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海への旅立ち

 約束の土曜日が来た。


 朝、六時に目が覚めた。いつもより早い。でも、今日は特別な日だった。家族で海に行く日。アリスにとっては、再会した両親との初めての旅行。俺にとっても、大切な一日になる予感がしていた。


 急いで着替えて、階下に降りると、母さんが既に起きていた。キッチンで、お弁当を作っている。


「おはよう、隆太郎」


「おはよう。もう準備してるんだ」


「ええ。朝日ちゃんの好きなものを詰めようと思って」


 母さんが、嬉しそうに言った。


「恵さんもお弁当作るって言ってたけど、私も作りたくて」


 母さんの手元には、卵焼き、唐揚げ、ウインナー、ブロッコリー。アリスの好物が並んでいた。


「母さん、ありがとう」


「何言ってるの。朝日ちゃんは、私にとっても大事な子なんだから」


 母さんが、優しく笑った。


 しばらくして、アリスが降りてきた。パジャマ姿のまま、寝癖がついた金髪を揺らしながら。


「おはよう……」


 眠そうな声で、アリスが挨拶した。


「おはよう、朝日ちゃん。よく眠れた?」


「はい……というか、興奮して、あんまり眠れませんでした」


 アリスが、照れたように笑った。


「今日、お父さんとお母さんと海に行けるって思ったら、嬉しくて」


「そう。じゃあ、朝ごはん食べて、準備しましょう」


 三人で朝食を食べた。トーストと、スクランブルエッグと、サラダ。いつもと同じ朝食だけど、今日はやけに美味しく感じられた。


 ※ ※ ※


 八時、太刀川家の前に集合した。


 健一さんの車が、既に玄関前に停まっていた。大きなワゴン車。家族旅行のために、わざわざレンタカーを借りたらしい。


「おはよう、隆太郎くん、百合子さん、朝日」


 恵さんが、笑顔で迎えてくれた。


「おはようございます」


 俺と母さんが挨拶した。


「おはよう、お母さん!」


 アリスが、嬉しそうに恵さんに抱きついた。


「おはよう、朝日」


 恵さんが、アリスを抱きしめた。


 健一さんが、荷物を車に積んでいた。クーラーボックス、パラソル、浮き輪。海に行く準備が万端だった。


「隆太郎くん、荷物、手伝ってくれるか」


「はい」


 俺も、荷物を運ぶのを手伝った。アリスと母さんも、それぞれの荷物を持って、車に乗り込んだ。


 座席は、運転席に健一さん、助手席に恵さん。後部座席の真ん中にアリス、その両脇に俺と母さん。アリスが、二人の母親に挟まれる形になった。


「じゃあ、出発するぞ」


 健一さんが、エンジンをかけた。


 車が、ゆっくりと動き出した。


 ※ ※ ※


 高速道路を走る車の中。窓の外には、青い空と、緑の山々が見える。夏の景色が、流れていく。


 アリスは、窓にへばりついて、外を見ていた。


「綺麗……」


 アリスが、呟いた。


「海、まだ?」


「まだよ。あと一時間くらいかかるわ」


 恵さんが、振り返って答えた。


「朝日、昔もよくそう言ってたわね。『海まだ?』って」


「そうだったっけ?」


 アリスが、首を傾げた。


「ええ。五歳の時も、十歳の時も、いつも同じこと聞いてた」


 恵さんが、懐かしそうに笑った。


「せっかちな子だったのよね」


「今も変わってないな」


 健一さんが、ハンドルを握りながら、小さく笑った。


 アリスが、少し恥ずかしそうに笑った。


「でも、楽しみなんだもん」


「分かるわ。私も楽しみよ」


 母さんが、優しく言った。


 車内に、穏やかな空気が流れた。ラジオから、軽快な音楽が流れている。窓を少し開けると、涼しい風が入ってくる。夏の風が、心地よかった。


「ねぇ、お母さん」


 アリスが、恵さんに話しかけた。


「ん?」


「お弁当、何作ったの?」


「それは、着いてからのお楽しみ」


 恵さんが、いたずらっぽく笑った。


「えー、教えてよ」


「ダメ。楽しみは、後に取っておくの」


「むー」


 アリスが、頬を膨らませた。その仕草が、子供っぽくて、可愛かった。恵さんも、健一さんも、母さんも、笑っていた。


 俺も、笑った。こういう、何でもない会話。何でもない時間。それが、この家族にとって、どれだけ大切か。三ヶ月前まで、この時間は失われていた。でも、今は戻ってきた。その奇跡を、みんなが噛みしめている。


 ※ ※ ※


 しばらくして、アリスが眠り始めた。車の揺れが心地よかったのだろう。小さく寝息を立てている。


「朝日、寝ちゃったわね」


 恵さんが、小声で言った。


「昨日、あんまり眠れなかったみたいですから」


 母さんが答えた。


「そう。興奮してたのね」


 恵さんが、優しく笑った。


 アリスの頭が、俺の肩に倒れてきた。俺は、そっと受け止めた。金髪が、俺の肩にかかる。アリスの寝顔が、穏やかだった。


「隆太郎くん」


 健一さんが、バックミラー越しに俺を見た。


「はい」


「朝日を、頼むな」


「はい」


 俺は、短く答えた。


 健一さんが、満足そうに頷いた。


 恵さんが、クスクス笑った。


「あなた、さっきも同じこと言ってたわよ」


「いいだろ。何度でも言う」


 健一さんが、少し照れたように言った。


「朝日は、大事な娘だからな」


 その言葉に、車内が温かい空気に包まれた。


 俺は、眠っているアリスを見下ろした。穏やかな寝顔。幸せそうな表情。この子を、絶対に守る。そう、心に誓った。


 ※ ※ ※


 一時間ほどして、車が減速した。


「着いたぞ」


 健一さんの声で、アリスが目を覚ました。


「ん……?」


 寝ぼけた声で、アリスが顔を上げた。


「海、着いたわよ」


 恵さんが、嬉しそうに言った。


「本当!」


 アリスが、一気に目を覚ました。窓の外を見ると、青い海が広がっていた。


「うわぁ……!」


 アリスの目が、輝いた。


 車が、駐車場に停まった。みんなで降りて、荷物を持った。海岸までは、少し歩く。砂浜が見えてきた。


「海だ!」


 アリスが、走り出した。


「朝日、危ないわよ!」


 恵さんが、慌てて声をかけた。でも、アリスは止まらない。砂浜に着くと、靴を脱いで、裸足で砂の上を走った。


「冷たい! 気持ちいい!」


 アリスが、嬉しそうに叫んだ。


 波が、ゆっくりと打ち寄せている。その音が、心地よかった。空は青く、雲一つない。夏の太陽が、まぶしく輝いている。


「朝日、相変わらずね」


 恵さんが、笑いながら言った。


「ええ。昔と全然変わってない」


 母さんも、笑った。


 健一さんが、パラソルを立て始めた。俺も手伝った。クーラーボックスを置いて、荷物を整理した。


 アリスが、波打ち際で遊んでいる。波が来ると、キャーキャー言いながら逃げる。波が引くと、また近づく。その繰り返し。


「朝日! 日焼け止め塗りなさい!」


 恵さんが、アリスを呼んだ。


「はーい!」


 アリスが、嬉しそうに戻ってきた。


 恵さんが、アリスの背中に日焼け止めを塗った。その光景が、とても自然で、温かかった。母が娘の世話をする。当たり前の光景。でも、この家族にとっては、特別な光景。


「隆太郎も塗りなさい」


 母さんが、俺に日焼け止めを差し出した。


「ああ」


 俺も、日焼け止めを塗った。


 準備ができると、アリスが俺の手を引いた。


「隆太郎、海に入ろう!」


「おう」


 二人で、海に向かった。波が、足を撫でていく。冷たくて、気持ちいい。


「気持ちいいね!」


 アリスが、笑顔で言った。


「ああ」


 俺も、笑った。


 アリスが、水を手ですくって、俺にかけた。


「わ!」


 俺も、やり返した。アリスが、キャーと笑いながら逃げる。俺が追いかける。波の音と、笑い声が、混じり合う。


 パラソルの下で、恵さんと健一さんと母さんが、その光景を見守っていた。三人とも、笑顔だった。


「いい光景ね」


 恵さんが、呟いた。


「ええ。本当に」


 母さんが答えた。


「朝日、幸せそうだ」


 健一さんが、小さく言った。


 その言葉に、二人の母親が頷いた。


 ※ ※ ※


 昼になって、みんなでお弁当を食べた。


 恵さんが作ったお弁当には、アリスの好物が詰まっていた。卵焼き、唐揚げ、おにぎり。母さんが作ったお弁当も、同じようにアリスの好物だった。


「二人とも、朝日のこと、よく分かってるな」


 健一さんが、笑いながら言った。


「当然でしょう」


 恵さんと母さんが、同時に答えた。そして、二人で笑った。


 アリスが、幸せそうに両方のお弁当を食べた。


「美味しい……二人とも、ありがとう」


 アリスの目が、潤んでいた。


「泣かないの。せっかくの楽しい日なんだから」


 恵さんが、優しく言った。


「うん」


 アリスが、涙を拭いた。


 でも、それは悲しい涙じゃなかった。嬉しい涙だった。


 食事の後、健一さんとアリスで砂のお城を作り始めた。


「お父さん、ここはこうした方がいいよ」


「ああ、そうだな」


 二人で、黙々と作業している。その光景を、恵さんと母さんが、カメラで撮っていた。


「いい写真が撮れたわ」


「私も撮ろう」


 俺は、少し離れたところで、その全てを見守っていた。この幸せな時間が、ずっと続けばいい。そう思った。


 夕方、海から上がった。みんなで、シャワーを浴びて、着替えた。


 帰りの車で、アリスはまた眠った。今度は、母さんの肩に頭を預けて。母さんが、優しくアリスの髪を撫でていた。


「今日は、いい一日だったわね」


 恵さんが、静かに言った。


「ええ。本当に」


 母さんが答えた。


「また、来ような。家族で」


 健一さんが、ハンドルを握りながら言った。


「うん。また来よう」


 恵さんが頷いた。


 俺も、心の中で頷いた。また来よう。この幸せな時間を、また。


 車は、夕焼けの中を走っていった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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