溢れる気持ち
来週の日曜日に、太刀川家で全てを話す。その日が決まって、アリスの様子が少しずつ変わっていった。
表面上は、いつも通りだった。学校では笑顔で、弁当も作ってくれるし、会話も普通にする。でも、俺には分かった。アリスの中で、何かが緊張し始めているのが。夜、一人で部屋にいる時間が増えた。食事の量が、少しだけ減った。眠りが、浅くなった。朝、アリスが俺の部屋に来る時間が、ほんの少しだけ遅くなった。そういう小さな変化が、全部物語っていた。アリスが、その日に向けて、心の準備をしているのだと。
水曜日の放課後。俺とアリスが一緒に下校していると、アリスのスマートフォンが鳴った。画面を見たアリスが、少し驚いたような顔をした。
「恵さんから」
アリスが、俺に画面を見せた。メッセージには「今度の土曜日、うちで夕飯食べない? 隆太郎くんとお母さんも一緒に」と書いてあった。
「どうする?」
俺が聞くと、アリスは少し考えてから、頷いた。
「行く。日曜日に話す前に、もう一度……お父さんとお母さんに会いたい」
その声には、決意が宿っていた。
※ ※ ※
土曜日の夕方。俺と母さんとアリスの三人で、太刀川家に向かった。母さんは、手作りのケーキを持参していた。
「百合子さん、わざわざ作らなくても良かったのに」
アリスが申し訳なさそうに言った。
「いいのよ。恵さん、甘いもの好きだから」
母さんが笑顔で答えた。母さんは、全てを知っている。アリスが太刀川朝日の転生だということも、明日、太刀川夫妻に全てを話すということも。でも、その顔には不安の色はなかった。むしろ、アリスを応援しようという温かさが滲んでいた。
太刀川家に着くと、恵さんが嬉しそうに出迎えてくれた。エプロン姿で、少し汗をかいている。
「いらっしゃい! ちょうど料理が完成したところよ」
「お邪魔します」
三人で声を揃えて言った。玄関に入ると、美味しそうな匂いが漂ってきた。何か煮込んでいる匂いと、焼いている匂いが混じっている。その匂いを嗅いだ瞬間、アリスの足が、ほんの少しだけ止まった。俺だけが、それに気づいた。
リビングに通されると、健一さんがテーブルの準備をしていた。皿を並べて、箸を置いて、グラスを配置している。珍しく、エプロンをつけていた。
「隆太郎くん、百合子さんも、いらっしゃい」
健一さんが、短く挨拶した。
「お邪魔します。これ、良かったら」
母さんがケーキの箱を差し出すと、恵さんが「まぁ、ありがとう!」と喜んだ。
「朝日も、百合子さんのケーキが大好きだったのよ。よく分けてもらってたわ」
その言葉に、母さんが少し目を細めた。
「ええ、朝日ちゃん、よく食べに来てくれたわね」
二人の母親が、亡くなった娘の話をする。その横で、アリスは黙って立っていた。俺は、そっとアリスの手を握った。アリスが、小さく握り返してくる。
※ ※ ※
食卓に並べられた料理を見た瞬間、アリスの呼吸が止まった。
ビーフシチュー、ほうれん草のバター炒め、ポテトサラダ、それにパン。どこにでもある、普通の洋食だった。でも、アリスにとっては、「普通」ではなかった。この組み合わせを、アリスは知っている。太刀川朝日として生きていた頃に、何度も食べた組み合わせ。恵さんが、特別な日に作ってくれた料理。
「わぁ、美味しそう」
母さんが、明るく言った。母さんも、気づいているのだろう。この料理が、アリスにとって特別な意味を持つことを。でも、それを表に出さない。ただ、自然に振る舞う。
「ビーフシチュー、朝日の一番好きな料理だったの」
恵さんが、少し遠い目をしながら言った。
「誕生日とか、何か嬉しいことがあった日とか、いつもこれを作ってあげてた」
健一さんが、黙って席に着いた。その表情は、いつも通り無口で、無表情だった。でも、その目が、少しだけ寂しそうに見えた。
「さ、冷めないうちに食べましょう」
恵さんが、笑顔で言った。
「いただきます」
五人で手を合わせた。
アリスが、スプーンでビーフシチューをすくった。その手が、わずかに震えていた。俺だけが、それに気づいた。アリスがゆっくりと、シチューを口に運ぶ。
その瞬間、アリスの目が、大きく見開かれた。
味が、全部記憶と一致したのだろう。この味を、体が覚えている。舌が覚えている。心が覚えている。アリスは、スプーンを置いた。そして、グラスの水を一口飲んだ。その動作が、いつもより少しだけぎこちなかった。
「美味しいです」
アリスが、静かに言った。その声が、かすかに震えていた。
「本当? 良かった」
恵さんが、嬉しそうに笑った。
「このシチュー、実はね、朝日が高校生の頃に改良してくれたの」
「え?」
アリスが、顔を上げた。
「うん。私が作ってたレシピに、朝日が『お母さん、ここをこうしたらもっと美味しくなるよ』って色々提案してくれて。それで、今のレシピになったの」
恵さんが、シチューを見つめながら言った。
「だから、このシチューを食べると、朝日のことを思い出すの。『美味しい、美味しい』って言いながら、おかわりしてた顔とか」
アリスの手が、テーブルの下で、ぎゅっと握られた。俺は、そっとアリスの手に触れた。アリスの手が、冷たくなっていた。
「朝日ちゃん、本当にいい子だったわね」
母さんが、優しく言った。
「ええ。本当に」
恵さんが頷いた。
「毎日、この家に帰ってくるのが楽しみだったわ。『ただいま』って玄関を開ける声を聞くと、嬉しくて」
恵さんの声が、少しだけ震えた。
「でも、もう聞けない。もう、あの子は帰ってこない」
テーブルに、沈黙が落ちた。健一さんが、黙ってシチューを食べている。でも、その目が、少しだけ赤くなっているように見えた。
アリスは、俯いていた。金髪が、顔を隠している。その肩が、わずかに震えていた。俺は、テーブルの下で、アリスの手を握った。アリスが、きつく握り返してくる。
「……ごめんなさい」
アリスが、小さく言った。
恵さんが、慌てて首を振った。
「いいの。むしろ、朝日の話を聞いてくれる人がいて、嬉しいわ」
恵さんが、アリスを見た。
「あなた、本当に優しい子ね。朝日の話を聞いて、一緒に悲しんでくれて」
アリスが、顔を上げた。その目が、少し赤くなっていた。
「……私、朝日さんのこと、全然知らないのに」
「でも、感じてくれるでしょう? 朝日が、どんな子だったか」
恵さんが、優しく笑った。
「不思議ね。あなたといると、朝日がそこにいるような気がするの」
その言葉に、アリスの目から、一筋の涙がこぼれた。でも、すぐに手で拭った。
「ごめんなさい……」
「謝らなくていいのよ」
恵さんが、アリスの肩に手を置いた。
「泣いてくれて、ありがとう」
アリスは、何も言えなかった。ただ、唇を噛んで、こらえていた。これ以上泣いたら、全部話してしまいそうで。「私が朝日です」と叫んでしまいそうな。
俺は、アリスの手を握ったまま、離さなかった。母さんも、心配そうにアリスを見ていた。健一さんは、黙ってアリスを見つめていた。その目に、何か複雑なものが浮かんでいた。
※ ※ ※
食事が終わって、リビングのソファでお茶を飲んだ。恵さんが淹れてくれた紅茶は、優しい香りがした。母さんが持ってきたケーキを切り分けて、五人で食べた。
アリスは、少しずつ落ち着きを取り戻していた。でも、まだ目が赤かった。恵さんは、そんなアリスを心配そうに見ていた。
「アリスちゃん、大丈夫?」
「はい、大丈夫です。ごめんなさい、急に泣いちゃって」
「謝らなくていいのよ。むしろ、こんなに朝日のことを思ってくれて、嬉しいわ」
恵さんが、アリスの手を握った。アリスが、その手を見つめた。母の手。温かくて、優しい手。何度も、この手に触れてきた。何度も、この手に甘えてきた。でも、今は「他人」として触れている。
「明日、また来てくれる?」
恵さんが、突然そう言った。
俺とアリスは、顔を見合わせた。明日。そう、明日が、その日だ。全てを話す日。
「……はい」
アリスが、静かに答えた。
「明日、来ます。お父さんとお母さんに、大事な話があるんです」
恵さんが、少し驚いたような顔をした。
「大事な話?」
「はい」
アリスが頷いた。
「隆太郎と、百合子さんも一緒に。五人で、お話ししたいことがあります」
健一さんが、アリスをじっと見た。その目が、何かを察したような色を帯びていた。
「……分かった。明日、待ってる」
健一さんが、短く答えた。
※ ※ ※
太刀川家を出て、三人で家に向かった。夜の道は、静かだった。街灯の光が、三人の影を長く伸ばしている。
しばらく、誰も何も言わなかった。アリスは、俺の腕にしがみついて、下を向いて歩いていた。母さんは、少し後ろを歩いていた。
「朝日ちゃん」
母さんが、優しく声をかけた。
「大丈夫?」
「……はい」
アリスが、小さく答えた。
「でも、辛かった。お母さんの料理、全部覚えてた。あの味、ずっと好きだった」
アリスの声が、震えていた。
「お母さんが『朝日がそこにいるような気がする』って言ってくれたの、すごく嬉しかった。でも、同時に、苦しかった」
アリスが立ち止まった。俺も、母さんも、足を止めた。
「私、ここにいるのに。本物の朝日が、ここにいるのに」
アリスが、空を見上げた。夏の夜空に、星がいくつか見えた。
「明日、ちゃんと言う。お父さんとお母さんに、全部話す」
アリスが、俺と母さんを見た。
「怖いけど……もう、これ以上我慢できない」
「うん」
母さんが頷いた。
「大丈夫。私たちがついてるから」
「ありがとうございます」
アリスが、涙を流しながら笑った。
俺は、アリスを抱きしめた。アリスも、俺にしがみついてきた。しばらく、そうしていた。母さんが、そんな二人を優しく見守っていた。
「帰ろう」
俺が言った。
「うん」
アリスが頷いた。
三人は、また歩き始めた。明日が、すぐそこまで来ていた。全てが変わる日が。その日に向けて、アリスは覚悟を決めていた。そして、俺も、母さんも、アリスを支える覚悟を決めていた。
※ ※ ※
その夜、俺は自分の部屋で、ベッドに横になっていた。でも、眠れなかった。明日のことを考えると、色々な感情が渦巻いて、眠れなかった。
コンコン。
ドアがノックされた。
「隆太郎、起きてる?」
アリスの声だった。
「ああ」
ドアが開いて、アリスがパジャマ姿で入ってきた。
「眠れなくて……」
「俺も」
アリスが、ベッドの端に座った。しばらく、二人とも黙っていた。
「ねぇ、隆太郎」
「ん?」
「明日、もし……お父さんとお母さんが信じてくれなかったら」
アリスが、不安そうに言った。
「その時は、その時だ」
俺は、即座に答えた。
「でも、俺は信じてる。太刀川のおじさんたちなら、絶対に信じてくれる」
「本当に?」
「ああ。だって、お前は朝日だから」
俺がそう言うと、アリスは少し安心したような顔をした。
「ありがとう」
「明日、俺と母さんがついてる。だから、大丈夫」
「うん」
アリスが、俺の肩に頭を乗せてきた。俺は、そのまま受け止めた。
「隆太郎」
「ん」
「大好き」
「……ああ、俺も」
二人は、しばらくそうしていた。窓の外から、虫の声が聞こえてくる。夏の夜は、まだ蒸し暑い。でも、この時間が、少しだけ心を落ち着かせてくれた。
やがて、アリスが自分の部屋に戻っていった。俺は、一人ベッドに横になった。明日。その日が、もうすぐ来る。全てが変わる日が。
俺は、ただ祈った。全てが、うまくいくことを。アリスが、幸せになれることを。ただ、それだけを祈っていた。
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