図書館での邂逅
夏休みが始まって、最初の一週間は、案の定というか――計画通りには進まなかった。
いや、進まなかったというより、予定が「思った以上に現実に刺さる」ことを知った。ノートに書いた文字は軽い。だけど、実行するのは俺の体と頭だ。特に数学。あれは俺の逃げ道を容赦なく塞いでくる。
それでも、アリスは淡々と、でも楽しそうに毎日を組み立てていった。
朝は一緒に朝食を食べ、午前中に宿題を進め、午後は太刀川家か図書館。夕方には帰ってきて、母さんと台所に立つアリスの背中を眺める。夜は、俺が自室で問題集を開いていると、アリスが「進んだ?」と聞きに来る。
監督というより、伴走者だ。俺のペースを知ってて、甘やかしすぎず、突き放しすぎず。こういうところが、朝日だと思う。俺が怠けると、叱らない代わりに「一緒にやろう」と言う。逃げ道を塞がれるほうが、よっぽど効く。
その日の朝も、アリスはテーブルの上にノートを広げていた。
「今日は図書館の日だよ。三回目」
「分かってる……」
俺は欠伸を噛み殺しながら答えた。窓の外は眩しいほど晴れている。蝉が容赦なく鳴いていて、外出したい気持ちを煽ってくるのに、行き先は図書館だ。涼しいのはありがたいけど、夏休みのテンションとは噛み合わない。
アリスは俺の顔を覗き込んで、ふっと笑った。
「終わったら、アイス。約束」
「……それ、先に言えよ」
「先に言ったら、隆太郎、頑張らないかも」
「俺の信用、低くない?」
「ううん。隆太郎は頑張る。でも、頑張る『理由』があると、もっと頑張る」
さらっと言うから、俺は一瞬、言葉に詰まった。理由。俺の理由。俺の夏休みの中心に、アリスがいる。そういう事実を、こうして軽く突きつけてくる。
「……行くぞ」
「うん!」
母さんに「気をつけてね」と送り出され、俺とアリスは家を出た。駅まで歩く道は、アスファルトが熱を反射して眩しい。コンビニの前を通ると、冷気が恋しくなる。
図書館は、家から電車で二駅。駅前の商店街を抜けて、少し静かな通りに入ったところにある。白い外壁の建物で、外から見ると涼しげなのに、入り口に立った瞬間、別世界みたいに空気が変わる。
冷房の冷たさと、本の匂い。
それだけで、背筋が少し伸びる気がした。
俺たちは閲覧席の端のほうに座った。いつもの位置。アリスは鞄から参考書とノートを取り出し、俺の前に数学の問題集を置いた。
「今日はここまで。昨日の続き」
「分かってる……」
言いながらページを開く。文字と数字の密集が、俺の脳を萎えさせる。でも、隣にアリスがいると、不思議と「やるしかない」に変わる。
しばらくは無言だった。鉛筆の音とページをめくる音だけが、静かな空間に混ざる。たまに誰かの足音、椅子を引く音。それもすぐに吸い込まれていく。
俺は問題を解きながら、頭の片隅でアリスの存在を感じていた。視界の端に揺れる金髪。真剣な横顔。たまに唇を噛む癖。そういう細部が、集中の妨げになるどころか、逆に落ち着きをくれるのが不思議だった。
――幸せって、こういう静けさの中にもあるんだな。
ふと、そう思った瞬間だった。
「……白金さん?」
少し離れたところから、男の声がした。
俺は反射的に顔を上げた。アリスも同時に顔を上げる。
声の主は、制服姿の男子だった。うちの学校の生徒……いや、違う。ネクタイの色が違う。学年も、俺たちより上に見える。背は俺より少し高くて、顔立ちはごく普通。だけど、視線の置き方が妙に真っ直ぐで、落ち着かない。
アリスが一拍遅れて、首を傾げる。
「……えっと」
「やっぱり白金さんだ。二年の……」
男子はそう言って、少しだけ笑った。その笑い方に、俺は「距離の詰め方」を感じた。初対面なのに、知っている前提で話を進めるタイプ。悪意とは限らない。でも、違和感はある。
アリスは困ったように笑って、視線を俺に一瞬だけ投げた。助けを求めるというより、「どうする?」と確認するみたいに。
俺は椅子を少し前に出して立ち上がった。図書館では声を張れない。だからこそ、体の位置で意思を示す。
「……同じ学校だけど、学年違うよな。三年?」
「うん。三年の田村。覚えてない? 前に図書館で……」
田村、と名乗った男子は、俺を見て少し驚いた顔をした。俺の存在が想定外だったみたいに。アリスに話しかけることだけが目的で、俺は風景の一部だと思っていた、そんな目。
その瞬間、俺の中に小さな棘が刺さった。
「図書館で、会ったか?」
「うん。白金さん、留学生だって聞いたから。すごいなって」
田村はアリスのほうを向いて言った。俺の返事はほぼ無視。そこに、俺はさらに苛立ちを覚える。でも、ここは図書館だ。感情で動くのは最悪だ。
アリスは小さく頷いた。
「えっと……こんにちは」
「こんにちは。ここで勉強してるんだ?」
「うん。宿題とか」
アリスの返答は丁寧で、柔らかい。たぶん、いつもの彼女の「人当たりの良さ」だ。誰に対しても壁を作らない。そこが魅力であり、時に危うさにもなる。
田村は嬉しそうに目を細めた。
「俺も、受験あるからさ。ここ、よく来るんだ。白金さん、英語とか得意?」
「……うん、まあ」
「やっぱり。すごいな。俺、英語苦手でさ。良かったら今度、ちょっと教えてくれない?」
その言葉が出た瞬間、俺の中で「警戒」がはっきり形になった。
今度、教えて。軽い誘い。だけど、言い方がもう、距離を縮める前提になっている。しかも、アリスが断りづらいタイプだと分かっていて言っているように見える。
アリスは困ったように目を泳がせた。視線が俺に寄る。
俺は静かに息を吐き、表情を崩さないようにした。
「悪いけど、アリスは今日は俺と勉強してる」
低い声で言った。図書館だから抑えているけど、言葉の芯は外さない。
田村の眉が少しだけ動いた。
「……あ、そっか。宮本だっけ?」
「宮本。二年」
「へぇ。彼氏?」
その言い方が、冗談っぽいのに、探りを入れてくる感じがした。俺は即答できた。迷う理由がない。
「そうだけど」
田村は一瞬、口元の笑みが止まった。ほんの短い間。だけど俺は見逃さなかった。驚きか、嫉妬か、あるいは想定外の情報を処理しているだけか。
アリスが小さく頷いて、田村を見た。
「うん。隆太郎、彼氏」
その一言が、胸の奥に温かい火を灯した。照れくさい。でも、嬉しい。俺はそれを表情に出さないようにして、手元の問題集に視線を落とした。
田村はすぐに笑い直した。
「そっかそっか。ごめん、邪魔した」
「うん」
アリスが小さく笑って答える。
「じゃあ、また学校ででも。……白金さん、頑張ってね」
「うん。ありがとう」
田村は去っていった。足音が遠ざかり、静けさが戻る。
俺は椅子に座り直して、鉛筆を持った。けれど、さっきまでの問題の数字が、少しぼやけて見える。集中を乱されたというより、胸の奥に残ったざらつきが気になった。
アリスが小声で言う。
「……隆太郎、怒ってる?」
「怒ってない」
「ほんと?」
「……ちょっとだけ、嫌だった」
正直に言うと、アリスの目が少しだけ柔らかくなった。
「ごめん。私、知らない人でも、つい普通に話しちゃう」
「お前が悪いわけじゃない」
俺はそう言って、鉛筆の先で問題集をトントン叩いた。
「でも、ああいうの、たぶん……」
「……勘違いしやすい?」
アリスが先に言った。自覚があるのが、逆に切ない。
「うん。お前、優しいから」
アリスは少しだけ頬を赤くして、視線をノートに戻した。
「でも、隆太郎が言ってくれたの、嬉しかった」
「……何を」
「『彼氏』って、すぐ言ってくれた」
俺は喉の奥が熱くなった。図書館の冷房が効いているのに、変な汗が出そうだ。
「当たり前だろ」
「当たり前、って言えるの、すごい」
アリスは小さく笑った。その笑いが、俺のざらつきを少し削ってくれる。
俺は問題集に視線を戻した。
「……よし。続きやるぞ。アイスのために」
「うん。アイスのために」
二人で笑い合って、また静かな勉強の時間に戻る。
だけど、俺の中では、田村という名前が、砂粒みたいに残っていた。
何でもない出会いのはずなのに。
夏休みの空気の中で、ほんの少しだけ、違う匂いが混ざった気がした。
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