警告の一言
プールの帰り道、アスファルトから立ち上る熱が、夕方になっても全然引かなくて、靴底越しにじわじわと足の裏に残った。
身体は疲れているはずなのに、頭の中は妙に冴えていた。水の中でいったん薄まった警戒心が、乾いた空気に触れた瞬間また濃くなる。楽しかった――それは嘘じゃない。アリスの笑い声も、水しぶきも、眩しさも、ぜんぶ本物だ。でも同じくらい、“あの視線”の感触も消えなかった。
もし見間違いなら、俺は自分の臆病さに笑うべきなんだろう。
けど、夏祭りでのあのタイミングの悪さ。連絡先を知らないはずなのに届いたメッセージ。そして、今日のプールのフェンス外。偶然が三つ続いたら、もう偶然って言葉は便利な言い訳にしかならない。
帰宅すると、玄関を開けた瞬間に冷房の空気が肌にまとわりついて、思わず息が漏れた。外の世界が攻撃的だったぶん、家の中は別の国みたいに穏やかだ。
「ただいまー」
アリスがいつもより大きい声で言う。テンションが高いというより、“ちゃんと楽しかったって言いたい”声だった。
「おかえり。二人とも焼けたわね」
リビングから母さんの声が返ってくる。冷たい麦茶のグラスがすでに用意されていて、氷が小さく鳴った。母さんはこういう準備が早い。いつも誰かの喉の渇きより先に動いている。
「母さん、ありがと」
「百合子さん、麦茶! 最高!」
アリスがグラスを持ち上げて嬉しそうに言う。呼び方はちゃんと“百合子さん”その当たり前が、今は妙に安心材料になる。俺の世界のルールが崩れてない、っていう証明みたいで。
麦茶を一気に飲むと、身体の中の熱が少し引いた。だけど、頭の奥に残るざわつきは引かない。
夕飯の準備をしながら、母さんが何気なく聞いてくる。
「プール、混んでた?」
「まあまあ」
「アリスちゃん、楽しめた?」
「うん! 競争した! 隆太郎と引き分け!」
「引き分けじゃなくて……」
「引き分け!」
アリスが即座に被せてきて、母さんがくすっと笑った。俺も苦笑いするしかない。こういう軽さは、守りたい。
夕飯のあと、俺は自室に戻って、机の上の夏休み計画ノートを開いた。ページの端に書いた「図書館:週3」という字が目に入って、胃が軽く痛む。勉強の痛みじゃない。田村に会うかもしれない、という痛みだ。
――でも、逃げるのは違う。
図書館は公共の場所だし、行くのをやめたら、こっちが生活を削られていく。それは、相手のペースに合わせてしまうってことだ。そうなったら終わりだと思った。
俺は、アリスを巻き込まない形で、でも確実にラインを引く。
その方針だけは、ぶれなかった。
※ ※ ※
翌日。
朝の光は容赦なく、カーテンの隙間から差し込む日差しが、目覚ましより先に俺を起こした。蝉が鳴いている。もうこの音に「夏だな」って感想すら追いつかない。ただひたすら、鳴く。
リビングへ降りると、母さんが朝食を並べていた。アリスは先に席に着いていて、トーストにいちごジャムを塗っている。動きが丁寧で、朝のアリスはいつも少しだけ静かだ。
「おはよう」
「おはよう、隆太郎」
「おはよう、百合子さん」
母さんが「おはよう」と返して、いつもの朝が始まる。
俺は食べながら、今日の予定を頭の中で組み立てた。午前中に図書館、昼は軽く食べて、午後は宿題の続き。夕方は太刀川家に行く日ではない。今日は宮本家で過ごす日だ。
つまり、“外”にいる時間が長いのは午前だけ。
俺はその午前を、ちゃんと管理したかった。
「ねえ隆太郎」
アリスが小さな声で言う。母さんが台所に立ったタイミングを見計らっているのが分かった。
「今日、図書館……行くよね」
「ああ」
「……田村先輩、来るかな」
アリスの声がわずかに揺れた。恐怖、というより、警戒と疲れ。昨日の祭りで言い切ったはずなのに、まだ追われる感じが残っているんだと思う。
「来ても、俺が対応する」
「私も、言う。昨日みたいに」
「無理するな」
「無理じゃない。……でも、隆太郎の隣がいい」
その言い方が、胸にまっすぐ入ってきた。守る、って言葉は簡単だけど、実際は二人のバランスで成り立つ。俺が前に立ちすぎたら、アリスの意思が消える。アリスが一人で立ちすぎたら、彼女が傷つくかもしれない。ちょうどいい場所に俺がいるのが、たぶん一番強い。
「分かった。隣にいる」
アリスは安心したように頷いた。
※ ※ ※
図書館へ向かう電車は、平日でもそこそこ混んでいた。夏休みに入った学生が増えている。制服のままの奴もいれば、私服の奴もいる。俺とアリスは私服だ。アリスは白いTシャツに薄い青のスカート。動きやすい格好なのに、どこか清潔感がある。そういうところが、余計に目立つ。
――目立つな、って言っても無理なんだけど。
図書館に着くと、いつもの冷たい空気と本の匂いが迎えてくれた。外の熱が嘘みたいに引いて、背中に張りついていた汗が少し乾く。
俺たちは閲覧席の端の方、前に座った場所に向かった。周囲にはすでに何人もいて、参考書を広げたり、ノートを開いたりしている。夏の図書館は、受験生の戦場だ。空気が静かなのに、見えない圧がある。
席に座って、俺は数学の問題集を開いた。アリスは英語の長文と、別の教科のプリントを並べる。鉛筆の音が、二人分だけ小さく重なる。
しばらくは、何も起きなかった。
その“何も起きない”時間が、逆に俺の神経を尖らせる。何も起きないまま終わるなら、それが一番いい。いいのに、俺は常に入口の方向や、通路の影を視界の端で追ってしまう。
――来るなよ。
内心で何度もそう呟いて、問題の数字を追う。途中で解法が分からなくなって、アリスに聞く。アリスは小声で説明してくれて、俺はそれに頷く。日常が戻ってくる。心臓が落ち着く。
その時だった。
「……やっぱりいた」
低い声。抑えた声。けれど耳に残る声。
俺は顔を上げる前に分かってしまった。足音の止まり方。距離の詰め方。自分の存在を“当然”として置く感じ。
田村だ。
視線を上げると、通路に立って俺たちを見下ろしている。今日は制服じゃない。薄いグレーのTシャツに黒いパンツ。私服にした分、“偶然感”を強めようとしているのが見え透いた。
アリスの手が一瞬止まった。ペン先がノートの上で止まる。呼吸も少し浅くなるのが分かった。
俺は椅子を引く音を立てないようにして、軽く姿勢を正した。ここは図書館だ。怒鳴れない。殴れない。言葉と態度だけで線を引くしかない。
「……田村先輩」
アリスが小声で言う。礼儀は捨てない。だからこそ、相手が付け入る隙にもなる。
「夏祭りはさ、ごめん。なんか、雰囲気悪くしちゃった」
田村はまず“謝罪っぽい言葉”を置いてきた。場を整えるための言葉。誠意のためというより、次の要求を通すための前置き。
俺は黙ったまま田村を見た。アリスも見上げる。田村は俺の視線を受け流すようにして、アリスにだけ話しかけた。
「メッセ、見てないんだよね。……じゃあさ、ここでちょっとだけでいい。英語、単語帳の選び方だけ教えてほしい」
また“だけ”だ。
そしてまた“ここで”。公共の場。断りづらい。相手の良心を利用する形。
アリスは唇を結んだ。夏祭りの時は「怖い」と言った。今日はその続きを言わなきゃいけない。俺はそれがどれだけしんどいか、見てるだけで分かる。
だから、俺が先に言った。
「無理です」
声は小さく、でもはっきり。
田村の顔が一瞬固まる。すぐに笑い直す。
「宮本くん、別に君に頼んでないんだけど」
「アリスが困ることは、俺も関係あります」
言葉をぶつけ合うと、図書館の静けさの中で妙に尖って聞こえる。周囲の視線が少しこちらに寄るのを感じて、田村もそれに気づいたのか、声をさらに落とした。
「……困ってないでしょ? 白金さん、優しいし」
その言い方が、気持ち悪かった。“優しい”を武器にして、相手を縛る。優しいから断らないはず、優しいから付き合うはず、と決めつける。
アリスが、ゆっくり首を振った。
「困ってる。この前も言った。連絡先、知らないのに来るの、嫌」
「いや、連絡先は……」
田村の言葉が詰まった。言い訳を探している顔。俺の中で警戒が強まる。
「誰に聞いたんですか」
俺が静かに聞くと、田村はわずかに目を泳がせた。
「……学校で、聞いただけだよ。みんな知ってるっていうか」
“みんな”という曖昧な主語。責任を散らす言い方。俺は息を吐いた。こいつは、悪意がないふりをするのが上手い。だから余計に厄介だ。
「今後、メッセージも、声かけもやめてください」
俺は言った。アリスが断るより、俺が“条件”として置く方が早い。アリスは隣で小さく頷いている。意思は一致している。
田村は笑ったまま、目だけが冷えた。
「……そんな言い方しなくても。俺、ちゃんと謝ってるじゃん」
「謝るなら、やめてください」
「……白金さんはどう思ってるの?」
田村がアリスを見る。俺を迂回して、本人の“優しさ”を引き出そうとする。
アリスは息を吸って、俺の袖を指先で一瞬だけ掴んだ。それはたぶん、震えを抑えるための動作だった。俺はその手を、机の下でそっと握り返した。強くしすぎず、離さず。
「私も……やめてほしい」
アリスは言った。昨日より声が少しだけ強い。けれど、目の奥にはまだ揺れがある。
田村の口元の笑みが薄くなる。
「……なんで? 彼氏がいるから? それだけ?」
「違う」
アリスが短く言った。昨日の言葉と同じ。俺はその“同じ”が大事だと思った。線は同じ場所に引き続けることで強くなる。
田村は、ふっと息を吐いて、視線を落とした。怒りを抑えるふりをしているのか、本当にショックなのか分からない。でも次に上げた顔は、妙に落ち着いていた。
「分かった。じゃあ、もう図書館では話しかけない」
その言い方が、逆に嫌だった。“図書館では”。場所だけ限定する。つまり、別の場所なら話しかけるつもりだと言っているようなものだ。
俺の背中が冷える。
「学校でも、どこでも、やめてください」
俺が言うと、田村の眉が動いた。
「……そこまで?」
「そこまでです」
田村はしばらく黙っていた。周囲の静けさが、俺たちの間の空気を余計に重くする。やがて田村は、口元に薄い笑みを戻して言った。
「……君、過保護だね」
その一言が、喉の奥に引っかかった。過保護。俺の行動を“間違い”として扱う言葉。アリスの恐怖を“誇張”として扱う言葉。
俺は反射で言い返したくなった。けど、ここで感情を爆発させたら、田村の思う壺だ。こっちを“怒りっぽい彼氏”にして、アリスの味方のふりをする。そういう展開が見えた。
だから俺は、淡々と返した。
「必要なだけです」
田村はその返答が気に入らないのか、少しだけ唇を歪めた。けれど、最後には肩をすくめて、踵を返した。
「……分かった。じゃ、勉強頑張って」
そう言って去っていく背中が、人の流れに溶けていく。俺は立ち上がって追いかけたくなった。けど、追いかけたら、こっちが“絡んでいる側”になる。
俺は座ったまま、拳を開いたり閉じたりして、指先の痺れを落ち着かせた。
隣でアリスが、小さく息を吐く。
「……隆太郎」
「ん」
「私、言えた」
「ああ。言えた」
アリスは俺を見て、少しだけ笑った。けど、その笑いはすぐにほどけて、目の奥が不安に戻る。
「でも……『図書館では』って言ったの、嫌な感じした」
「俺も」
同じ感覚。そこに少し救われた。俺だけが過敏なわけじゃない。アリスも、ちゃんと危うさを感じている。
俺は、机の上の問題集を見つめた。数字が並んでいるのに、頭に入ってこない。今は勉強じゃない。危機管理の方に脳が割かれている。
「今日は、早めに切り上げるか」
俺が言うと、アリスは少し迷ってから頷いた。
「うん……隆太郎と一緒に帰りたい」
「当然」
席を立って、荷物をまとめて、静かに図書館を出る。外の熱がまた襲ってきた。けれど、さっきより辛くはない。空気が攻撃的でも、俺の手の中にはアリスの手がある。
駅へ向かう道の途中、アリスがふいに言った。
「ねえ隆太郎。田村先輩、さ……私が優しいからって、勝手に近づいてくるの、嫌だね」
「ああ」
「私、優しくしなきゃって思っちゃう時がある。でも、嫌なものは嫌って言っていいんだって……隆太郎が言ってくれて、分かった」
その言葉に、胸が熱くなった。俺がやったのは、線を引いただけだ。けど、その線がアリスの“許可”になったなら、それは意味がある。
「言っていい。嫌なら嫌でいい」
俺がそう言うと、アリスは小さく頷いて、俺の腕にそっと触れた。触れ方が慎重で、甘えというより確認みたいだった。
電車に乗って、窓の外を流れる街を眺める。俺は表情を平静に保ちながら、頭の中で次の手を考えた。
田村は引いたように見せた。でも、引き方が中途半端だ。境界線が見えたからこそ、逆に“別の解釈”を始めるかもしれない。
――昨日の祭りで、アリスが俺の手を握っていた。
――図書館で、アリスが俺の袖を掴んだ。
――今日、アリスが自分で「やめてほしい」と言った。
普通なら、そこで終わる。
でも、終わらないタイプがいる。相手の意思を正しく受け取らず、自分に都合よく翻訳してしまうタイプ。そういうやつは、拒絶すら「本当は照れてる」「彼氏が邪魔してる」と変換する。
俺は窓に映る自分の顔を見た。思った以上に目が鋭くなっていて、自分でも少し驚く。守るって決めると、人はこういう顔になるんだな、と思った。
家に着くと、母さんが玄関で出迎えた。
「おかえり。早かったのね」
俺は一瞬、言葉を選んだ。全部話すか、話さないか。母さんは事情を知っている。アリスの正体も含めて、家庭の“重み”を一緒に背負っている人だ。だから、隠すべきではない。でも、アリスが疲れている今、余計な不安を増やすのも違う。
俺は短くまとめた。
「……図書館で、アリスにしつこく絡んでくる奴に会った。もう話しかけるなって言った」
母さんの表情が一瞬だけ固くなる。けれど、すぐに落ち着いた声で返した。
「そう。アリスちゃんは大丈夫?」
「うん。……ちょっと疲れた」
アリスが小さく言う。母さんは頷いて、優しく笑った。
「今日は無理しなくていいわ。麦茶、冷えてるから飲んで、少し休もうね」
「百合子さん、ありがとう」
アリスがそう言って、リビングへ向かう。俺はその背中を見ながら、胸の奥でひとつだけ決めた。
次に何かあったら、俺の判断だけで抱えない。
母さんにも、必要なら健一さんにも、恵さんにも、ちゃんと共有する。守るっていうのは、全部を一人で抱えることじゃない。チームで守ることだ。家族で守ることだ。
俺はそう自分に言い聞かせながら、机の上に置いたスマホを見た。
画面は静かだ。
静かすぎるのが、逆に不気味だった。
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