謎の緊迫感
図書館を出た瞬間、空気が「夏」に戻ってきた。
冷房の効いた室内で忘れていた熱が、皮膚の表面に一気に貼りつく。日差しは容赦なく、アスファルトが白く反射して眩しい。蝉の声が、さっきまでの静けさを嘲笑うみたいに大きかった。
「……暑い」
俺が呟くと、隣を歩くアリスが肩をすくめた。
「夏だもん」
「夏って、こんなに攻撃的だったっけ」
「隆太郎が図書館に慣れちゃったんだよ」
そう言ってアリスは笑った。さっきまでの出来事が嘘みたいに、いつもの柔らかい空気に戻っている。けれど俺の胸の奥には、まだ小さな棘が残っていた。
田村。
たった数分の会話。それだけで「嫌な予感」とまで言うのは過剰かもしれない。でも、あの時の田村の目。俺を認識した瞬間の間。『彼氏?』と聞いてきた時の探るような声。全部が、薄い膜みたいに頭に貼りついている。
アリスは俺の手を自然に握ってきた。外では、こういう接触が増えた。最初は照れたけど、今は落ち着く。
「……隆太郎、さっきのこと、まだ考えてる?」
「分かるのかよ」
「分かる。隆太郎、黙るとき、目が遠くなる」
「……お前もよく見てるな」
「だって、好きだから」
即答だった。反射みたいに言われて、俺は歩きながら固まった。脳が一瞬停止して、暑さのせいにしたいくらい顔が熱くなる。
「……そういうの、さらっと言うな」
「だめ?」
「だめじゃないけど……心臓に悪い」
「ふふ」
アリスは楽しそうに笑った。その無邪気さが、俺の緊張を少しだけ溶かす。それでも、話題を変えずにいられなかった。
「田村のことなんだけどさ」
「うん」
「……ああいうの、これから増えるかもしれない」
アリスは目を瞬かせた。俺の言葉の意図を測るみたいに。
「増える?」
「夏休みって、外に出る機会が多いだろ。祭りとか、プールとか。知らないやつに話しかけられたり」
「……私、目立つから?」
アリスは自嘲気味に笑った。金髪と青い瞳。留学生という設定。本人が意識していなくても、視線は集まる。
「目立つし、優しいし。だから……変なのが寄ってくるかもしれないって」
言い方が悪いと分かっていた。けど、俺の中の警戒心はすでに形になっていた。
アリスは少しだけ唇を結んで、歩幅を小さくした。
「隆太郎、心配してくれてるんだね」
「……まあ」
「大丈夫だよ。私、ちゃんと断れる」
その言葉は頼もしいはずなのに、俺の胸は軽くならなかった。アリスは断れる。でも「断ることに慣れてない優しさ」も持っている。相手がしつこかった時、どこまで強く出られるか。俺は、それを想像すると苦しくなる。
「……無理なら、俺が言う」
「うん。ありがとう」
アリスが握った手に、少し力を込めた。その温度が、俺の中のざらつきをゆっくり丸めていく。
駅前のアイス屋に入ると、冷たい空気が肌を撫でた。ショーケースの中に色とりどりのアイスが並んでいる。アリスは迷いもせず、バニラとストロベリーのダブルを選ぶ。俺はチョコを選んだ。
店の外のベンチに座って、アイスを食べる。
甘さが舌の上で溶けていくと、頭の中の余計な雑音が少し遠のく。アリスはスプーンで一口食べるたびに、小さく「おいしい」と呟いていた。幸せの表現が素直すぎて、こっちが照れる。
「隆太郎、夏祭り、いつあるか調べた?」
「まだ」
「じゃあ帰ったら調べよ。浴衣も見に行きたい」
浴衣。その単語だけで、脳内にアリスの姿が浮かぶ。金髪に浴衣は似合うのか、とか、帯の色は何がいいのか、とか。俺は男のくせに変なところに想像が広がってしまう。
「浴衣、買うのか? レンタルでもいいだろ」
「うーん……買うのも、いいかも。だって、これからも着たい」
“これからも”。未来を当たり前に含む言い方。それが嬉しくて、怖い。幸せを確信した瞬間に、それを失う可能性を同時に思い出してしまう自分が嫌だった。
アリスが俺の表情を見て、スプーンを止めた。
「隆太郎、また『遠く』になった」
「……悪い」
「謝らないで。私、分かってるよ」
分かってる、という言葉の重さに、俺は息を飲んだ。アリスは、俺が何に怯えているかを知っている。自分が死んだことも、俺がそれを見送ったことも、全部。
だからこそ、無理に明るくもしない。俺の不安を否定もしない。ただ、隣にいる。
「隆太郎」
「ん」
「夏祭り、楽しもうね。怖いのがあっても、楽しむのは悪いことじゃない」
そう言われて、胸の奥が少し救われた気がした。俺は小さく頷いて、アイスを一口食べた。
「……ああ。楽しむ」
その言葉を口にするだけで、少しだけ未来が現実になる。
※ ※ ※
家に帰ると、母さんが台所で夕飯の下ごしらえをしていた。アリスが「ただいま」と元気よく言い、母さんも「おかえり」と笑う。短いやりとりだけで、空気が温かくなる。
「図書館どうだった?」
母さんが俺に聞く。
「まあ……普通」
「ちゃんと勉強できた?」
「……できた」
母さんが満足そうに頷いた。
アリスは手を洗ってから、母さんの横に立った。
「百合子さん、今日、何作るの?」
「今日は冷しゃぶよ。暑いからね」
「わあ、好き。私、野菜切る」
「助かるわ」
台所に二人が並ぶ。包丁の音。水の音。冷蔵庫が開く音。そんな生活音が、俺の心を落ち着かせる。
俺はリビングのテーブルに座って、スマホで地域のイベント情報を調べた。夏祭り。市のホームページや商店街のSNS。いくつか候補が出てくる。
「……八月の第一土曜か」
呟くと、台所からアリスが顔を出した。
「いつ?」
「来週の土曜。夜、花火もあるらしい」
「……ほんと?」
アリスの目が、ぱっと輝いた。
「浴衣、間に合う?」
「間に合わせるだろ。明日でも見に行くか」
「行く!」
アリスは台所に戻りながら、鼻歌まで歌い始めた。そのテンションの上がり方が可笑しくて、俺は口元が緩む。
——こういうのが、俺の夏休みなんだ。
その夜、夕飯を食べながら、夏祭りの話をした。恵さんと健一さんにも連絡するか、という話になって、母さんが「一緒に行けたらいいわね」と言った。
アリスは一瞬だけ目を潤ませて、でもすぐに笑った。
「うん。一緒に行けたら、嬉しい」
俺は箸を止めずに頷いた。嬉しい。俺も嬉しい。
ただ、心の奥で、またあの小さな棘が動いた。
図書館で会った田村の顔が、ふと浮かぶ。
――また学校ででも。
田村はそう言った。夏休みの間、学校で会う機会は減る。なのに、あいつは「図書館で」をわざわざ口にした。まるで、その先の接点を当然のように思っているみたいに。
俺は嫌な想像を振り払うように、箸を進めた。
今は、祭りのことを考えればいい。
浴衣のアリスを、花火の下で見ればいい。
そう思ったのに――
翌日、昼前にスマホが震えた。
画面に表示されたのは、見慣れない名前。
『田村』
連絡先に登録した覚えはない。なのに、通知が出ている。メッセージアプリの「おすすめ」経由か、どこかで俺かアリスの情報を辿ったのか。
指先が冷たくなった。
「……なんだよ、これ」
俺が画面を見つめていると、背後からアリスが覗き込んだ。
「……田村先輩?」
「お前、教えたのか」
「教えてない。だって、知らない……」
アリスの声が少し震えた。
俺はメッセージを開かずに、ただ画面を見つめた。通知の一行だけが見える。
『昨日はありがとう。白金さん、今度——』
途中で切れている。続きは開かないと見えない。
俺は深く息を吸って、アリスを見た。
「……これ、どうする」
アリスは唇を噛んで、小さく首を振った。
「……開きたくない」
その答えで、十分だった。
俺はスマホの画面を閉じた。指先に力が入る。胸の奥で、さっきまで丸くなりかけていた棘が、また尖っていく。
夏は、まだ始まったばかりなのに。
もう、影が伸びてきている気がした。
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