それは恋ではなかった
ある日の太刀川家からの帰り道、夜の窓に映る自分の顔が、思っていたより硬かった。
街灯の白い光が、車内を一瞬ずつ照らしては過ぎていく。そのたび、アリスの横顔が浮かび上がり、また闇に溶ける。昼間の明るさの中では隠せていた不安が、夜になると輪郭を持つ。俺はそれが嫌だった。怖いからじゃない。怖さに引っ張られて、アリスの夏休みまで暗くしてしまいそうだからだ。
助手席ではなく後部座席。今日は健一さんの車で送ってもらっている。運転席の健一さんはいつも通り寡黙で、必要なこと以外は言わない。その沈黙が、今は頼もしい。言葉を使わずに「守る」と決めた人間の背中は、静かに強い。
恵さんが時々、後ろを振り返ってアリスの顔色を確かめてくる。アリスは「大丈夫」と笑うけど、その笑いは少しだけ薄い。無理をしている、というほどではない。でも、心のどこかに針が刺さったままの顔。
車が宮本家の前に停まると、恵さんが「着いたよ」と優しく言った。アリスは小さく頷いて、ドアを開ける。
「お父さん、お母さん、ありがとう」
「当たり前だ」
健一さんが短く返した。
「朝日、今日もよく来てくれた。ありがとう」
恵さんがそう言って、アリスの肩を軽く抱いた。アリスの目が少し潤んで、それでも笑って頷く。
「……うん」
俺は頭を下げた。
「ありがとうございました。俺も、気をつけます」
健一さんがミラー越しに俺を見た。
「頼む」
その一言の重さが、胸に沈む。俺は「はい」とだけ返した。言葉を重ねたら、責任の形が崩れそうだった。
※ ※ ※
家に入ると、リビングの灯りが温かくて、肩の力が少しだけ抜けた。
「おかえり」
母さんが、キッチンから顔を出す。もう夜なのに、俺たちが帰ってくる時間に合わせて麦茶を冷やしておいてくれたらしい。氷の音が、妙に安心する。
「ただいま」
「ただいま、百合子さん」
アリスの声がいつもより小さいのを、母さんは見逃さなかった。けれど、余計なことは聞かず、「お疲れさま」とだけ言ってグラスを差し出した。
俺たちはソファに座って麦茶を飲んだ。冷たい液体が喉を通ると、胸の奥の熱が少し引く。それでも、頭の中ではさっきの話が何度も反芻される。封筒。便箋。田村の勝手な正義。
母さんが静かに言った。
「健一さん、動くって言ってた?」
「ああ。学校に相談するって」
「段取りは大事ね。急がず、でも止めない。……隆太郎、アリスちゃん、今日はもう休みなさい」
母さんの言い方には、優しさと同じくらい“指示”があった。守るために、今日はここで区切る。そういう判断だ。
「うん……」
アリスが頷いて、立ち上がる。少しだけ足取りが重い。俺も立ち上がり、アリスの背中を追う。
二階の廊下に上がると、家の静けさが増した。蝉の声も窓越しに遠くなる。夜の家は、昼よりも心の音が聞こえやすい。
アリスは自室の前で立ち止まり、俺の方を向いた。
「隆太郎」
「ん?」
「……怖い、って言ったのに、みんな優しかった」
それは、喜びの言葉なのに、どこか切なかった。怖いと口にした時点で、アリスの中の“当たり前”が一つ崩れた証拠でもある。
「怖いって言っていいんだ」
俺が言うと、アリスは少しだけ笑った。
「うん。……でも、怖いの、早く終わってほしい」
「終わらせる」
俺は即答した。根拠はまだ薄い。でも、言い切るしかなかった。言い切ることで、自分の行動に責任が生まれる。
アリスは頷いて、ドアノブに手をかける前に、もう一度だけ小さく言った。
「明日、図書館……どうする?」
迷い。恐怖と、日常を守りたい気持ちの揺れ。
「行く」
俺は言った。
「でも、無理はしない。変だと思ったら、すぐ帰る」
「……うん」
アリスはその返事を聞いて少し安心したように頷き、部屋に入った。
俺も自室に戻ったが、すぐには眠れなかった。ベッドに横になっても、目が冴える。スマホを握り、画面をつけては消す。田村から俺に直接来ていないか確認してしまう。
来ていない。
来ていないのに落ち着かない。
「静かすぎる」のが、いちばん不気味だった。
※ ※ ※
翌朝。
空は青く、昨日の夜の重さが嘘みたいに明るい。夏は残酷なくらい、何事もなかったように朝を連れてくる。
朝食の席で、母さんが当たり前みたいに言った。
「二人とも、今日は図書館?」
「うん」
アリスが答え、俺も頷く。
母さんは一瞬だけ考える表情をして、それから言った。
「人が多い時間に行きなさい。なるべく一人にならないように。席も入口が見えるところがいいわ」
指示が具体的だ。母さんの“危機管理モード”が本格的になっているのが分かる。それが怖いというより、ありがたい。
「分かった」
「百合子さん、ありがとう」
アリスが言って、母さんが優しく笑った。
「何かあったら、すぐ連絡してね。遠慮はしないこと」
その言葉が、アリスの胸にどう響いたか。俺には完全には分からない。だけど、アリスは小さく頷いた。
※ ※ ※
図書館へ向かう道は、昨日よりも人が多かった。夏休みの学生、買い物に出る人、子どもを連れた家族。人の多さは、安心材料でもある。見られている気がしても、その視線の主を特定しづらいのは厄介だが、同時に何かが起きにくい。
入口をくぐると、冷たい空気が肌に触れた。俺は背筋を伸ばし、アリスの位置を確認する。すぐ隣。指先が袖に触れる距離。離さない。
母さんの言った通り、入口が見える席に座った。周囲には受験生が多く、参考書とノートが机いっぱいに広がっている。鉛筆の音が規則正しく響く静けさ。ここは、戦場の静けさだ。
最初の一時間は、何事もなかった。
数学の問題に集中できた。アリスが小声で説明してくれ、俺は納得して解き進める。こういう時間が戻ってくるだけで、心が少し落ち着く。俺の中の棘が、ほんの少し丸くなる。
休憩で席を立ち、館内の自販機で水を買った。戻る途中、アリスが本棚の前に立っているのが見えた。英語の参考書コーナー。何冊か手に取って、背表紙を見比べている。
「選ぶのか?」
「うん。新しいの欲しい。今の、ちょっと難しい」
アリスはそう言って笑った。自然な笑顔。俺はそれに救われる。昨日までの話が、“今ここ”を全部奪うわけじゃないんだと、身体が理解し始める。
その時、アリスがふと動きを止めた。
目線が、棚の隙間の向こうに吸い寄せられる。青い瞳がわずかに揺れた。
「……どうした」
俺が低く聞くと、アリスは小さく首を振った。
「……なんでもない。気のせい」
気のせい、という言葉が出た瞬間、俺の心拍が上がった。昨日までの俺が何度も口にしそうになった言葉。アリスがそれを言う時は、だいたい“気のせいにしたい何か”がある。
俺は棚の向こうを見た。人はいる。けれど、見慣れた顔は見当たらない。
「……戻ろう」
俺が言うと、アリスは頷いた。二人で席に戻り、また勉強を続ける。けれど、さっきからアリスのペンの動きが少しだけ遅い。集中が切れている。呼吸も浅い。
俺は小声で聞いた。
「さっき、誰かいた?」
アリスは一瞬迷って、それから、ほんの小さく頷いた。
「……見られてる気がした」
「どこで」
「本棚の向こう。……でも、顔、見えなかった」
俺は息を吸った。ここで焦って立ち上がれば、周囲の視線が集まり、田村がいたとしても姿を消すだけだ。だから、やり方を変える。
「今から、トイレ行くふりして、入口の方を見る。お前はそのまま座ってろ」
「一人は嫌」
アリスが即答した。握りしめる指が少し強い。
「じゃあ、一緒に行く。けど、手、離すな」
「うん」
俺たちはゆっくり立ち上がった。慌てない。視線を泳がせすぎない。普通の休憩に見える速度で通路を歩く。入口近くの掲示板の前で立ち止まり、俺は自然に周囲を見回した。
――いた。
本棚の端、雑誌コーナーの影。立ち読みしているふりをして、こちらを見ている男。私服。三年くらいの体格。顔の輪郭が、見覚えのある角度。
田村だ。
目が合った瞬間、田村はぱっと視線を逸らし、雑誌に落とした。逃げない。逃げないで“偶然”を装う。昨日までと違う。明確に“近くにいること”を選んでいる。
俺は胸の奥が冷たくなるのを感じた。呼吸を乱さないように気をつけながら、アリスに小声で言う。
「……いた。雑誌コーナー」
アリスの指先が、俺の手を強く握った。痛くはない。でも、震えが伝わってくる。
「……来てる」
「ああ」
俺はその場で動かない。田村を刺激しない。でも、こちらの“認識している”という事実は伝わる。視線で圧を返す。怒りではなく、拒絶の圧。
田村は雑誌をめくるふりをしながら、こちらをちらりと盗み見た。目が合いそうになると逸らす。その繰り返し。まるで、こちらの出方を測っている。
俺は結論を出した。
これは偶然じゃない。
「話しかけない」だけで、「見ない」とは言ってない。
こいつは、こちらの線の外側をなぞることで、自分がまだ関われると思っている。
――ストーカー化の入り口だ。
「帰る」
俺が言うと、アリスは息を飲んだ。
「でも、まだ……」
「今日は終わり。無理する日じゃない」
アリスは悔しそうに唇を噛んだ。それでも、頷いた。
「……うん」
俺たちはそのまま出口へ向かった。背中に視線を感じる。振り向きたい衝動を抑える。振り向いたら、相手の“存在感”を強めるだけだ。
図書館を出ると、熱気が一気に襲ってきた。冷房の冷たさが消えたぶん、現実の空気が重い。俺はアリスの手を離さず、駅へ向かって歩いた。
途中、アリスが小さく言った。
「隆太郎……私、怖い」
「うん。怖いよな」
俺は否定しなかった。否定したら、アリスが自分の感覚を疑ってしまう。
「でも、今言えてる。だから大丈夫」
「……大丈夫?」
「大丈夫にする」
言い切って、俺はスマホを取り出した。母さんに連絡する。短く、要点だけ。
『図書館に田村がいた。話しかけてこないけど、離れた場所から見てた。すぐ帰る』
送信すると、すぐに既読がついた。母さんの返信は早かった。
『分かった。二人とも帰っておいで。家に着くまで電話つないで』
俺はそのまま母さんに電話をかけた。母さんの声が耳に入った瞬間、背中の冷えが少し和らぐ。
「母さん、今駅に向かってる」
『うん。周り見て。後ろにいる?』
「……分からない。振り向かない」
『いい判断よ。駅に入ったら、人の多いところに』
母さんの声は落ち着いていて、それが逆に頼もしかった。アリスも少しだけ呼吸が落ち着く。
駅の改札を通り、ホームに出る。人が多い。学生と会社員が混ざって、夏休みでも電車は動いている。俺はその人混みの中に身を置いて、ようやく少し安心した。
――けれど。
ホームの端の方、柱の陰に、一瞬だけ田村らしき影が見えた気がした。
アリスも同時に肩を震わせる。見えたのだと思う。けれど、次の瞬間、その影は人の流れに紛れて消えた。確証は取れない。それが一番嫌だ。
『隆太郎? 大丈夫?』
母さんの声が耳元で問う。
「……たぶん、ついてきてる」
俺は正直に言った。言ってしまったら、もう後戻りできない。でも、後戻りする段階じゃない。
『分かった。家に着いたらすぐ鍵。アリスちゃんを一人にしないで』
「うん」
電車が来て、俺たちは乗った。車内の空気は蒸しているのに、俺の指先は冷たかった。アリスは俺の腕にしがみつくように寄り、視線を落としている。青い瞳の揺れが、俺の胸を締めつける。
――ここからだ。
“声をかけない”という形で、距離を保っているつもりの接近。
“見ているだけ”という言い訳で、相手の生活に入り込む。
“助けたい”という正義で、拒絶を拒絶として受け取らない。
それはもう、恋じゃない。
俺は車窓に映る自分の顔を見た。祭りの夜より、さらに硬い。怒りというより、決めた顔だ。
家に着くまで、俺は一度も気を抜かなかった。
そして、玄関の鍵を閉めた瞬間、ようやく胸の奥で鳴っていた警報が、ほんの少しだけ音量を下げた。
――でも、終わっていない。
始まっただけだ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




