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"正義"の物語

 田村と話してから二日が経った。


 表面上、何かが大きく変わったわけじゃない。蝉は鳴くし、朝は来るし、母さんは淡々とご飯を作る。アリスは「百合子さん、おはよう」と言って、俺にはいつも通り「隆太郎」と呼び捨てで笑う。太刀川家へ行く日には、健一さんと恵さんが当たり前みたいに迎えてくれて、夕飯を囲む時間ができる。


 ――生活は続く。


 だけど、続くからこそ、異物は目立つ。


 田村が「図書館では話しかけない」と言った瞬間から、俺の中で違和感が確信に近づいた。あの言い方は、譲歩ではなく“ルールの再設定”だった。こっちが望んでいないのに、勝手に条件を作り、自分がまだ舞台にいることを前提にする。あの手の人間は、拒絶を拒絶として受け取らない。受け取れないというより、受け取らない。だから、俺は母さんに田村からの被害やその存在を話した。


 そして夏休みは、人が暇になる。暇は妄想を育てる。


 俺はそう思っていた。


 だから、起きた出来事は、驚きはあっても「予想外」ではなかった。


 ※ ※ ※


 その日は、午前中に宿題を進め、午後から太刀川家へ行く予定だった。


 昼前、俺が数学の問題集に向かってうんうん唸っていると、リビングのドアがノックされ、母さんが顔を出した。


「隆太郎、ちょっといい?」


「ん? どうした」


「郵便、届いてたんだけど……宛名がアリスちゃん」


 母さんの手には、薄い封筒が一通。切手が貼ってあって、差出人の欄に見覚えのない名前が書かれている。俺は一瞬で嫌な汗が背中に浮くのを感じた。


 アリスへの郵便?


 この家に来てから、アリス宛ての郵便なんてほとんどない。留学生という設定上、学校関係の書類とか、たまに市の案内とか、その程度だ。個人からの封筒なんて、なおさら。


 アリスはキッチンで昼の準備をしていたが、母さんの声でこちらへ来た。


「なに? 百合子さん、どうしたの」


 母さんが封筒を見せると、アリスは不思議そうに受け取った。指先が触れた瞬間、ほんの僅かに肩が固まる。彼女も“嫌な予感”を感じたんだと思う。


「……誰だろ」


 アリスが封筒を裏返す。差出人の名前を見た瞬間、彼女の表情が凍った。


「……田村」


 それだけで、俺の胃がひやりとした。


「……やっぱりか」


 母さんは一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに落ち着いた声で言った。


「開ける? それとも、開けない?」


 母さんの判断はいつも冷静だ。感情的に「捨てなさい」と言わない。アリスの意思を尊重しつつ、危険を計る目がある。


 アリスは封筒を握ったまま、目を伏せた。


「……怖い」


 小さな声。祭りのときと同じ言葉。でも、今度は場所が家だ。守られているはずの場所に、影が差し込んできた。そのこと自体が、彼女の恐怖を増幅させている。


 俺は封筒を見つめた。どうやって住所を知った? 学校の名簿? 誰かに聞いた? それとも、もっと単純に、図書館や祭りで後をつけた? 考えれば考えるほど、胃が重くなる。


「……開けないでいい」


 俺が言うと、アリスは小さく頷きそうになって、途中で止まった。


「でも……何が書いてあるか、知らないのも怖い」


 それも分かる。見えないものは、勝手に大きくなる。中身がただの謝罪なら、こちらの心の負担は減るかもしれない。でも、そうじゃない可能性も当然ある。


 俺は母さんを見た。母さんは静かに頷く。


「三人で見よう。アリスちゃんが一人で抱えなくていいように」


 その言い方に、アリスの肩が少しだけ下がった。


「……うん」


 俺たちはリビングのテーブルに座った。封筒を中央に置く。それだけで、空気が少し張りつめる。夏の昼の明るさが、逆にこういう場面では残酷だ。窓の外の蝉の声が、やけに遠く感じる。


 アリスは封筒の口を開けた。指先が小さく震えている。俺は机の下でそっとアリスの手を握った。母さんもこちらを見て、安心させるように微笑んだ。


 中から出てきたのは、便箋が一枚。


 丁寧に折られていて、文字も丁寧だった。だけど、その丁寧さは“誠実さ”というより、執着の形にも見える。


 アリスが読み始める前に、俺が先に言った。


「……俺が読む」


 アリスは一瞬迷って、それから頷いた。


「お願い」


 俺は便箋を広げた。紙の匂いがした。インクの匂いも。どこかで急いで書いたのか、筆圧が強い部分がある。


 俺は声を出さずに、内容を目で追った。


 ――謝罪。

 ――昨日は誤解させてごめん。

 ――本当は、白金さんのことが気になって仕方ない。

 ――彼氏がいるのは分かっている。

 ――でも、君が本当に幸せか分からない。

 ――宮本くんは過保護で、君の自由を奪っているように見える。

 ――君が困っているなら、俺が助けたい。

 ――君は優しいから、断れないだけじゃないか。

 ――一度だけでいい、二人で話したい。


 読み終えた瞬間、喉の奥が冷たくなった。


 ――やっぱり。


 拒絶が、拒絶として届いていない。むしろ、拒絶を“救済の必要”として翻訳している。俺の存在は“障害”で、アリスは“助けるべき対象”。そういう物語を、田村の頭の中で勝手に作っている。


 これが“勘違い”の形だ。


 そしてこの勘違いは、本人の中で正義になる。


 俺は便箋をテーブルに置いた。母さんがそっと覗き込み、眉をひそめた。


「……これは、まずいわね」


 母さんの声がいつもより低い。感情的ではなく、危機管理としての低さだ。


 アリスは便箋を見つめながら、唇を噛んだ。


「私……自由、奪われてない」


「当たり前だ」


 俺が即答すると、アリスは少しだけ目を潤ませた。


「隆太郎、私、隆太郎といるのが好きなのに……なんで、こうなるの」


 その言葉が、胸を締めつける。アリスは何も悪くない。優しくした。丁寧に断った。それでも相手が勝手に物語を作った。努力の方向が違う人間に対して、こちらの誠実さは武器にならないことがある。


 母さんが静かに言った。


「アリスちゃん。これは“優しさ”で解決しようとしないほうがいい」


 アリスが母さんを見る。


「え……」


「田村くんは、あなたの優しさを“可能性”として受け取ってしまってる。だから、優しく断ると、逆に『まだチャンスがある』って誤解する」


 母さんは言葉を選びながら、でもはっきり伝えた。俺も同じことを感じていた。祭りで断っても、図書館で断っても、相手は“条件”を変えて舞台に残ろうとした。優しさが、相手の妄想の養分になっている。


 アリスは小さく頷いた。


「……じゃあ、どうすれば」


「線を引くの。連絡は受け取らない。返さない。会話もしない。必要なら、大人に入ってもらう」


 その「大人」という言葉が、部屋の空気を少し変えた。俺はその必要性を理解している。けれど同時に、アリスの心に負担を増やしたくない気持ちもあった。


 アリスは俯き、しばらく黙ってから言った。


「……私、また言える。昨日みたいに。『嫌』って」


「言わなくていい」


 俺は強めに言ってしまった。アリスが驚いた顔をする。俺は一度息を吸って、言い直した。


「言えたのはすごい。でも、もう十分だ。次は、言葉じゃなくて仕組みで止める」


 アリスは少しだけ目を丸くして、それから、ゆっくり頷いた。


「……うん」


 母さんが便箋を丁寧に折り直し、封筒に戻した。


「これは保管しておきましょう。念のためね」


 証拠。そういう言葉を口にしなくても、母さんの行動がそれだった。俺は背筋が伸びた。家庭内で“警戒レベル”が一段上がったのを感じる。


 その日の午後、俺たちは太刀川家へ行く予定だった。けれど、この状況で普通に行けるのか。俺は迷った。移動中に何かされたら? 家を空けるのは危ない?


 母さんが先に言った。


「太刀川さんたちには、共有しておいた方がいい。健一さんは特に、こういうのは早いほうがいい」


 俺は頷いた。健一さんの「頼むな」という言葉を思い出す。守るというのは、報告も含む。


 母さんが太刀川家に電話をかける間、アリスはソファに座って膝を抱えた。金髪が肩から滑り落ちて、頬にかかる。それを払う仕草が弱々しくて、俺の胸が痛んだ。


 俺は隣に座り、肩に触れるか迷ってから、そっと手を重ねた。アリスは一瞬だけびくりとして、すぐに俺の手を握り返した。


「隆太郎……私、嫌だ。こういうの」


「俺も嫌だ」


「楽しい夏休み、なのに」


「楽しくする。邪魔させない」


 言葉は強い。でも心はまだ揺れている。それでも、揺れながら強く言うしかなかった。


 母さんの電話が終わった。


「健一さんが、今日の夕飯のときに話を聞きたいって。恵さんも一緒に」


 その言葉に、アリスが少しだけ肩の力を抜いた。二人の親が味方だと分かるだけで、安心感があるんだと思う。


 ※ ※ ※


 夕方、太刀川家。


 玄関を開けると、恵さんがすぐに出てきて、アリスを抱きしめた。抱きしめ方が強い。優しいけど、守るための強さがある。


「朝日、大丈夫?」


「うん……でも、ちょっと怖かった」


「そっか。よく言ってくれたね」


 恵さんは“言えたこと”をまず認めた。それから、俺と母さんにも目を向ける。


「百合子さん、隆太郎くん、話聞いた」


 母さんが頷く。


「ええ。封筒が届いて……」


 リビングに通され、健一さんも席に着いた。いつもより表情が硬い。目がまっすぐで、余計な感情を挟まないぶん、怒りが静かに燃えているように見える。


 母さんが封筒と便箋の内容を要点だけ話し、俺も図書館や祭りでのことを補足した。アリスは途中で何度か視線を落としながら、でも必要な部分は自分の言葉で伝えた。


「……連絡先、教えてないのに、来たのが怖かった。祭りで、話しかけられて……帰りも、スマホが震えて……」


 健一さんが、しばらく黙って聞いてから、低い声で言った。


「田村、という生徒か」


「はい」


「学校は同じか」


「はい。三年です」


 健一さんは一度だけ息を吐いた。吐き方が“決めた”人のそれだった。


「……俺が動く」


 その一言で、空気が変わった。父親が動く。家族が動く。個人の問題から、家庭の問題へ変わる。守られる側にとっては安心だ。でも同時に、事が大きくなる怖さもある。


 アリスが不安そうに健一さんを見る。


「お父さん、私……大丈夫だよ。そこまでしなくても……」


「する」


 健一さんは短く言い切った。


「朝日が怖いと言った。それで十分だ」


 アリスの目が潤んだ。嬉しい涙と、怖さと、色々混ざった涙だ。


 恵さんがアリスの背中を撫でながら言う。


「大丈夫。朝日は何も悪くない。これは、相手の問題」


 母さんも頷いた。


「学校に相談するか、必要なら田村くんの親に連絡する。段階は踏むけど、放置しない」


 俺はその言葉を聞きながら、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。ようやく“仕組み”が動き始める。俺一人で抱え込む段階ではなくなる。


 ただ、その軽さの裏に、別の重さもあった。


 田村がこの状況をどう解釈するか。


 彼は“正義”の物語を作る。自分は助けようとしている、彼氏が邪魔している、家族が彼女を囲い込んでいる。そういう方向に妄想が進めば、行動がエスカレートする。


 俺はその可能性を、口にしなかった。今は味方が増えた安心を大事にしたかった。でも心の中では、はっきり警戒していた。


 夕飯を食べ終え、帰り際。


 玄関で健一さんが俺にだけ、小さな声で言った。


「隆太郎くん」


「はい」


「もし、何かあったら――躊躇うな」


 短い言葉。けれど意味は重い。危険を感じたら、遠慮せず大人を呼べ、ということだ。


「……はい」


 俺は頷いた。


 アリスは帰りの車で、窓の外を見ながら小さく言った。


「隆太郎、私……負けたくない」


「負けない」


「夏休み、楽しくしたい」


「する」


 短い会話。けれど、俺たちの決意はそこに詰まっていた。


 田村の“勘違い”は、もう勘違いだけじゃない。


 アリスの優しさを、都合よく翻訳して、勝手に救済者になろうとしている。


 その物語を、ここで止める。


 俺は夜の窓に映る自分の顔を見て、静かに歯を食いしばった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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