楽しい夏祭り
スマホの画面を閉じたまま、俺はしばらく動けなかった。
蝉の声が窓の外で暴れている。夏の昼の音は、どうしてこうも遠慮がないんだろう。こっちの心臓の鼓動や、頭の中のざわつきまでかき消そうとするみたいに、ひたすらに鳴く。
テーブルの向かいで、アリスが指先を組んで俯いていた。金髪の隙間から覗く青い瞳が、少しだけ揺れている。怖い、というより、困っている顔だ。彼女は誰かを傷つけたくなくて、でも自分の境界線は守りたい。その間でいつも逡巡する。
「……開かないで正解だよな」
俺が言うと、アリスは小さく頷いた。
「うん。だって、知らないのに……なんで連絡先、分かったんだろ」
「俺もそれが一番気持ち悪い」
自分の声が少し低くなったのが分かった。冷静に、冷静に、と言い聞かせても、胸の奥の棘が抜けない。あの田村の目。俺の存在を“邪魔”として認識した瞬間の空気。それが、今になって線で繋がっていく。
「アリス。これは、無視でいい。返さなくていい」
「……うん」
「もしまた来たら、俺に言え。隠すな」
言い方が強かったかもしれない。けど、ここは譲れなかった。アリスは一瞬だけ目を見開いて、それから、少しだけ笑った。
「隠さない。隆太郎に言う」
その返事が、俺の胸を少し軽くした。
とはいえ、夏祭りは来る。楽しみにしていた時間だ。影を気にして、こっちが先に壊れるのは違う。俺はスマホを机に置いて、深く息を吐いた。
「……今日は、浴衣見に行くんだろ」
「うん。行きたい」
「じゃあ行く。気分変えよう」
アリスは小さく「うん」と言って、立ち上がった。肩の力がまだ少し抜けていないのが、背中から伝わってくる。それでも、前を向こうとしている。俺も、それに合わせて歩き出すしかない。
※ ※ ※
浴衣を扱っている店は、駅前のショッピングモールに入っていた。冷房の効いた通路を歩くと、外の熱が嘘みたいに引いていく。けれど、代わりに胸の内側のざわざわが目立ってしまうから、涼しいのも一長一短だ。
店先には色とりどりの浴衣が吊るされていて、布の波がゆっくり揺れていた。藍色、薄桃、白地に花柄、金魚、朝顔。夏の記号がそのまま布になっている。
アリスは入口に立った瞬間、目を輝かせた。
「わあ……いっぱい」
「選ぶの大変そうだな」
「大変だけど、楽しい」
そう言って、アリスは迷いなく奥へ進む。棚の前で立ち止まって一枚手に取り、布を指先で撫でる。柄を目で追って、鏡に当ててみる。まるで宝探しみたいな動きだ。
俺は少し離れたところからそれを見ていた。浴衣って、普段着よりずっと“個人”が出る。似合う色、似合う柄、見たい自分、見られたい自分。そういうものが透ける気がした。
「隆太郎、これどう?」
アリスが一枚の浴衣を掲げた。白地に青い金魚が泳ぐ柄。涼しげで、彼女の瞳の色と重なる。
「……似合いそう」
「ほんと? じゃあ、これ、試着していい?」
「ああ」
試着室に入っていく背中を見ながら、俺は妙に落ち着かなくなった。夏祭り。浴衣。花火。そういう“恋人っぽいイベント”が、俺たちにはすごく眩しい。眩しすぎて、壊れやすいガラス細工みたいにも思える。
数分後、カーテンが開いて、アリスが出てきた。
息が止まった。
浴衣の白が肌を柔らかく見せて、青い金魚が腰のあたりで泳いでいる。帯は淡い紺色で、全体が涼しい色でまとまっていた。金髪が浴衣の和の雰囲気とぶつかるかと思ったのに、逆だった。異国感があるはずなのに、どこか“朝日”に戻るみたいな不思議な馴染み方をする。
「……どう?」
アリスが少し照れた顔で聞く。
「……やばい。すげえ、いい」
「やばいってなに」
「語彙が死んだ」
俺が本気でそう言うと、アリスは吹き出した。笑うと、袖がふわっと揺れて、そのたびに金魚が泳ぐみたいに見える。
「じゃあ、これにする?」
「俺は賛成」
「ふふ。隆太郎が賛成なら、これ」
即決だった。俺の意見がそんなに効くのか、と少し驚いたけど、嬉しくもあった。アリスは帯の色をもう一つだけ試して、それでも最初の淡紺に戻って、購入を決めた。
会計を済ませる頃には、胸のざわつきが少し薄れていた。影が消えたわけじゃない。でも、楽しみがちゃんと現実になって、俺の手の中に戻ってきた感じがした。
※ ※ ※
夏祭り当日。
夕方になると空気が少しだけ柔らかくなる。日中の熱が地面からじわじわ立ち上っているのに、風が混ざるだけで世界が違って見える。俺は自室で浴衣に着替え、鏡の前で帯がずれないか確認した。男の浴衣って簡単そうに見えて、案外落ち着かない。襟元の合わせが正しいか、丈が短すぎないか、やたら気になる。
リビングに降りると、ちょうどアリスが出てきたところだった。
白地に青い金魚。昼に見たのと同じなのに、夕方の光に当たると、さらに柔らかく見えた。髪は軽くまとめて、うなじが少しだけ覗いている。そこに視線が行ってしまって、俺は慌てて目を逸らした。
「隆太郎、どう?」
「……最高」
「さっきより語彙ある?」
「ない」
「ふふ。じゃあ合格」
アリスが嬉しそうに袖を揺らす。俺の胸がまた跳ねて、心臓が忙しい。
そして、リビングのソファに座っていた百合子さんが、穏やかに笑った。
「二人とも、よく似合ってる。アリスちゃん、本当に綺麗ね」
アリスは少し照れて、でも嬉しそうに頷く。
「百合子さん、ありがとう。百合子さんも一緒に行こうよ」
「私は今日はお留守番。二人の時間、大事にしておいで」
「……うん」
百合子さんの言葉は優しいのに、妙に背筋が伸びた。“二人の時間”。守るべきものが明確になると、嬉しさと同じくらい責任も重くなる。
家を出る前に、アリスはスマホをポケットに入れた。その動きが少しだけ慎重だったのを、俺は見逃さなかった。俺も自分のスマホを握り直す。何かあったら、すぐ動けるように。
会場の神社に近づくにつれて、音と匂いが濃くなる。太鼓の音。屋台の呼び声。焼きそばのソースの匂い、甘い綿あめ、焼きとうもろこし。浴衣が擦れる布の音が、人混みの中でさざ波みたいに重なっていく。
「……すごい、人」
アリスが小声で言った。
「はぐれるなよ」
「うん」
俺は自然にアリスの手を取った。指先が少し冷たかった。緊張しているのか、嬉しさで落ち着かないのか。たぶん両方だ。
屋台が連なって、提灯が赤く灯る。夕闇に浮かぶ光は、現実を少しだけ夢に寄せる。俺はその雰囲気に飲まれないように、足元と周囲を意識した。
「金魚すくい、やりたい」
「お前、得意だったっけ」
「昔、朝日だった頃、得意だった」
アリスが悪戯っぽく言う。俺はその言い方に、胸がじんわり温かくなった。
金魚すくいの屋台の前に並ぶと、水面に提灯の光が揺れていた。丸い金魚鉢の中で赤や黒の金魚がひらひら泳ぐ。紙のポイが並べられていて、薄さが頼りない。
「隆太郎、見てて。私、取る」
「破る未来しか見えない」
「それ、隆太郎の話でしょ」
俺が口を開く前に、アリスがポイを水に入れた。動きが丁寧で、速さがない。金魚を追うんじゃなく、金魚が“入ってくる”のを待つ。水面が揺れて、紙が少しだけ沈む。
そして、赤い金魚がふわっとポイの上に乗った。
「……ほら」
アリスが静かに言う。
俺は思わず声を漏らしそうになって、慌てて喉を押さえた。屋台のおじさんが「上手いねえ」と笑う。アリスは二匹、三匹と続けてすくっていく。紙が破れない。手首の角度と水の抵抗を計算しているみたいだ。
「すげえ……」
「でしょ」
誇らしげに言って、アリスが俺にポイを差し出した。
「隆太郎も」
「いや、俺は——」
「一匹でいいから。思い出作るの」
そう言われたら、逃げられない。俺は渋々受け取って、水に入れた。紙がすぐにふにゃっとする。金魚が逃げる。焦る。焦った瞬間、破れた。
「……な?」
「うん、隆太郎だ」
アリスが笑った。俺も苦笑いするしかない。恥ずかしいのに、なぜか心は軽かった。失敗しても笑ってくれる相手がいるだけで、世界は優しくなる。
次は射的に向かった。コルク銃を握ると、子どもの頃の感覚が蘇る。アリスは景品の中から小さな猫のマスコットを指差した。
「あれ、欲しい」
「任せろ」
変に格好つけた。俺は狙いを定めて引き金を引く。弾はふわっと飛んで、的の手前で落ちた。
「……任せろ?」
「今のは試射」
二発目も微妙だった。三発目でようやく当たったけど、倒れない。屋台のお兄さんが苦笑いしながら見ている。アリスは堪えきれず、袖で口を押さえて笑った。
「隆太郎、かわいい」
「褒め方が違う」
俺がムキになると、アリスは「じゃあ、私がやる」と銃を受け取った。構えが意外と様になっている。狙いを定めて、ぱん、と乾いた音。倒れた。
「……え」
俺が固まると、屋台のお兄さんが「すごい」と景品を手渡した。アリスは猫のマスコットを受け取って、俺に差し出す。
「はい。隆太郎にあげる」
「お前が欲しいって言ったんだろ」
「欲しかったのは、“一緒に取る時間”。猫は隆太郎に持っててほしい」
その言葉が、胸の奥をまっすぐ打った。俺は何も言えなくなって、ただ頷いて受け取った。掌の中のマスコットが、提灯の光で少しだけ赤く見えた。
楽しい。
本当に楽しい。
なのに——。
人混みの隙間。屋台の影。提灯の明かりが届かない場所で、誰かの視線が一瞬だけ刺さった気がした。
俺は反射的に顔を上げる。
遠く、屋台と屋台の間の暗がりに、制服姿の男が見えた気がした。人の流れに紛れて、輪郭がすぐ曖昧になる。それでも、あの立ち方。こちらを見ているような角度。
――田村?
確信はない。でも、胸の棘がはっきり疼いた。
「隆太郎?」
アリスが心配そうに俺を見上げる。
「……何でもない。行こう」
俺はアリスの手を強く握り直した。強くしすぎないように気をつけながら、それでも離れないように。俺は歩き出し、アリスもついてくる。
太鼓の音が遠くで鳴って、祭りの熱が空気を揺らす。
楽しいはずの夜の中に、薄い影が混ざっている。
それに気づいた瞬間から、俺は“見落とさない”と決めた。
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