運命の日
日曜日の朝が来た。
目が覚めた瞬間、俺の心臓は既に早鐘を打っていた。今日が、その日だ。アリスが、太刀川夫妻に全てを話す日。俺は、ベッドから起き上がって、窓の外を見た。夏の朝日が、まぶしく部屋に差し込んでいる。空は、抜けるように青かった。こんなに穏やかな朝なのに、俺の胸の中は、嵐のように荒れていた。
廊下から、足音が聞こえた。アリスの部屋のドアが開く音。そして、階段を降りていく音。俺も、部屋を出た。階下に降りると、リビングでアリスと母さんが朝食の準備をしていた。
「おはよう、隆太郎」
母さんが、いつも通りの笑顔で言った。
「おはよう」
「おはよう、隆太郎」
アリスも、いつも通りの声で挨拶した。でも、その顔は、いつもより少しだけ青白かった。眠れなかったのだろう。目の下に、わずかにクマができていた。
三人で、静かに朝食を食べた。トーストと、スクランブルエッグと、サラダ。いつもと同じ朝食。でも、その味が、今日はやけに薄く感じられた。アリスは、ほとんど食べられていなかった。トーストを少しかじって、それだけだった。
「朝日ちゃん、もう少し食べなさい」
母さんが、優しく言った。
「食べないと、力が出ないわよ」
「……はい」
アリスが、もう一口だけトーストを口に入れた。でも、噛むのも辛そうだった。俺は、何も言えなかった。ただ、黙って見守ることしかできなかった。
朝食を終えて、三人でリビングのソファに座った。太刀川家に行くのは、午後二時。まだ、時間がある。でも、その時間が、やけに長く感じられた。
「朝日ちゃん」
母さんが、アリスの手を握った。
「怖い?」
「……はい」
アリスが、正直に答えた。
「すごく怖いです。信じてもらえなかったらって思うと……」
「大丈夫」
母さんが、はっきりと言った。
「あの二人なら、絶対に信じるわ」
「でも……」
「朝日ちゃんは、朝日ちゃんにしかできないこと、朝日ちゃんにしか知らないことを、たくさん知ってるでしょう?」
母さんが、アリスの目を見た。
「それを話せば、きっと分かってくれる」
「……はい」
アリスが、小さく頷いた。
俺は、アリスのもう一方の手を握った。アリスが、俺を見た。その目に、不安と、決意が混じっていた。
「俺も、母さんも、ずっと傍にいる」
俺が言った。
「だから、安心しろ」
「うん」
アリスが、少しだけ笑った。
※ ※ ※
午後一時半。三人で家を出た。
太刀川家までの道のりが、やけに短く感じられた。いつもなら十五分かかる道が、今日は五分くらいに感じられた。時間が、どんどん加速していく。止まってほしいのに、止まらない。
太刀川家の前に着いた。アリスが、立ち止まった。その体が、わずかに震えていた。
「朝日」
俺が声をかけた。
「大丈夫か?」
「……うん」
アリスが、深く息を吸った。そして、吐いた。もう一度、吸って、吐いた。それを何度か繰り返してから、頷いた。
「行こう」
母さんが、インターホンを押した。しばらくして、恵さんの声が聞こえた。
「はーい」
玄関のドアが開いた。恵さんが、笑顔で出迎えてくれた。でも、その笑顔は、いつもより少しだけ緊張しているように見えた。昨日、アリスが「大事な話がある」と言った。それが、恵さんの心にも、何か引っかかっているのだろう。
「いらっしゃい。どうぞ、上がって」
「お邪魔します」
三人で声を揃えた。
リビングに通されると、健一さんが既に座っていた。いつもと違って、スーツではなく、カジュアルな服装だった。でも、その表情は、いつもより硬かった。
「隆太郎くん、百合子さん、アリスさん」
健一さんが、三人に頷いた。
「座ってください」
俺たちは、ソファに座った。アリスが真ん中で、俺が右、母さんが左。向かいのソファに、健一さんと恵さんが座った。
恵さんが、お茶を淹れてくれた。でも、誰も手をつけなかった。リビングに、重い沈黙が落ちた。
やがて、恵さんが口を開いた。
「それで……大事な話って?」
アリスが、俯いた。その手が、膝の上で握られている。俺は、そっとアリスの手に触れた。アリスが、少しだけ顔を上げた。
「あの……その前に」
アリスが、小さく言った。
「朝日さんの……写真を、見せていただけますか?」
恵さんが、少し驚いたような顔をした。
「朝日の写真?」
「はい」
アリスが頷いた。
「朝日さんが、どんな子だったのか……ちゃんと知りたいんです」
恵さんは、少し迷ったような顔をした。でも、すぐに頷いた。
「分かったわ。ちょっと待ってて」
恵さんが立ち上がって、奥の部屋に消えていった。しばらくして、大きなアルバムを抱えて戻ってきた。
「これが、朝日のアルバム」
恵さんが、テーブルの上にアルバムを置いた。表紙には、「朝日の思い出」と書いてあった。
恵さんが、アルバムを開いた。最初のページに、赤ちゃんの写真があった。
「これが、生まれたばかりの朝日」
恵さんが、写真を指差した。小さな赤ちゃんが、毛布に包まれて眠っている。
「小さかったのよ。でも、元気な子で」
恵さんが、ページをめくった。幼稚園の写真。小学校の入学式の写真。運動会の写真。遠足の写真。ページをめくるたびに、朝日が成長していく。
アリスは、じっと写真を見つめていた。その目が、潤んでいた。自分の写真を見ている。でも、「他人」として見ている。その矛盾が、アリスを苦しめているのが、俺には分かった。
「これが、中学の卒業式」
恵さんが、一枚の写真を指差した。セーラー服を着た朝日が、卒業証書を持って笑っている。その笑顔が、とても幸せそうだった。
「この時、朝日が言ったの。『お母さん、高校生になったら、もっと色んなことに挑戦する』って」
恵さんの声が、少し震えた。
「そして、高校に入って……」
恵さんが、次のページをめくった。高校の制服を着た朝日の写真。友達と笑っている写真。部活の写真。文化祭の写真。
「楽しそうだったわ。毎日、学校から帰ってきて、色んな話をしてくれた」
恵さんが、写真を撫でた。
「でも……これが、最後」
恵さんが、最後のページを開いた。そこには、朝日が俺と一緒に写っている写真があった。二人で、笑顔でカメラを見ている。
「これ、亡くなる一週間前に撮った写真」
恵さんの声が、かすれた。
「朝日、本当に嬉しそうだった。隆太郎くんと一緒にいると、いつも笑顔で」
アリスが、その写真を見つめた。その目から、涙がこぼれた。
「可愛い……子、ですね……」
アリスが、震える声で言った。
「ええ」
恵さんが頷いた。
「本当に、可愛い子だった。私の自慢の娘だった」
恵さんの目からも、涙がこぼれた。
「でも、もう会えない。もう、抱きしめられない」
恵さんが、写真を胸に抱きしめた。
「朝日……会いたい……もう一度、会いたい……」
恵さんが、泣き崩れた。健一さんが、黙って恵さんの肩を抱いた。その目も、赤くなっていた。
アリスは、もう限界だった。唇を噛んで、必死に涙をこらえている。でも、こらえきれなかった。涙が、次々とこぼれていく。
「お母さん……」
アリスが、小さく呟いた。その声は、恵さんには聞こえなかった。でも、俺には聞こえた。母さんにも聞こえた。
母さんが、アリスの肩を抱いた。俺も、アリスの手を握った。アリスは、震えていた。全身が、震えていた。
しばらくして、恵さんが顔を上げた。涙で濡れた顔で、アリスを見た。
「ごめんなさいね、アリスちゃん。こんな姿、見せちゃって」
「いえ……」
アリスが、首を振った。
「私こそ、ごめんなさい……こんな、辛い思いをさせて……」
「いいのよ」
恵さんが、優しく笑った。
「あなたは、優しい子ね。朝日のことを、一緒に悲しんでくれて」
恵さんが、アリスの手を取った。
「でもとても不思議なの。あなたといると、朝日がそばにいるような気がする」
その言葉に、アリスの体が、大きく震えた。
「まるで、朝日が帰ってきたみたいな……」
恵さんが、アリスの顔を見つめた。その目が、何かを探している。
「アリスちゃん……あなた……」
恵さんが、何かを言いかけた、その時だった。
「恵さん」
母さんが、口を開いた。
「実は、今日お話ししたいのは、そのことなんです」
恵さんと健一さんが、母さんを見た。
「どういう……こと?」
「アリスちゃんから、お話ししたいことがあります」
母さんが、アリスの肩を抱いた。
「どうぞ、最後まで聞いてください。信じられないかもしれません。でも、全部本当のことです」
健一さんの目が、鋭くなった。恵さんは、困惑した顔をしている。
アリスが、ゆっくりと顔を上げた。涙で濡れた顔で、太刀川夫妻を見た。
「あの……」
アリスが、震える声で言った。
「私……」
その言葉が、リビングに響いた。時計の音だけが、やけに大きく聞こえた。アリスの手が、俺の手を握りしめている。その手は、冷たく、そして震えていた。
俺は、アリスの手を握り返した。大丈夫だ。俺がついている。母さんもついている。どんな結果になっても、俺たちはアリスの味方だ。
アリスが、大きく息を吸った。そして、その言葉を、言った。
「私……太刀川朝日です」
その言葉が、静かに、でもはっきりと、リビングに響いた。
恵さんの目が、大きく見開かれた。健一さんの体が、わずかに動いた。
時間が、止まったように感じられた。誰も、何も言わなかった。ただ、アリスの言葉だけが、空気の中に漂っていた。
「私は……朝日です。死んで、転生して、姿は変わったけど……中身は、朝日です」
アリスが、涙を流しながら、続けた。
「お母さん……お父さん……」
その呼びかけに、恵さんが、息を呑んだ。
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