は、その“予感”が輪郭を持ちすぎていた。探偵。朝日の事件を追うために現れた女。しかも、俺の連絡先を突き止めて、当たり前みたいに呼び出してくる女。
田村の件で学んだことがある。
境界線は、最初に引き直さないといけない。
相手が悪意を持っていなくても、こちらの生活に踏み込む人間はいる。特に“仕事”を理由にする相手は、正当化が上手い。佐野は、まさにそのタイプに見えた。
駅からの帰り道、アリスはほとんど喋らなかった。歩く速度はいつも通り。でも、視線が時々落ちる。嫌なものを思い出す時の目だ。
「……アリス」
「ん」
「さっきのこと、気にしてる?」
俺が聞くと、アリスは一拍置いてから、少し拗ねた顔をした。
「気にしてない」
「気にしてる顔だろ」
「してない。……ただ、あの人、隆太郎のこと“必要”って顔してた」
言い方が妙に可愛かった。可愛いのに、胸が痛む。アリスの不安は、田村の件で一度深く染みついている。誰かが"俺"に接触するだけで、“取られるかもしれない”という恐怖が浮かぶ。
「必要っていうか、情報が欲しいだけだろ」
「それが嫌なの」
「……嫌、か」
俺が繰り返すと、アリスは小さく頷いた。
「隆太郎が“情報”になってるの、嫌」
その表現が鋭くて、俺は一瞬息を止めた。確かに佐野の目は、人を情報にする目だった。俺の感情も、アリスの表情も、全部データとして扱っているように見える。
「俺は情報じゃない」
俺が言うと、アリスは少しだけ笑った。
「うん。隆太郎は隆太郎」
それでいい。そう思ったのに、次の瞬間、俺のスマホが震えた。
画面に表示された名前。
『佐野雪芽』
早すぎる。こちらが駅前から離れて、まだ十分も経っていない。
胸の奥が冷たくなる。
アリスも通知に気づいて、視線が刺さる。
「……来たの?」
「ああ」
「……ねえ、隆太郎。私、負けたくない」
負ける負けないの話じゃないはずなのに、アリスにとっては“取られる恐怖”との戦いになっている。俺はスマホを伏せて、歩きながら言った。
「負けない。俺は俺の意思で動く」
そう言って、いったん立ち止まった。道路脇の影。車通りの少ない場所。周囲の耳が少ない場所を選ぶ。俺はここで、境界線を引くと決めた。
スマホを開いてメッセージを見る。
『追加確認。駅前広場のベンチ配置、覚えてる? 待ち合わせスポット。』
事務的。淡々。人の心を削る速度で効率だけを求める文章。
俺は深く息を吸い、短く返信した。
『覚えていません。必要事項は健一さん経由でお願いします。』
送信。
すぐに既読がついた。
そして、返事。
『分かった。けど君の記憶は重要。必要なら直接聞く。』
必要なら直接聞く。拒否を拒否として扱わない文面。俺は喉の奥がひやりとした。田村とは違う。でも、境界線を跨ぐ構造が似ている。
俺はもう一度だけ返信した。
『直接の連絡はやめてください。』
それ以上は送らない。送ったら会話が成立し、相手のペースに巻き込まれる。
スマホを伏せると、アリスがじっと俺を見ていた。
「……隆太郎、今、かっこよかった」
「どこが」
「ちゃんと線引いた」
その言葉に、胸が少しだけ軽くなる。アリスが“線引き”を肯定する。それは、田村の件で得た成長でもある。
「でも、まだ来ると思う」
アリスが小さく言った。
「来ても、同じ。線は動かさない」
俺が言うと、アリスは安心したように頷いた。けれど、その頷きの奥には、まだ不安が残っていた。
※ ※ ※
その夜、太刀川家。
恵さんが夕飯の準備をしていて、カウンター越しに「今日どうだった?」と聞いてきた。アリスが先に答える。
「佐野さんに会った。隆太郎、質問されてた」
「そう……夫も言ってたわ。佐野さん、仕事の時はすごく真面目だからね」
「真面目っていうか……怖い」
アリスがぽつりと本音を漏らす。恵さんが苦笑いする。
「分かる。ちょっと圧あるものね」
俺はその会話を聞きながら、健一さんが依頼者であることの意味を改めて噛みしめた。健一さんは朝日の事件を本気で追っている。そのために、佐野という“刃物”を雇った。刃物は役に立つ。でも、扱いを間違えると味方も切る。
夕飯の後、俺とアリスはリビングで勉強をした。と言っても、俺の数学の問題集にアリスが少し教えてくれる、いつものスタイルだ。
けれど今日は、アリスの集中が途切れがちだった。ペン先が止まる。視線が宙を漂う。俺は気づかないふりをしながら、時々だけ声をかけた。
「……大丈夫か」
「大丈夫」
大丈夫じゃない返事。だから、俺は別の方法で支える。
「じゃあ、終わったらアイスな」
「……子ども扱い」
「効くだろ」
「効く……」
小さく呟いて、アリスが少し笑う。その笑いが戻るだけで、俺は救われる。
勉強が一区切りついたところで、アリスが突然、俺の袖を掴んだ。
「隆太郎」
「ん」
「佐野さんさ……隆太郎のこと、好きになったらどうするの」
心臓が跳ねた。
質問が直球すぎる。嫉妬が可愛くて笑いそうになるのに、同時に切ない。アリスの心はまだ“取られる恐怖”の癖を抱えている。
「ならないだろ」
「分かんない。ああいう人、静かに距離詰めるタイプだよ」
妙に当たってそうで嫌だった。佐野は確かに、感情を見せずに侵入するタイプに見える。仕事を理由に距離を詰める。正当性がある分、断りづらい。
俺はアリスの目を見て、はっきり言った。
「仮に好かれても、俺はお前の彼氏だ」
言葉にした瞬間、アリスの目が少し大きくなる。頬がわずかに赤くなる。
「……もう一回言って」
「は?」
「もう一回」
なんだそれ、と思ったけど、可愛すぎて断れなかった。俺は少しだけ声を落として言い直す。
「俺は、お前の彼氏」
アリスが満足そうに頷く。頷きながら、ふっと力が抜けたみたいに笑った。
「……よし。じゃあ負けない」
「だから勝ち負けじゃねえって」
「私の中では勝ち負けなの」
アリスはそう言って、俺の腕に軽く寄りかかった。距離が近い。体温が伝わる。胸の奥が温かくなって、俺は一瞬だけ思考が止まった。
その時。
俺のスマホが、また震えた。
画面には、また佐野雪芽の名前。
アリスの身体が僅かに固まる。俺も一瞬で現実に引き戻された。俺は通知を見ずに、まずスマホを伏せた。
「見ないの?」
アリスが小さく聞く。
「今は見ない。……俺たちの時間だ」
そう言うと、アリスが少しだけ息を吐いた。嬉しそうに、でもどこか不安そうに。
「……うん」
俺はスマホをマナーモードにして、机の引き出しに入れた。物理的に距離を取る。それだけで、心の中のノイズが一段減る。
佐野の追跡は“事件”のためだ。そう頭では分かっている。
でも、俺とアリスの生活に入り込むなら、そこは線を引く。
田村で学んだことを、次に活かす。
アリスが俺の腕に寄りかかったまま、ぽつりと言った。
「隆太郎、私ね……怖いのって、田村だけじゃなかった」
「……うん」
「人が、私たちの中に入ってくるのが怖い」
その言葉が、胸に刺さる。入ってくる。田村の侵入、佐野の観察。種類は違うのに、境界が踏まれる不快感は同じだ。
「入れない」
俺は短く言った。
「俺が止める。俺たちの中は、俺たちが決める」
アリスは小さく頷いて、目を閉じた。
佐野雪芽は、たぶんこれからも“必要”を理由に接触してくる。
そのたび、アリスは揺れる。
揺れるけれど――俺が揺らさない。線を動かさない。
それが、俺の役割だ。
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