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おかえり

 時間が、止まった。


 いや、止まったように感じられた。リビングに流れていた時計の音も、窓の外から聞こえていた蝉の声も、全てが遠くなった。ただ、アリスの言葉だけが、空気の中に漂っていた。


「私……太刀川朝日です」


 恵さんの顔が、真っ青になった。その目が、大きく見開かれたまま、動かない。口が、わずかに開いている。言葉が、出てこない。


 健一さんは、微動だにしなかった。ただ、その目だけが、アリスを見つめている。その目に、驚きと、困惑と、そして何か別のものが混じっていた。


「え……?」


 やがて、恵さんが、かすれた声を出した。


「今……何て……?」


「私は……朝日です」


 アリスが、もう一度言った。涙で濡れた顔で、真っ直ぐに恵さんを見つめながら。


「死んで、転生して、姿は変わったけど……中身は、朝日です。太刀川朝日です」


「そんな……」


 恵さんが、首を振った。


「そんなこと……あるわけ……」


「信じられないと思います」


 母さんが、静かに言った。


「私も、最初は信じられませんでした。でも、本当なんです」


「百合子さん……あなた、何を……」


 恵さんが、混乱した顔で母さんを見た。


「朝日ちゃんは、事故で亡くなりました。でも、神様が、もう一度チャンスをくれた」


 母さんが、アリスの肩を抱いた。


「姿は変わったけど、魂は同じ。この子は、朝日ちゃんです」


「そんな……そんなこと……」


 恵さんの声が、震えている。その目から、涙がこぼれた。


「信じられるわけ……ない……」


「お母さん」


 アリスが、立ち上がった。健一さんと恵さんの方へ、一歩、近づいた。


「私、知ってる。お母さんの好きな花が、カサブランカだって」


 恵さんが、息を呑んだ。


「お父さんの好きな食べ物が、お母さんの作るカレーだって」


 健一さんの目が、わずかに揺れた。


「私が五歳の時、迷子になって泣いてたら、お父さんが見つけてくれた。その時、お父さん、すごく焦ってて、抱きしめてくれた」


 アリスの声が、震えていた。でも、はっきりと、続けた。


「私が小学三年生の時、算数のテストで初めて百点取った。お母さん、すごく喜んでくれて、その日の夕飯、私の好きなハンバーグ作ってくれた」


 恵さんの手が、口を覆った。


「中学二年生の時、私、友達と喧嘩して落ち込んでた。お母さん、何も聞かずに、ただ抱きしめてくれた。『辛かったね』って、ただそれだけ言ってくれた」


 アリスの涙が、止まらなかった。


「高校に入って、隆太郎と仲良くなって。でも、なかなか気持ちを伝えられなくて。お母さんに相談したら、『朝日の気持ちを、ちゃんと伝えなさい』って言ってくれた」


 恵さんが、声を上げて泣き出した。


「そして……事故の前の日。私、隆太郎に告白した。でも、隆太郎には白州さんがいて」


 アリスが、俺を見た。


「それでも、伝えられて良かったって思った。その夜、家に帰って、お母さんに『ありがとう』って言った。お母さん、『どうしたの?』って笑ってた」


 アリスが、恵さんに近づいた。


「次の日……私、死んだ。誰かに突き落とされて」


 健一さんの拳が、ぎゅっと握られた。


「暗くて、痛くて、怖かった。でも、最後に思ったのは、お母さんとお父さんのことだった」


 アリスが、恵さんの前で膝をついた。


「もっと一緒にいたかった。もっと話したかった。ちゃんと『大好き』って言いたかった」


 アリスが、恵さんの手を取った。


「だから、神様が、もう一度チャンスをくれた。姿は変わったけど、もう一度、お母さんとお父さんに会えた」


 恵さんの体が、震えていた。涙が、止まらない。


「朝日……?」


 恵さんが、震える声で言った。


「本当に……朝日なの……?」


「うん」


 アリスが、大きく頷いた。


「私、朝日だよ。お母さん」


 その瞬間、恵さんが、アリスを抱きしめた。


「朝日……朝日……!」


 恵さんが、アリスを抱きしめながら、声を上げて泣いた。


「会いたかった……会いたかった……!」


「お母さん……!」


 アリスも、恵さんにしがみついて、泣いた。


「ごめんね……ごめんね……心配かけて……!」


「いいのよ……いいのよ……帰ってきてくれたから……!」


 二人は、抱き合ったまま、泣き続けた。その光景を見ながら、俺の目からも、涙がこぼれた。母さんも、ハンカチで目を押さえていた。


 健一さんは、じっと二人を見つめていた。その目が、赤くなっていた。でも、まだ何も言わなかった。ただ、黙って見つめていた。


 やがて、恵さんが顔を上げた。涙でぐちゃぐちゃになった顔で、健一さんを見た。


「あなた……朝日が……朝日が帰ってきたのよ……!」


 健一さんは、しばらく黙っていた。その表情が、揺れている。信じたい。でも、信じていいのか。その葛藤が、顔に出ていた。


「……本当に」


 健一さんが、ゆっくりと口を開いた。


「本当に、朝日なのか」


「はい」


 アリスが、健一さんを見た。


「お父さん。私、朝日です」


 健一さんが、立ち上がった。アリスの前まで来た。そして、じっと顔を見つめた。


「証明できるか」


 健一さんの声は、冷静だった。でも、その奥に、震えが隠れていた。


「朝日にしか知らないこと。朝日にしかできないこと。それを、見せてくれ」


「はい」


 アリスが頷いた。そして、少し考えてから、口を開いた。


「お父さん、覚えてる? 私が十歳の誕生日の時」


 健一さんの目が、わずかに揺れた。


「お父さん、私にネックレスをくれた。小さなハートのペンダント」


「……ああ」


「そのネックレス、裏に文字が彫ってあった。お父さんが、特別に頼んで彫ってもらった文字」


 アリスが、健一さんを見上げた。


「『Always with you』って、彫ってあった」


 健一さんの体が、大きく震えた。


「それ、誰にも言ってなかった。お母さんにも言ってなかった。お父さんと私だけの秘密だった」


 アリスが、続けた。


「お父さん、言ってくれたよね。『いつでも、お父さんは朝日の味方だ』って」


 健一さんの目から、涙がこぼれた。


「朝日……」


 健一さんの声が、かすれた。


「本当に……朝日なのか……」


「うん」


 アリスが、泣きながら笑った。


「お父さん。ただいま」


 その言葉を聞いた瞬間、健一さんが崩れるように膝をついた。そして、アリスを抱きしめた。


「おかえり……おかえり、朝日……」


 健一さんが、アリスを抱きしめながら、声を震わせた。普段、無口で、感情を表に出さない健一さんが、子供のように泣いていた。


「よく……帰ってきた……」


「ただいま、お父さん」


 アリスも、健一さんにしがみついて、泣いた。


 恵さんが、二人に駆け寄った。そして、三人で抱き合った。親子三人の抱擁。長い間、失われていた抱擁。


 俺と母さんは、少し離れたところで、その光景を見守っていた。俺の顔は、涙でぐちゃぐちゃだった。母さんも、ずっと泣いていた。でも、それは悲しい涙じゃなかった。幸せな涙だった。


 しばらくして、三人が離れた。恵さんが、アリスの顔を両手で包んだ。


「見た目は変わっちゃったけど……」


 恵さんが、アリスの顔を、じっと見つめた。


「でも、この目……朝日の目だわ」


「お母さん……」


「優しくて、強い目。朝日の目」


 恵さんが、アリスの額にキスをした。


「おかえり、朝日」


「ただいま、お母さん」


 二人は、また抱き合った。


 健一さんが、俺の方を向いた。


「隆太郎くん」


「はい」


「ありがとう」


 健一さんが、深く頭を下げた。


「朝日を……娘を、守ってくれて」


「いえ……俺は……」


「いや、守ってくれた」


 健一さんが、顔を上げた。その目は、赤かったが、力強かった。


「これからも、頼む」


「はい」


 俺も、深く頭を下げた。


「必ず、守ります」


 健一さんが、小さく笑った。


 母さんも、恵さんに抱きしめられていた。二人の母親が、涙を流しながら、抱き合っていた。


「百合子さん、ありがとう」


「いいのよ。朝日ちゃんは、私にとっても大切な子だから」


 リビングに、温かい空気が流れた。涙と、笑顔と、そして何よりも、愛が満ちていた。


 アリスが、俺の方を向いた。涙と笑顔で、手を振った。俺も、手を振り返した。


 ありがとう、と、アリスが口の形で言った。


 俺も、同じように答えた。


 おかえり、朝日。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

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