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あの日の出来事

 あれから、一週間が経った。


 アリスは、約束通り、ほぼ毎日太刀川家に通っていた。学校が終わると、俺と一緒に太刀川家に向かう。恵さんが嬉しそうに出迎えてくれて、おやつを用意してくれている。アリスは、母と娘として、普通に会話する。「今日ね、学校でこんなことがあって」「テスト、頑張ったよ」「友達とこんな話したの」。そんな、当たり前の会話。でも、その当たり前が、三ヶ月も失われていた。


 健一さんは、相変わらず口数が少なかったが、アリスが来ると、仕事を早めに切り上げて帰ってくるようになった。リビングでアリスの話を聞きながら、時々小さく笑う。その笑顔が、以前より柔らかくなった気がする。


 夕飯は、必ず四人で食べる。恵さんが作った料理を、健一さんと俺とアリスで囲む。恵さんは、アリスの好きな料理を次々と作ってくれた。肉じゃが、ハンバーグ、グラタン、オムライス。どれも、朝日が好きだった料理。アリスは、一つ一つを嬉しそうに食べた。「美味しい」「懐かしい」「やっぱりお母さんの料理が一番」。そんな言葉を言うたびに、恵さんが涙ぐむ。でも、それは悲しい涙じゃない。幸せな涙だ。


 夜、宮本家に帰る時間になると、恵さんと健一さんが玄関まで見送ってくれる。「また明日ね」「気をつけて」「おやすみ、朝日」。毎日繰り返される、当たり前の言葉。でも、その当たり前が、かけがえのないものだった。


 そんな穏やかな日々が続いていた。


 金曜日の夕方。いつものように、俺とアリスは太刀川家にいた。リビングで、恵さんとアリスが話している。俺は、少し離れたソファで本を読んでいた。健一さんは、まだ帰ってきていない。


「ねぇ、朝日」


 恵さんが、少し真剣な顔で言った。


「うん?」


「お父さんがね、警察の人と話してるの」


 その言葉に、アリスの表情が変わった。俺も、本から顔を上げた。


「警察……?」


「うん。あの事故のこと」


 恵さんの声が、少し暗くなった。


「朝日を突き落とした人のこと。まだ、捕まってないの」


 アリスが、息を呑んだ。


「警察は、防犯カメラの映像を調べてるって。でも、決定的な証拠がなくて」


 恵さんが、テーブルの上のお茶を見つめた。


「お父さん、ずっと探してる。探偵も雇って。絶対に、犯人を見つけるって」


「お父さん……」


 アリスが、小さく呟いた。


「朝日が帰ってきてくれて、本当に嬉しい。でも、あなたを突き落とした人間は、まだどこかにいる」


 恵さんが、アリスの手を握った。


「それが、怖いの。もし、その人が、また……」


 恵さんの声が、震えた。


「もう、あなたを失いたくない」


「お母さん……」


 アリスが、恵さんを抱きしめた。


「大丈夫だよ。もう、そんなこと起きないから」


「でも……」


「隆太郎もいるし。毎日、一緒にいてくれるから」


 アリスが、俺を見た。俺は、頷いた。


「絶対に、守ります」


 俺が言うと、恵さんが少し安心したような顔をした。


「ありがとう、隆太郎くん」


 その時、玄関のドアが開く音がした。


「ただいま」


 健一さんの声だった。


「おかえりなさい」


 恵さんが、玄関に向かった。アリスと俺も、立ち上がった。


 リビングに入ってきた健一さんの顔は、疲れていた。でも、アリスを見ると、少し表情が緩んだ。


「朝日、来てたのか」


「うん、お父さん。おかえり」


「ああ」


 健一さんが、ネクタイを緩めながら、ソファに座った。


「お父さん、お疲れ様」


 恵さんが、お茶を淹れた。健一さんが、それを一口飲んでから、口を開いた。


「今日、警察に行ってきた」


 その言葉に、リビングの空気が変わった。


「何か……分かったの?」


 恵さんが、不安そうに聞いた。


「防犯カメラの映像を、もう一度見せてもらった」


 健一さんが、疲れた顔で言った。


「朝日を突き落とした人間の姿は映ってる。でも、顔が見えない」


「そう……」


「警察は、身長や体格から、ある程度絞り込めてるらしい」


 健一さんが、俺とアリスを見た。


「犯人は、若い男だ。おそらく、二十代から三十代」


「若い……男……」


 アリスが、呟いた。


「なぜ、そんな人が……」


「分からない」


 健一さんが、首を振った。


「動機も、何もかも分からない。通り魔的犯行かもしれない」


 通り魔。無差別。そんな言葉が、リビングに重く落ちた。もし、本当に無差別だったら。朝日は、ただ運が悪かっただけということになる。


「でも、必ず見つける」


 健一さんが、はっきりと言った。


「朝日を殺そうとした人間を、絶対に見つける」


 その声には、強い決意が込められていた。


 ※ ※ ※


 その日の帰り道、アリスはずっと黙っていた。


 いつもなら、俺の腕にしがみついて、色々な話をする。でも、今日は違った。ただ、黙って歩いている。その横顔が、どこか遠いところを見ていた。


「朝日」


 俺が声をかけた。


「ん……」


「大丈夫か?」


「……うん」


 アリスが、小さく答えた。でも、大丈夫じゃないのは、明らかだった。


「犯人のこと、気になるか?」


「……うん」


 アリスが、立ち止まった。俺も、足を止めた。


「私を突き落とした人……誰なんだろう」


 アリスが、空を見上げた。夏の夜空に、星がいくつか見えた。


「知らない人だったのかな。それとも……」


「それとも?」


「知ってる人だったのかな」


 その言葉に、俺の背筋が冷たくなった。


「知ってる人って……」


「分からない。でも、もし……もし、私が誰かに恨まれてたとしたら……」


 アリスの声が、震えた。


「怖い」


「朝日……」


「私、何か悪いことしたのかな。誰かを傷つけたのかな」


 アリスの目から、涙がこぼれた。


「そんなことで、殺されるようなこと、したのかな」


「してない」


 俺は、即座に言った。


「お前は、誰も傷つけてない。絶対に」


「でも……」


「お前は、優しくて、誰にでも親切で、いつも笑顔で」


 俺が、アリスの肩を掴んだ。


「そんなお前を、殺そうとする理由なんて、ない」


「隆太郎……」


「もし、犯人がいるなら、それは犯人の問題だ。お前の問題じゃない」


 俺は、アリスを抱きしめた。


「だから、自分を責めるな」


「うん……」


 アリスが、俺にしがみついた。しばらく、そうしていた。


 やがて、アリスが顔を上げた。


「ありがとう、隆太郎」


「当たり前だ」


 俺は、アリスの涙を拭った。


「俺は、絶対にお前を守る。犯人が誰だろうと、関係ない」


「うん」


 アリスが、少しだけ笑った。


 二人は、また歩き始めた。手を繋いで。星空の下を。


 ※ ※ ※


 その夜、家に帰ってから、母さんに相談した。


「母さん、朝日を突き落とした犯人のこと……」


「ええ、恵さんから聞いてるわ」


 母さんが、お茶を淹れながら言った。


「健一さん、必死で探してるみたいね」


「ああ」


 俺は、リビングのソファに座った。


「朝日が、怖がってる。犯人が、また襲ってくるんじゃないかって」


「そうね……」


 母さんが、俺の隣に座った。


「でも、隆太郎。あなたがついてるでしょ?」


「ああ」


「だったら、大丈夫よ」


 母さんが、優しく笑った。


「あなたは、朝日ちゃんを守れる。私も、協力する」


「ありがとう、母さん」


「それに」


 母さんが、少し真剣な顔になった。


「警察も、健一さんも、必死で探してる。きっと、見つかるわ」


「……そうだな」


 俺は、窓の外を見た。星が、綺麗だった。


 犯人は、誰なんだろう。なぜ、朝日を突き落としたんだろう。その答えが、いつか分かる日が来るのだろうか。


 でも、今は、朝日を守ること。それだけを考えよう。そう思った。


 ※ ※ ※


 翌日、土曜日。


 朝から、アリスと一緒に太刀川家に行った。今日は、恵さんが「一緒に買い物に行かない?」と誘ってくれていた。


「久しぶりに、親子で買い物したいの」


 恵さんが、嬉しそうに言った。


「いいよ、お母さん」


 アリスも、嬉しそうだった。


「隆太郎くんも、一緒にどう?」


「え、俺も?」


「ええ。せっかくだから」


 恵さんが笑顔で言った。


 健一さんは、「俺は仕事があるから」と言って、書斎にこもった。でも、玄関を出る時、健一さんが顔を出した。


「気をつけてな」


 その言葉に、昨日の話が頭をよぎった。健一さんも、心配しているのだろう。


「はい」


 三人で、商店街に向かった。


 久しぶりの、親子の買い物。恵さんとアリスが、並んで歩いている。その光景が、とても自然で、温かかった。


「朝日、これ似合うんじゃない?」


 恵さんが、洋服を見せる。


「可愛い!」


 アリスが、目を輝かせる。


「試着してみなさいよ」


「うん!」


 そんなやり取りを見ながら、俺は少し離れたところで待っていた。母と娘の、当たり前の時間。でも、その当たり前が、どれだけ尊いか。俺には、よく分かっていた。


 買い物を終えて、三人でカフェに入った。ケーキセットを頼んで、ゆっくりと時間を過ごす。


「楽しかったわ」


 恵さんが、嬉しそうに言った。


「私も」


 アリスが、笑顔で答えた。


「また、行こうね」


「うん!」


 そんな会話を聞きながら、俺は思った。


 この幸せな時間を、絶対に守る。犯人が誰であろうと、もう二度と、朝日を傷つけさせない。そう、心に誓った。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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