抜けない棘
祭りの喧騒は、耳から入って体の内側に溶けるみたいだった。
太鼓の音、屋台の呼び声、子どもの笑い声。油の弾ける匂いと、甘いシロップの匂いが混ざり合って、空気そのものが“夏休み”みたいに濃い。提灯の赤い光が、浴衣の柄を柔らかく照らして、人の輪郭を少しだけ夢の中みたいにぼやかしていく。
俺はその夢の中で、現実の針を一本だけ握っていた。
――さっき、視線が刺さった。
暗がりに制服姿の男が見えた気がする。確信はない。人混みの中では、似た背格好なんていくらでもいる。それでも、胸の奥の棘が疼いて、俺の感覚が「ただの気のせい」に収まらない。
アリスの手は俺の手の中にある。指先の細さ、ほんの少し冷たい体温。そこに意識を戻すと、余計な想像が一段だけ遠のいた。
「次、何食べる?」
アリスが、さっきの射的の猫のマスコットを見上げながら言う。俺が持っているそれが気になるのか、浴衣の袖の先がちょんと触れてくる。
「……イカ焼き」
「いいね。あと、りんご飴も」
「欲張りだな」
「祭りの日は、欲張っていい日」
そう言って笑うアリスは、祭りの光に照らされて普段より少しだけ大人っぽく見えた。浴衣の襟元の隙間、うなじの影、帯の締まり具合。変なところに目が行きそうになる自分を、俺は必死で抑える。
……今は守る方が先だ。
屋台の列に並びながら、俺は周囲を何度も見回した。顔を正面に向けたまま、視界の端で。人の流れの中に紛れた不自然を探す。背後を振り向くと露骨だから、やり方はなるべく自然に。
だけど、そういう“警戒”が続くと、楽しいはずの祭りの空気が少しだけ硬くなる。アリスの表情が、ほんの僅かに曇った。
「隆太郎……」
「ん?」
「……さっきから、周り見すぎ」
小声で言われた。責める声じゃない。心配する声だ。俺は言い訳を探したけれど、嘘はつけなかった。
「……気のせいかもしれないんだけどさ。さっき、見られた気がした」
アリスが目を瞬かせる。すぐに理解したのが分かった。
「田村先輩?」
「分からない。けど、あいつだったら嫌だなって」
アリスは唇を結んで、視線を人混みに泳がせた。青い瞳が提灯の光を反射して、揺れている。
「……私、メッセージ、無視してる」
「それでいい」
「でも、もし来てたら……」
「来ても、断る。俺が言う」
俺がそう言うと、アリスは少しだけ肩の力を抜いて頷いた。
「うん。……隆太郎、ありがと」
その「ありがと」が、胸にまっすぐ入ってくる。俺は短く「おう」とだけ返した。言葉を重ねると、変に感情が溢れそうだった。
イカ焼きを受け取って、二人で端の方に移動する。油の匂いとタレの匂いが強くて、空腹を容赦なく刺激してきた。アリスは一口食べた瞬間、目を丸くする。
「おいしい……! これ、好き」
「そりゃよかった」
俺も食べながら、アリスの口元にタレがつきそうになっているのを見て、変にドキッとする。恋人って、こういう瞬間にやたら意識が飛ぶ。
アリスがりんご飴を見つけて、今度はそっちの屋台へ向かった。赤い飴が提灯に照らされて艶っぽい。屋台のおばさんが「彼女さん、浴衣似合うねえ」と笑い、アリスは少し照れて「ありがとう」と返した。
俺は、そのやりとりを聞きながら、胸の奥がくすぐったくなるのと同時に、またあの棘が動いた。こういう言葉を、田村みたいなタイプは“自分の入り口”に使う。距離を詰める口実にする。
……いや、決めつけるのは良くない。
だけど、俺はもう一度、あの通知の一行を思い出してしまう。
『昨日はありがとう。白金さん、今度——』
“今度”。その先に、勝手に未来を置こうとする言い方。アリスが望んでいないのに。
俺はりんご飴の袋を受け取り、アリスに渡した。
「はい」
「ありがとう。隆太郎、一口いる?」
「……食べる」
アリスが飴を差し出してくる。俺は少しだけ噛んだ。甘さが舌に貼りつく。アリスがそのすぐ後に同じ場所を食べようとして、俺は思わず目を逸らした。
「……なに?」
「いや……なんでもない」
「絶対なんかある」
アリスはむっとした顔をしたけど、すぐに笑った。
「隆太郎、今、顔、赤い」
「暑いからだ」
「ふふ。暑いね」
そう言って、アリスは俺の腕に軽く寄りかかった。浴衣越しの体温が伝わってきて、俺の思考が一瞬だけ真っ白になる。花火が上がる前なのに、胸の中がすでに騒がしい。
――その瞬間だった。
「……白金さん」
背後から、聞き覚えのある声。
俺は全身が一気に硬くなるのを感じた。振り向く前から分かってしまう。声の高さ。言葉の区切り。丁寧なようでいて、妙に距離が近い呼びかけ。
田村だ。
振り返ると、そこに制服姿の男がいた。三年生の田村。図書館で見た顔が、提灯の光に照らされて少しだけ陰影を深くしている。手には飲み物のペットボトル。偶然ここに来ました、という顔をしているが、その偶然が濃すぎる。
アリスが、びくりと肩を揺らした。けれど、すぐに表情を整える。優しさが先に立つ癖が、こういう時に出る。
「……こんばんは」
「こんばんは。びっくりした。やっぱり来てたんだね」
田村は笑った。俺の存在を無視しない程度には認識している。けれど、視線の主役は最初からアリスだ。
「昨日、メッセ送ったんだけど……見てない?」
その一言で、俺の中の棘が鋭くなる。やっぱりだ。送っていた。しかも今、ここでそれを出す。アリスが断りづらい場所で、周囲が騒がしい場所で。
アリスは困ったように目を泳がせた。俺の方を見る。助けを求める視線。
俺は一歩前に出た。声を張る必要はない。距離の方が効く。
「見てない。見せてもない」
俺が言うと、田村は一瞬だけ眉を動かした。すぐに笑い直す。
「そっか。じゃあ、今度――」
「今度はない」
俺は静かに言い切った。祭りの音に紛れさせないように、言葉だけははっきりと。
田村が口を噤む。驚いた顔。次に、わずかに苛立ちが混じる。本人は隠しているつもりだろうけど、表情の奥が揺れた。
「……宮本くんだっけ」
「宮本」
「そんな言い方しなくてもさ。俺、別に悪いことしてないでしょ?」
そう言われると、こっちが悪者みたいになる。そういう“立て方”を無意識にやるタイプだ。俺は一度息を吸って、感情を抑えた。ここで荒れたら、アリスが一番つらい。
「悪いことかどうかは知らない。でも、アリスが困ってる」
「困ってる?」
田村がアリスを見る。アリスは小さく頷いた。
「……ごめん。メッセージ、見てないし、返せない」
田村は瞬きをして、少しだけ笑った。
「え、なんで? 英語教えてほしいだけなのに」
「それも、無理。私は……」
アリスが言いかけた瞬間、田村が言葉を被せた。
「彼氏がダメって言ってるから?」
その言い方が、露骨だった。アリスを“自分の意思のない人”みたいに扱う。俺は拳を握りそうになって、指先に力を込めた。
アリスは一度、俺の手を握り返してから、田村を見た。
「違う。私が嫌なの。連絡先、教えてないのに来たの、怖い」
言った。ちゃんと言った。
その瞬間、俺の胸が熱くなった。嬉しさと、誇らしさと、少しの痛み。アリスが「怖い」と言うのは簡単じゃない。相手を傷つけたくない彼女が、自分の境界線を言葉にするのは、勇気がいる。
田村の表情が固まった。
「……怖い、って。俺が?」
「うん。怖い」
アリスははっきり言った。声は小さい。でも、揺れていなかった。
田村は一瞬、言葉を失った。それから、乾いた笑いを浮かべた。
「そんな大げさだよ。俺、ただ仲良くなりたかっただけだし」
その“だけ”が危険だ。相手の感じ方を軽く扱う。「大げさ」と言った時点で、相手の恐怖を否定している。
俺は声を落として言った。
「アリスが怖いって言ってる。それで終わりだ」
田村は俺を睨むように見た。祭りの明かりが、目の奥を妙に暗くしている。
「……分かったよ。じゃあ、もういい」
吐き捨てるように言って、田村は背を向けた。人混みに紛れていく背中が、すぐに見えなくなる。
俺はその背中を、見えなくなるまで追った。追ってしまう自分が嫌だった。けど、見失うのがもっと嫌だった。
十分くらいの沈黙が、二人の間に落ちた。周囲の喧騒が戻ってきても、俺の耳はまだ田村の声を拾っている気がする。
「……ごめん、隆太郎」
アリスが先に言った。
「謝るな」
「でも、私……」
「アリスが悪いわけじゃない」
俺は、さっきより少しだけ強く言った。強く言わないと、自分の中の怒りが漏れそうだった。
アリスは俯いた。浴衣の袖が揺れて、金魚が泳ぐ。
「……怖いって言ったの、初めてだった」
「言えてよかった」
「うん。でも、胸が苦しい」
「分かる」
俺は頷いた。俺だって苦しい。アリスが怖がるのも、相手が勝手に近づくのも。全部が嫌だ。
アリスが俺の袖をぎゅっと掴む。
「隆太郎、花火、見る?」
花火。今日のクライマックス。楽しみにしていた。けれど、今の空気で見ても、ちゃんと“楽しい”になるのか分からない。
それでも、アリスが聞いた。逃げないで、前に進もうとしている。
「見る」
俺は即答した。
「……見よう。ここで帰ったら、あいつに負けた気がする」
アリスが少しだけ笑った。
「負けたくないね」
「負けない」
俺はアリスの手を握り直した。さっきより少し強く。でも痛くないように。守るための強さを、間違えないように。
花火の打ち上げ場所へ向かう人の流れに乗る。神社の裏手の河川敷。風が少し通って、汗が引く。暗くなるにつれて提灯の赤が際立ち、人の顔の表情が見えにくくなる。その分、俺は周囲への注意をより強くした。
田村が近くにいるかもしれない。
来ないかもしれない。
分からない。でも、分からないから、気を抜けない。
河川敷に着くと、すでに人が座っていた。レジャーシート、折りたたみ椅子、肩を寄せ合うカップル。夏の夜の匂いが、草と川と、遠くの屋台の甘さで混ざっている。
俺とアリスは少しだけ空いている場所を見つけて、座った。アリスが浴衣の裾を整える。動作がゆっくりで、慎重だ。緊張が完全には抜けていない。
「……大丈夫か」
「うん。隆太郎がいるから」
そう言われると、責任が肩に乗る。でも嫌じゃない。むしろ、俺はそれを受け取るためにここにいる。
やがて、遠くで「ドン」と低い音がした。腹の奥に響く感じ。空のどこかが開く前触れ。
最初の花火が上がる。
夜空に、白い光が広がった。ぱっと咲いて、ぱらぱらと散っていく。歓声が上がる。続けて、赤、青、金。色が変わるたび、アリスの瞳にも光が映る。
「……綺麗」
アリスが呟いた。
「ああ」
俺は空を見ながら、アリスの横顔を見た。花火の光で、頬が明るくなったり暗くなったりする。表情の揺れが、光のせいで強調される。
アリスは笑っている。ちゃんと、笑っている。
――よかった。
俺はそう思った瞬間、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。影があっても、光は光だ。怖いものがあっても、綺麗なものは綺麗だ。アリスがそれを選べるなら、俺も選びたい。
打ち上がる花火の連続が、夜空を埋めていく。音が重なり、光が重なり、空そのものが震える。
アリスがふいに俺の肩に頭を預けた。
「……幸せだね」
小さな声。花火の音に掻き消されそうな声。けれど、俺にはちゃんと届いた。
「……ああ」
俺は短く答えた。言葉を長くすると、声が震えそうだった。
俺はアリスの頭をそっと受け止めた。浴衣の布越しに伝わる髪の感触が柔らかい。花火の光が彼女の金髪を一瞬だけ銀色にする。胸がいっぱいになって、息が苦しくなるほどだった。
――この瞬間が、続けばいい。
そう願うと同時に、続かないかもしれないという恐怖が、どこかで顔を出す。それでも俺は、今だけはそれを押し戻した。
今、アリスは隣にいる。
花火が上がっている。
俺の手の中に、彼女の温度がある。
それが現実だ。
最後の大玉が上がった。金色の光が空に大きく広がり、少し遅れて「ドン」と響く。歓声が一段大きくなり、拍手が起きる。夜空の余韻に、煙が薄く漂う。
花火が終わると、人の流れが一斉に動き出した。帰る人、屋台に戻る人、写真を撮る人。河川敷の空気がざわざわと現実に戻る。
「帰ろうか」
俺が言うと、アリスは名残惜しそうに空を見上げて、それから頷いた。
「うん。……でも、帰り道、手、離さないで」
「離さない」
俺は立ち上がり、アリスの手を取った。今度は、最初から迷いなく。
人混みの中を進みながら、俺は何度も後ろを確認した。田村の姿は見えない。見えないから安心、とはならない。見えないまま近くにいる可能性だってある。
だけど、少なくとも、今は来なかった。
アリスが俺の横で、小さく息を吐いた。
「……隆太郎、さっきね、ちょっと怖かった。でも、花火見てたら、怖いのが遠くなった」
「……良かった」
「うん。隆太郎が、ちゃんと前に立ってくれたから」
前に立った。そう言われると、俺は複雑な気持ちになる。守ることは大事だ。でも、アリス自身も立ち上がった。怖いって言った。断った。俺はそれを忘れたくない。
「アリスも、ちゃんと断った。あれ、すごかった」
「……すごくない。震えた」
「震えてても、言った。それがすごい」
アリスは少しだけ笑って、握った手に力を込めてきた。
祭りの出口に近づいた時、ふいにスマホが震えた。俺じゃない。アリスの方だ。浴衣の袖の内側から、微かな振動音が伝わってくる。
アリスの顔色が変わった。
「……また?」
俺が聞くと、アリスは小さく頷いて、スマホを取り出しかけて、止めた。
「見ない」
きっぱり言った。
「……うん。見なくていい」
俺も頷いた。ここで開けば、また棘が刺さる。祭りの余韻に、影を混ぜる必要はない。
けれど俺は、アリスの袖口の向こうで鳴り続けた振動を、耳よりも肌で感じていた。
この夏は、きっと簡単じゃない。
楽しい時間のすぐ隣に、意図の分からない影がいる。
俺はアリスの手を離さないまま、夜道を歩いた。提灯の光が遠ざかり、街灯の白い光に変わる。現実が戻ってくる。
それでも、アリスが小さく笑って言った。
「ねえ、隆太郎。来年も、行けるかな。夏祭り」
来年。
未来の単語が、胸に刺さる。
俺は一瞬だけ息を止めた。怖さが浮かぶ。でも、俺はそれに負けたくない。
「行ける。行こう」
俺がそう言うと、アリスは安心したように頷いた。
「うん。約束」
その約束が、俺の中で重くて、温かかった。
花火の余韻がまだ残る夜空の下で、俺はもう一度心に決めた。
見落とさない。
近づけない。
そして、楽しむべきものは、ちゃんと楽しむ。
夏は、まだ続く。
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