迫り来る恐怖
夏祭りの翌朝、目が覚めた瞬間に、昨日の音がまだ耳の奥で鳴っている気がした。
花火の腹に響く低音。提灯の赤い光。アリスの浴衣の袖が揺れるたび、金魚が泳いだみたいに見えたこと。肩に頭を預けてきて、「幸せだね」と囁いた小さな声。
――そして、帰り道に震えたスマホ。
布団の中で天井を見つめながら、俺は胸の奥の“棘”を確かめるみたいに息を吐いた。花火を見ている間だけ、それは少し遠のいた。けど、朝になれば当たり前みたいに近くへ戻ってくる。昨日が楽しかったほど、その反動で不穏が輪郭を持ってしまうのが厄介だった。
台所から味噌汁の匂いが流れてきて、俺はようやく身体を起こした。夏なのに味噌汁、と思うけど、朝の温かい匂いは落ち着く。こういう「生活の匂い」が、俺の神経を現実につなぎ止めてくれる。
リビングへ降りると、母さんが朝食の支度をしていた。エプロン姿の背中はいつも通りで、昨日の祭りも、田村も、花火も、全部“特別な出来事”として棚に上げて、今日の献立へ意識を向けているように見えた。
「おはよう、隆太郎」
「おはよう」
そのタイミングでアリスも二階から降りてきた。髪は軽くまとめて、目をこすりながら、少し眠そう。でも、頬の奥に昨日の余韻が残っているみたいに柔らかい表情をしている。
「おはよう、百合子さん」
「おはよう、アリスちゃん。昨日は楽しかった?」
母さんが笑って聞くと、アリスはぱっと目を輝かせて、大きく頷いた。
「うん。すっごく楽しかった。花火、綺麗だった」
「よかった。浴衣も本当に似合ってたわ」
アリスは少し照れて「ありがとう」と言った。俺は味噌汁をすすりながら、そのやり取りを聞いていた。何気ない会話のはずなのに、昨日の“影”が頭をよぎるせいで、一言一言が妙に尊く感じる。
朝食を食べ終えて、皿を片付けていると、アリスが俺の袖をちょんと引いた。
「隆太郎」
「ん?」
「今日、プール行く日だよね」
そうだった。夏休み計画の“やりたいこと”。図書館と並んで書いたやつ。俺は一瞬だけ、気持ちが軽くなるのを感じた。プールは、勉強みたいに胸が重くならない。純粋に夏っぽい。アリスが笑うのが想像できる。
「……行くか」
「行こ」
アリスは即答した。昨日のことがあったのに、ちゃんと前を向いてる。その強さが嬉しい反面、俺は自分の警戒心が過剰になってないかを確かめたくなる。
母さんが台所から顔を出す。
「プール? 行くのね。暑いからちょうどいいわ。水分と日焼け止めは忘れないで」
「分かってる」
「百合子さん、日焼け止め、私も塗る」
「ええ。ちゃんとね。帰ってきたら冷たい麦茶用意しとくわ」
「やった」
アリスが子どもみたいに喜んで、俺は小さく笑った。こういう瞬間は、ちゃんと“普通の夏休み”だ。
※ ※ ※
市民プールは、駅から少し歩いたところにある。大きな施設じゃないけど、屋外プールとしては十分だ。入口の前には、同じように水着を入れたバッグを持つ家族連れや、友達同士で来た学生が列を作っていた。太陽が高くて、空がやたら広い。
チケットを買って更衣室へ向かう。男子更衣室の入口でアリスが足を止めた。
「じゃ、あとでね」
「おう。はぐれるなよ」
「隆太郎、私、プールでどうやってはぐれるの」
「……知らないやつに声かけられて、気づいたら違う場所、とか」
冗談のつもりで言ったのに、言葉が妙に現実を帯びてしまった。アリスは一瞬だけ表情を止めた。
俺はすぐに言い直す。
「いや、今のは……」
「ううん。分かってる。隆太郎、心配してるんだよね」
アリスはそう言って、ふっと笑った。昨日のことを、二人の間で“触れないルール”にしていない。その態度がありがたい。
「大丈夫。変な人が来たら、ちゃんと逃げる。隆太郎のところに行く」
「ああ。そうしろ」
アリスは軽く頷いて、女子更衣室へ消えた。俺は男子更衣室に入りながら、胸の奥でまた棘が小さく動くのを感じた。俺は、楽しみたい。楽しませたい。でも同時に、見落としたくない。
着替えを済ませて外へ出ると、プールの水面が太陽を跳ね返して眩しかった。子どもたちの歓声、ビート板が水を叩く音、監視員の笛。夏の音が、祭りとは違う形で身体に響く。
アリスはすぐ見つかった。水色の水着に薄いラッシュガード。金髪は濡れる前から束ねていて、首元がすっきりしている。こちらを見つけると、手を振った。
「隆太郎!」
呼ばれるだけで、胸が少し熱くなる。俺は手を上げて応え、アリスのところへ歩いた。
「準備いいか」
「うん。泳ぐ!」
「泳ぐって……お前、そんなガチで泳ぐタイプだったっけ」
「今日はガチ。だって夏休み」
理屈が雑で笑いそうになる。アリスは水に足を入れた瞬間、「冷たっ」と目を丸くして、そのまま入っていった。水しぶきが上がる。
俺も後を追って入る。最初は冷たいのに、すぐ身体が馴染んでくる。水の中だと、胸の奥のざわつきも少しだけ薄まる気がした。考える速度が落ちるというか、体感が優先される。
「隆太郎、競争!」
「いきなり?」
「向こうのロープまで!」
アリスは言い終わる前に水を蹴った。ずるい。俺も反射で追う。水が顔に当たって、息が乱れる。アリスは意外と速い。フォームは綺麗じゃないのに、勢いで進むタイプだ。
「おい、速いな……!」
「隆太郎、遅い!」
「うるせ……!」
ロープに触れたのはほぼ同時だった。アリスが勝ち誇ったように笑う。
「引き分け!」
「引き分けじゃなくて俺が――」
「引き分け!」
強引に決められて、俺は笑うしかなかった。水の中で笑うと、胸が軽くなる。昨日の影が、一瞬だけ遠のく。
その後も、俺たちは子どもみたいに遊んだ。ビート板でバタ足したり、流れるプールでゆっくり回ったり。アリスは水が好きらしく、表情がずっと明るい。俺も自然と笑っていた。
休憩の時間になって、プールサイドのベンチに座る。売店で買ったスポーツドリンクを飲むと、喉が生き返る。アリスはアイスを買ってきて、俺の隣でぺろぺろ舐めた。
「夏って、いいね」
アリスが言った。
「ああ」
「ねえ、隆太郎。昨日も思ったけど……私、こういうのが、ずっと欲しかった」
ずっと。過去を含む言い方。朝日としての時間も、アリスとしての時間も、全部まとめて抱えた言葉だ。俺は返事に詰まりかけたが、逃げるのは違うと思った。
「……俺もだ」
アリスが少しだけ目を細めて笑う。その笑顔が眩しくて、俺は視線を泳がせた。
そのときだった。
視界の端に、見覚えのある制服の色が入った気がした。
プールに制服はおかしい。けど、入口付近のフェンスの外、通路を歩く人の中に、白いシャツと紺のズボンが見えた。俺の心臓が一拍跳ねる。
俺は顔を上げた。フェンスの向こうにいる数人の中、ひときわこちらを見ている視線があった気がした。
――田村?
瞬間、相手は顔を背けた。すぐに人影に紛れて、分からなくなる。
俺は立ち上がりそうになって、踏みとどまった。確信がない。確信がないのに動けば、アリスに不安を伝染させるだけだ。
でも、見間違いだったとしても、俺の中で「嫌な予感」は確実に大きくなっていた。
「隆太郎?」
アリスが不思議そうに俺を見る。
「……なんでもない。ちょっと、水飲みに行く」
「一緒に行く」
「いや、すぐ戻る」
俺は軽く笑ってごまかし、売店の方へ歩いた。歩きながら、さっき見た方向を何度も確認する。通路。フェンスの外。人の流れ。誰もそれらしい奴はいない。
……見間違いか。
そう思いたかった。でも、祭りの夜も、今も、俺の“感覚”が同じ方向を指している。たぶん、あいつはもう「偶然」を装うのが上手くない。
売店の前で立ち止まり、息を整える。落ち着け。まだ決めつけるな。けど、備えろ。
俺はスマホを取り出して、アリスの連絡アプリを開いた。未読の通知が増えているか確認したかったが、画面を見せるのは違う。彼女は見ないと決めた。俺が勝手に覗くのも、信頼を傷つける。
代わりに、俺は自分のメッセージ欄を確認する。田村からは来ていない。昨日、直接言い返したからか。もしくは、別のやり方を考えているのか。
“別のやり方”という言葉が頭に浮かんだ瞬間、背筋が冷えた。
俺は急いでアリスの元へ戻った。
アリスはアイスを持ったまま、足をぶらぶらさせて俺を待っていた。俺の顔を見て、少しだけ首を傾げる。
「隆太郎、ほんとに大丈夫?」
「大丈夫。……もう一回、泳ぐか」
「うん!」
アリスが笑って立ち上がる。その笑顔に救われながら、俺は心の中で決めた。
これは、放っておけない。
ただの“勘違いの好意”なら、境界線を示せば終わる。けど、連絡先を勝手に辿る、祭りに現れる、そして今日、もし本当にプールの外にいたのなら――行動が“追いかける方向”に向いている。
次の図書館の日、俺は先に手を打つ。
アリスを怖がらせない形で。
家族を巻き込みすぎない形で。
でも、確実に距離を切る形で。
俺は水に入った。アリスが水をかけてくる。俺もかけ返す。笑い声が上がる。水しぶきが太陽に光って、白い粒になる。
楽しい。
それが本当だからこそ。
俺はこの楽しさを、誰にも汚させないと、静かに歯を食いしばった。
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