エスカレートの始まり
玄関の鍵が「カチリ」と閉まった音が、やけに大きく聞こえた。
家の中は冷房が効いていて、外の熱気が嘘みたいに引く。けれど、身体の表面が涼しくなっても、胸の奥に残った冷たさは消えない。あの図書館の雑誌コーナー。立ち読みのふりをしながら、こちらを見ていた視線。声をかけてこないからこそ、逃げ道がなくなる怖さ。
俺は靴を脱ぐ動作が妙にぎこちなくなっているのを自覚して、深く息を吸った。落ち着け。家に入った。ここは内側だ。外側じゃない。
「……ただいま」
小さく呟くと、リビングから母さんが出てきた。スマホを手に持ったまま。さっきまで通話していたからだろう。俺たちの顔を一目見て、表情を変えずに頷いた。
「おかえり。二人とも、手洗って。まず落ち着こう」
声が、いつも通りだったのがありがたい。家族が慌てたら、恐怖は増幅する。母さんはそれを分かっている。
「百合子さん……」
アリスが言いかけて、言葉が詰まった。目が少し潤んでいる。泣きそうというより、我慢してる。
母さんはアリスの肩にそっと手を置いて、優しく言った。
「大丈夫。今ここにいる。ここは安全」
その言葉に、アリスの肩が少しだけ落ちた。俺も喉の奥が熱くなる。母さんがこうやって言えるのは、強いからじゃなく、覚悟があるからだ。家庭の中で“守る側”が揺れないのは、想像以上に大きい。
手を洗ってリビングに戻ると、母さんがテーブルに麦茶を並べていた。氷が溶ける音が静かに響く。俺はグラスを握りながら、さっきの状況をもう一度整理した。
「……図書館にいた。話しかけてこない。だけど、明らかに見てた」
「うん」
母さんが頷く。質問攻めにしない。俺が落ち着いて話せるように間を作ってくれる。
「帰る時も、ついてきてる気がした。駅のホームでも、柱の陰に……」
俺がそこまで言うと、アリスが小さく身を縮めた。俺は続けるのを一瞬ためらったが、母さんの目が「言っていい」と言っていた。
「確証はない。でも、俺とアリス、両方が“見えた気がした”」
母さんは一度だけ息を吐いて、静かに言った。
「気がした、でも十分。危険の兆候として扱うわ」
言い切り方が、冷静だった。母さんの中で、もう“ただの勘違い”ではないと認定されたんだろう。
アリスが震える声で聞いた。
「百合子さん……私、なにか悪いことした?」
「してない」
母さんは即答した。
「アリスちゃんは、嫌だって言った。怖いって言った。それで十分。悪いのは、境界を無視する方」
アリスの目が潤んで、ぽろっと一粒だけ涙が落ちた。母さんはティッシュを差し出して、背中を撫でた。俺はその光景を見て、胸の奥が痛む。俺がもっと上手く守れていたら、アリスが泣くことはなかったんじゃないか。そんな思考が頭をよぎる。
でも、違う。
“俺が全て防ぐ”なんて傲慢だ。守るのは仕組みと連携だ。母さんが言っていた。大人を入れる、と。
母さんが俺を見る。
「隆太郎。健一さんには、もう伝えた?」
「まだ……でも、さっきの通話のあとに送るつもりだった」
「今、送ろう」
母さんは短く言った。決断が早い。俺は頷いてスマホを取り出した。
健一さん宛てに、要点だけを送る。
『田村が図書館に来て、離れた場所から見ていました。帰りもついてきた可能性があります。アリスも怖がっています。』
送信した瞬間、既読がすぐについた。短い返信が返ってきた。
『分かった。今夜、動く。』
その四文字が、俺の背中に一本筋を通した。今夜動く。つまり、もう先延ばしにはしない。
母さんが言った。
「今日は外に出ない。アリスちゃん、一人で部屋にいない。隆太郎も同じ。二人でリビングで過ごそう」
アリスが小さく頷く。
「うん……」
俺も頷いた。いつもなら自室で勉強すると言い張るところだ。でも今日は違う。安全が優先だ。
※ ※ ※
夕方、外が少しだけ朱色に染まり始めた頃。
チャイムが鳴った。
ピンポーン。
たったそれだけの音なのに、俺の心臓が跳ね上がった。アリスもびくりと肩を震わせる。母さんは瞬時に立ち上がり、俺たちに手で「動かないで」と示した。
「誰かしら」
母さんはそう言いながらも、声は落ち着いている。玄関のインターホンのモニターを確認し、すぐに言った。
「健一さん」
俺は息を吐いた。アリスも少しだけ肩の力を抜く。母さんが玄関を開けると、健一さんが立っていた。顔が硬い。いつもの寡黙さとは違う硬さだ。怒りの輪郭が、静かに固定されている。
恵さんも一緒だった。手には紙袋。たぶん差し入れ。けれど、表情は笑っていない。
「突然すまない」
健一さんが言った。
「いえ。ありがとうございます」
母さんが迎え入れる。俺とアリスも立ち上がり、挨拶をした。
「お父さん……」
アリスが言うと、健一さんはアリスを見て、短く頷いた。
「朝日、怖かったな」
それだけで、アリスの目がまた潤む。恵さんがすぐ横から抱きしめた。
「大丈夫。私たちがいる」
リビングに通され、四人――いや、俺も入れて五人でテーブルを囲んだ。母さんが状況を改めて整理し、健一さんが静かに聞く。恵さんはアリスの手を握ったまま離さない。
健一さんが口を開く。
「ホームステイ先としている百合子さんの名前を借りて、代弁者として学校に連絡した。生活指導と、学年主任。明日、面談を入れる」
「早いですね」
俺が言うと、健一さんは短く頷いた。
「早い方がいい」
母さんも頷く。
「手紙も保管しています。今日の図書館の件も含めて、時系列でまとめましょう」
恵さんが唇を噛んで言った。
「朝日、ほんとに怖かったよね……」
「うん……でも、みんなが動いてくれて、ちょっと安心した」
アリスの声はまだ小さい。でも、さっきより芯が戻っている。
健一さんが俺を見る。
「隆太郎くん」
「はい」
「田村は、朝日を“助ける”と言ったそうだな」
封筒の内容を指している。俺は頷いた。
「……はい。俺が過保護で、自由を奪ってるって」
その瞬間、健一さんの目が冷えた。怒りを抑えるために冷える目だ。
「……自由を奪っているのは、田村の方だ」
低い声。短い断定。そこに、父親としての本気があった。
恵さんも続ける。
「朝日は、二度も嫌だって言ったのよね。図書館でも、祭りでも。なのに、追うなんて……」
母さんが言葉を重ねた。
「こちらが境界線を示したのに、それを“救済のサイン”として再解釈している。典型的なエスカレーションの入口です」
母さんの言い方は、どこか専門家みたいだった。実際、子育てをしてきた人間は、危険な“匂い”に敏感になる。俺は黙って頷いた。
健一さんが言う。
「明日、学校から田村に指導が入る。必要なら、田村の保護者にも連絡する。……ただ、それでも止まらない可能性がある」
その言葉に、部屋の空気が重くなる。
止まらない可能性。つまり、相手が“正義”を強める可能性。
俺はその可能性を否定できなかった。むしろ、田村はここから“被害者意識”を持つかもしれない。彼氏に邪魔された、家族に妨害された、学校に圧をかけられた。そうやって自分を正当化して、より執着を深める。
恵さんがアリスの肩を抱き、優しく言った。
「朝日。もしまた何かあったら、すぐ言ってね。私たちに。百合子さんにも。隆太郎くんにも」
アリスは頷いた。
「うん」
健一さんがテーブルに手を置き、静かに言った。
「それと、当面の間、朝日は一人で外を歩かない。隆太郎くんがいるなら一緒。いないなら、俺か恵が迎えに行く。分かったな」
アリスは少し困った顔をした。自由を奪われるのは嫌だ。でも、怖いのも本当。葛藤が見える。
「……うん。分かった」
健一さんは頷いた。
「嫌かもしれないが、今は安全優先だ」
その言葉が、俺の胸にも刺さった。安全優先。俺の中で最優先に置くべき指標だ。
※ ※ ※
健一さんと恵さんが帰ったのは、夜の九時を回ってからだった。
玄関で見送る時、健一さんは俺にだけ低い声で言った。
「明日、学校の面談には俺も行く。お前は来なくていい。朝日を守れ」
「はい」
それだけで十分だった。
家に戻ると、母さんがすぐにカーテンを閉めた。いつもより丁寧に、窓の隙間を確認する。アリスはその様子を見て、唇を噛んだ。
「……私、こんなことになって、みんなに迷惑かけてる」
「迷惑じゃない」
俺が言うと、母さんも頷いた。
「家族だもの。迷惑なんて言わないで」
アリスの目が揺れて、それから小さく「うん」と言った。
その夜、俺たちはリビングで過ごした。テレビはつけていたけど、内容は頭に入らない。母さんは台所で洗い物をしながら、時々こちらを確認する。俺はアリスの隣に座り、なるべく“普通”の会話を探した。
「……アイス、食べるか」
「食べる」
アリスが即答して、少しだけ笑った。こういう、生活の小さな楽しみを挟まないと、心が硬くなる。
冷凍庫からアイスを出して、二人で食べる。甘さが口に広がって、少しだけ現実が戻る。けれど、ふとした瞬間にアリスの視線が窓の方へ行く。外が気になる。誰かが見ていないか。そういう不安が残っている。
俺はその視線に気づいて、何も言わずにアリスの手を握った。アリスは一瞬だけ驚いた顔をして、それから握り返してきた。
「……隆太郎」
「ん」
「私、ちゃんと嫌って言える。でも、怖いのは、嫌って言っても終わらないこと」
その言葉が、胸に重く落ちた。拒絶が通じない相手の怖さ。それが今の本質だ。
「終わらせる」
俺は言った。今日だけで何度言ったか分からない。でも、何度でも言う。言い続けないと、心が折れる。
※ ※ ※
深夜。
俺が歯を磨き終えて廊下に出ると、玄関の方から微かな音がした気がした。
カサ、と。
気のせいかもしれない。家のきしみかもしれない。冷房の風で何かが揺れただけかもしれない。
それでも、俺の身体は反射で固まった。
耳を澄ます。
静かだ。何も聞こえない。
俺はゆっくり階段を降り、足音を立てないようにリビングへ向かった。母さんはもう寝ている。アリスの部屋のドアも閉まっている。
俺は玄関の方を見た。ドアは閉まっている。鍵もかかっている。
――その時、郵便受けの方から、また小さな音がした。
カタン。
俺は息を止めた。今度は気のせいじゃない。郵便受けが動いた音だ。
俺は胸の奥の警報が一気に鳴り響くのを感じながら、玄関の内側の小窓から外を覗いた。
街灯の光が届く範囲に、人影があった。
黒い影。背の高さ。立ち方。
顔は見えない。でも、その姿勢が、俺の記憶と重なった。
――田村。
影は、郵便受けに何かを入れて、すっと立ち去ろうとした。
俺は玄関の鍵に手をかけかけて、止めた。
出たらダメだ。
母さんが言っていた。安全優先。ここは内側。外に出た瞬間、こちらが危険に触れる。
俺は震える手でスマホを取り出し、母さんにメッセージを送ろうとした。
その瞬間、影がこちらを振り向いた気がした。
目が合ったかどうかは分からない。でも、背筋が凍った。
影は、一拍だけ止まり、それから――笑ったように見えた。
街灯の下で、口元だけがわずかに動いた気がした。
そして、ゆっくりと闇に溶けていった。
俺はその場で固まり、心臓が痛いほど鳴っているのを感じた。
郵便受けの中には、紙の音がする。
――手紙。
また。
エスカレートが、始まった。
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