夏休みの始まり
海から帰ってきてから、数日が経った。
あの一日は、写真の中に閉じ込めたはずなのに、ふとした瞬間に砂の感触や潮の匂いが蘇る。俺の肩に寄りかかったアリスの重さ。健一さんの「また来ような」という低い声。恵さんと母さんが同時に笑った場面。そういう断片が、夏の熱気と一緒に心の奥で揺れていた。
そして、夏休みが始まった。
終業式の朝、学校へ向かう道はいつもより静かだった。制服姿の生徒はいるのに、空気がどこか軽い。皆が「これから」へ意識を向けていて、教室の窓から見える空も、やけに青く見えた。
体育館に並んで、校長の話を聞く。毎年同じような内容だ。生活指導の先生の「夜遅くまで出歩くな」「水の事故に気をつけろ」「SNSでのトラブルに注意」も、テンプレみたいに流れていく。それでも俺は、今年だけは妙に真面目に聞いてしまった。
――守ると決めたから。
その対象が「夏休みのルール」まで含むのかは分からないけど、少なくとも俺の中の姿勢は変わった。アリスがいる夏。アリスが笑う夏。何かが起きないように気をつけたい。楽しいだけで終わってほしい。
終業式が終わり、教室に戻ると、担任が通知表を配った。
「宮本、渡すぞ」
「はい」
紙の束を受け取って席に戻る。点数の並びを見て、俺は思わず眉をひそめた。
……微妙。
悪くはない。けど、良くもない。特に数学が、逃げたくなる数字を出している。中間で気を抜いたのが、そのまま表に刻まれていた。
隣の席の友人が覗き込んできて、「お、普通じゃん」と笑った。俺も曖昧に笑い返すしかなかった。
帰り道、昇降口でアリスと合流する。
アリスは同じクラスだから、俺と同じタイミングで出てくる。だけど今日は、やけに足取りが軽かった。制服のスカートが小さく揺れて、表情が明るい。
「隆太郎、夏休み!」
「おう。ついに来たな」
俺が言うと、アリスは両手をぎゅっと握って、胸の前で小さくガッツポーズを作った。
「いっぱい、やりたいことある」
「俺もだ」
口ではそう言いながら、俺は通知表の数学の数字を思い出して、内心でため息をついた。
アリスは俺の顔を覗き込むようにして、少しだけ首を傾げた。
「……でも、隆太郎。今、ちょっとだけ『うっ』って顔した」
「してねえよ」
「してた。ほら、眉の間に線があった」
「細かいな、お前」
アリスがくすっと笑う。その笑い方に、俺の緊張が少しほどけた。
自宅に帰り、ランドセルのない夏の午後を味わうみたいに、俺はリビングのソファに沈み込んだ。クーラーの冷気が肌に心地いい。窓の外では蝉が鳴いていて、夏休みが「始まった」音みたいに聞こえた。
母さんはキッチンでお茶を用意している。アリスは制服を着替えに二階へ上がり、すぐに部屋着で戻ってきた。薄いTシャツに短パン。髪を結んでいて、海の時よりずっと「家」の空気だ。
「隆太郎、通知表見せて」
「なんでだよ」
「夏休みの計画立てるのに必要」
「……計画って」
アリスはテーブルにノートとペンを置き、真面目な顔で座った。こういう時のアリスは、料理をするときと同じくらい手際がいい。目の前のことを「ちゃんと進める」力がある。
「夏休みってさ、気づいたら終わってるでしょ。だから最初に決める」
「決める、って……何を」
「やりたいことと、やるべきこと。両方」
母さんがお茶を運んできて、二人の間に置いた。湯気が立ち上る麦茶の匂いが、妙に現実的で落ち着く。
「二人とも、勉強もちゃんとね」
母さんが笑いながら言う。
アリスは「もちろん」と即答した。俺は「うん……」と、少しだけ語尾が弱くなる。
アリスが俺の通知表をひょいと奪い取った。
「ちょ、待て」
「見るだけ。……ふむふむ」
アリスの青い瞳が、数字を追う。途中で、ぴたりと止まった。
「……数学」
「見るな」
「隆太郎、ここ、伸ばせる」
断言された。しかも、励ますというより、戦略を語る声だ。
「伸ばせるって言われても、現実がこれだろ」
「現実は、今から変えられる」
アリスはペンを持ち、ノートに大きく書いた。
『夏休み計画』
その文字を見た瞬間、俺は何だか逃げられなくなった気がした。
「まず、やりたいこと!」
アリスが勢いよく言う。
「……えっと」
頭の中に浮かぶのは、海みたいな大きな思い出じゃない。もっと小さい、でも確かな願いだった。
アリスと、普通に過ごす日々。
朝起きて、顔を見て、笑って。
手を繋いで、どこかへ出かけて。
夜、家に帰って、同じ屋根の下で眠る。
それを口に出すのは照れくさくて、俺は言葉を選ぶ。
「……映画とか。祭りとか。あと、プール、行きたい」
「うんうん!」
アリスは嬉しそうに頷きながら、ノートに書き込んでいく。
「夏祭りは絶対。浴衣も着る。隆太郎も」
「俺も?」
「もちろん。手を繋いで歩くの」
さらっと言うから、俺の胸が跳ねる。俺は麦茶を一口飲んで誤魔化した。冷たいはずなのに、喉が熱い。
「あと、海の写真、現像したい」
「今どき現像って言うんだな」
「スマホにあるだけじゃ、もったいない」
アリスは言い切った。確かに、あの一日の写真を紙で残すのは意味がある気がした。失われた時間を、二度と消えない形にするみたいで。
「それから……図書館、行きたい」
アリスが急に真面目な顔になった。
「勉強?」
「うん。涼しいし、集中できる。隆太郎の数学も、そこでやる」
「うっ……」
さっき終業式で感じた「夏休みの軽さ」が、少しだけ重くなる。でも、悪い重さじゃない。背中を押される感じに近い。
アリスはノートを俺の方へ傾けて見せた。箇条書きが、すでにいくつか並んでいる。
・夏祭り(浴衣)
・プール
・映画
・写真プリント
・図書館(勉強)
「ね、次。『やるべきこと』」
アリスはペン先で、別の欄をトントンと叩いた。
「宿題」
「うん」
「……部活の連絡とか」
「うん」
「あと、私の家に行く日も決める」
その言葉に、俺の胸が少し温かくなる。夏休みに入っても、アリスは両親のところへ通う。宮本家と太刀川家、その二つの「家」を行き来しながら、少しずつ新しい生活を形にしていく。
俺も一緒に行く日が多い。健一さんも恵さんも、俺がいることを自然に受け入れてくれている。
……それが、ありがたい。
「隆太郎、曜日で決めよう」
「曜日?」
「そう。例えば、週に何回、太刀川家。週に何回、図書館。あと、デートの日」
デート、という単語がノートの上に書かれるだけで、現実味が増す。俺は居住まいを正した。
「……デートの日、って」
「必要。楽しみがあると頑張れる」
アリスは当たり前みたいに言う。俺は、その「当たり前」をまだうまく受け止められない。恋人としての日常が、奇跡の上に成り立ってるって知ってるから。
だからこそ、ちゃんと大事にしたい。
「じゃあ……」
俺は指でカレンダーアプリを開き、夏休みの期間を確認した。真っ白な日付の連続が、どこまでも続いて見える。
「まず、図書館は週二回くらいでいいか」
「三回」
「多い」
「隆太郎の数学が、泣いてる」
「泣いてねえよ」
「泣いてる。助けてって」
アリスの真剣な顔が、妙に可笑しくて、俺は吹き出した。アリスも笑って、ノートに『図書館:週3』と書いた。
「太刀川家は……」
俺が言いかけると、アリスの表情が少しだけ柔らかくなった。
「毎日でも行きたいけど、隆太郎もいるし、百合子さんもいるし……バランス、難しいね」
その言葉に、俺は息を飲む。アリスは「欲しい」を素直に言う。でも同時に、周りの人の気持ちも考えている。三ヶ月前の彼女なら、こんな風に大人びた迷い方をしなかったかもしれない。
死んで、転生して、いろんなものを抱えた。
それでも、前に進もうとしてる。
「……週に三回、くらいでどうだ」
俺が言うと、アリスは少し考えてから、頷いた。
「うん。じゃあ、他の日は宮本家で、家のこともする。料理もしたい」
「お前の料理、楽しみ」
「でしょ」
アリスは得意げに笑って、ノートに『太刀川家:週3』と書いた。
母さんがその様子を見て、「二人でちゃんと計画立てて偉いわね」と微笑んだ。俺は照れくさくて、麦茶をまた一口飲んだ。
そして、問題の「デートの日」。
アリスはペンを止めたまま、俺を見た。真剣で、少しだけ期待を含んだ目。
「……隆太郎、どの日がいい?」
俺の心臓が、また跳ねた。日付なんて、ただの数字だ。なのに、選ぶという行為だけで、未来が形になる気がする。
「……土曜とか、日曜がいいんじゃないか。家族も予定あるだろうし」
「うん。でも、たまには平日も欲しい」
「平日?」
「夕方からでもいい。アイス食べに行くとか、散歩とか」
たったそれだけで「デート」になる。俺は頷いた。
「じゃあ、週一はちゃんと出かけて、もう一回は短いのにするか」
アリスの顔がぱっと明るくなる。
「それ! それがいい!」
ノートに『デート:週1(しっかり)+週1(短め)』と書かれた。
その瞬間、俺は胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。夏休みという時間が、ただの休みじゃなくなる。二人で作る「生活」に変わっていく。
俺は、アリスの横顔を見た。
彼女はペンを走らせながら、時々口元を緩める。きっと、頭の中で夏の予定を映像みたいに描いているんだろう。祭りの提灯、浴衣の帯、花火の音。図書館の静けさ。プールの水しぶき。
——それら全部に、俺がいる。
そう思うと、単純に嬉しかった。
ただ、同時に、ほんの小さな不安も湧く。
幸せは、いつも脆い。
俺はそれを、痛いほど知っている。
でも、だからこそ。
脆いなら、丁寧に扱えばいい。落とさないように、両手で抱えればいい。強く握りすぎて壊さないように、慎重に。
俺は、ノートに書かれた計画を見つめた。
「……よし。頑張るか」
「うん。頑張ろう」
アリスが笑って、俺の腕に軽くもたれた。触れた体温が、夏の午後の冷房よりも確かに温かい。
蝉の声が、窓の外で途切れず鳴いている。
その音が、まるで「始まり」を告げる合図みたいに聞こえた。
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