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告白する日

 健一さんとの出会いから、五日が経った。


 その間、アリスは「本当のことを言いたい」という言葉を、もう一度も口にしなかった。でも、俺には分かった。アリスの中で、その思いが日に日に強くなっているのが。学校で太刀川家の近くを通る時、アリスの足が無意識に遅くなる。恵さんから来たメッセージに返信する時、アリスがスマートフォンの画面を見つめる時間が、少しだけ長くなる。夜、一人で部屋にいる時間が、増えた。そういう小さな変化が、全部物語っていた。アリスが、何かに向かって進もうとしているのだと。


 でも、俺自身は、どうすればいいのか分からなかった。アリスを応援すべきなのか。それとも、止めるべきなのか。本当のことを話して、もし信じてもらえなかったら。もし、頭がおかしいと思われたら。もし、二度と会えなくなったら。そんなことを考えると、胸が苦しくなった。そして、それ以上に怖いことがあった。もし、太刀川夫妻がアリスを受け入れたら。もし、アリスが太刀川家で暮らすことになったら。そうしたら、俺は……。


 その考えが浮かぶたびに、俺は自分の弱さを呪った。アリスの幸せを願っているはずなのに、アリスを失うことを恐れている。この矛盾が、俺を苦しめていた。


 日曜日の朝。母さんが「今日は友達と買い物に行くから、お昼は二人で適当に食べてね」と言い残して、出かけていった。リビングには、俺とアリスだけが残された。アリスは、ソファに座ってテレビを見ていた。でも、その目は、画面を追っていなかった。どこか遠いところを見ている。料理番組が流れていて、シェフが何かを調理しているが、アリスの意識はそこにない。俺は、その横顔を見ながら、どう声をかけるべきか考えていた。


「朝日」


 俺が声をかけると、アリスがはっと我に返ったように顔を上げた。


「ん?」


「ちょっと、話があるんだけど」


「何?」


 アリスが、テレビのリモコンを取って画面を消した。リビングに、急に静寂が戻る。エアコンの送風音だけが、かすかに響いている。俺は、アリスの向かいのソファに座った。どう切り出すべきか、少し迷った。でも、言わなければならないと思った。このまま曖昧にしていては、何も進まない。


「太刀川のおじさん……健一さんのこと」


「うん」


「あの人、お前のこと、すごく気に入ってるみたいだな」


「そうかな」


 アリスが、少し照れたように笑った。その笑顔には、嬉しさと、複雑な思いが混じっていた。


「また来てほしいって、はっきり言ってたし。恵さんも、お前といると落ち着くって」


「うん。嬉しかった」


 アリスが、膝の上で手を組んだ。その指が、少しだけ絡み合っている。緊張しているのだろう。


「お父さんが、あんなに話すなんて。びっくりした。昔から無口な人だったけど、私のことを気にかけてくれてるんだって、分かった」


 アリスの声が、少しだけ弾んでいた。でも、その奥に、言葉にならない寂しさが潜んでいるのも、俺には分かった。


「……なぁ、朝日」


 俺は、少し間を置いてから、言った。


「もし、本当のことを話したとして……信じてもらえなかったら、どうする?」


 アリスの手が、ぴたりと止まった。絡めていた指が、力を失って、だらりと膝の上に落ちた。


「それは……」


「最悪の場合、もう会えなくなるかもしれない。『頭のおかしい子だ』って思われて、距離を置かれるかもしれない。警察に通報されるかもしれない。病院に連れて行かれるかもしれない」


 俺の言葉に、アリスは何も答えなかった。でも、その表情が、少しずつ曇っていくのが見えた。青い瞳が、揺れている。


「俺は……お前が傷つくのが、怖い」


 俺は、正直に言った。ここで嘘をついても、意味がない。


「太刀川のおじさんたちが、お前を拒絶したら。そうなったら、お前はどうなる? 耐えられるか? 俺は、それが怖い」


 アリスは、しばらく黙っていた。窓の外から、蝉の声が聞こえてくる。夏の昼下がり、世界はいつも通りに動いている。でも、このリビングだけが、時間が止まったように静かだった。


「……分からない」


 アリスが、小さく答えた。


「耐えられるかどうか、分からない。でも、今のままでも、辛い」


 アリスが、俺を見た。その目が、潤んでいた。


「毎日、お母さんとメッセージのやり取りするたびに、思うの。『私、ここにいるのに』って。お父さんが私を見る目に、何か引っかかるものを感じてるって分かる。お父さんは、無意識に気づいてる。でも、それを認められない。私も、それを言えない」


 アリスの声が、震えていた。


「私、このまま一生、他人として生きていくの? お母さんとお父さんに、娘だって言えないまま? 二人が私を見るたびに『朝日に似てる』って思いながら、でも違う人だって自分に言い聞かせて……そんなの、辛すぎるよ」


 その言葉が、俺の胸に深く刺さった。アリスの苦しみを、俺は本当には理解できていなかった。毎日、両親の近くにいながら、娘だと名乗れない。その苦しさは、想像を絶するものだろう。俺には、両親がいる。普通に会話ができる。「ただいま」と言えば「おかえり」と返ってくる。そんな当たり前のことが、アリスにはない。


「ごめん」


 俺は、頭を下げた。


「俺が、弱かった。お前の気持ちより、俺が怖がってた」


「隆太郎……」


「でもな、朝日」


 俺は、顔を上げて、アリスを真っ直ぐ見た。


「もう一つ、怖いことがある」


「え?」


「もし、太刀川のおじさんたちが、お前を信じて、受け入れたら」


 俺の言葉に、アリスが目を見開いた。


「それは……嬉しいことじゃないの?」


「嬉しい。でも、同時に……」


 俺は、言葉を選んだ。でも、正直に言うべきだと思った。


「お前が、太刀川家で暮らすことになったら。そうしたら、俺は……お前と、離れ離れになる」


 その言葉を口にした瞬間、自分の本心に気づいた。俺が一番怖いのは、アリスを失うことだった。


「俺は……お前がいなくなるのが、怖い」


 アリスが、息を呑んだ。


「毎朝、お前が俺の部屋に来て『おはよう』って言うのが。お前が作ってくれる弁当が。夜、お前が俺の部屋に来て、他愛もない話をするのが。全部、なくなる」


 俺の声が、少しだけ震えた。


「それが、怖い。お前がいない生活なんて、考えられない」


 リビングに、沈黙が落ちた。アリスは、俺を見つめたまま、動かなかった。その目に、涙が浮かんでいる。でも、こぼれなかった。


 やがて、アリスが立ち上がった。そして、俺の隣に座った。距離が、ぐっと近くなる。アリスの肩が、俺の肩に触れた。


「隆太郎」


「ん」


「私ね、隆太郎と離れたくない」


 その言葉に、俺の心臓が、大きく跳ねた。


「もし、お父さんとお母さんが受け入れてくれても、私は隆太郎の傍にいたい。隆太郎と、一緒にいたい」


 アリスの手が、俺の手を握った。


「私、一度死んで、転生して、この世界に戻ってきた。その時、一番最初に会いたかったのが隆太郎だった」


 アリスが、俺の方を向いた。


「隆太郎に会えて、隆太郎と一緒にいられて、本当に幸せだった。この三ヶ月、毎日が楽しかった」


 アリスの目から、一筋の涙が流れた。


「だから、お父さんとお母さんに認めてもらえても、私は隆太郎と一緒にいる。ここで、隆太郎と、百合子さんと、暮らしたい」


「朝日……」


「それって、わがままかな」


「わがままじゃない」


 俺は、即座に言った。


「お前が、そう思ってくれるなら……俺も、嬉しい」


「本当?」


「ああ。正直に言うと、お前がいなくなるのが怖かった。でも、お前の幸せを考えたら、太刀川家で暮らす方がいいのかもって……」


「そんなことない」


 アリスが、強く首を振った。


「私の居場所は、ここ。隆太郎の隣」


 その言葉を聞いて、俺の胸の中にあった重いものが、少しだけ軽くなった気がした。アリスを太刀川家に返すとか、そういう話じゃないのかもしれない。アリスは、両方を望んでいる。両親にも会いたい。でも、俺の傍にもいたい。それなら、俺がすべきことは、アリスがその両方を手に入れられるように、支えることだ。


「ありがとう」


 俺は、アリスの頭を撫でた。


「お前がそう言ってくれて、本当に嬉しい」


「隆太郎こそ、ありがとう」


 アリスが、俺の肩に頭を乗せてきた。


「隆太郎がいてくれるから、私、頑張れる」


 俺達は、しばらくそうしていた。エアコンの送風音。遠くから聞こえる蝉の声。車が通り過ぎる音。全部が、穏やかに流れていく。この時間が、ずっと続けばいいのに。そう思った。


 ※ ※ ※


 その夜、俺は一人で考え込んでいた。


 自分の部屋で、ベッドに横になりながら、天井を見つめる。アリスは、隣の部屋で寝ているはずだ。でも、眠れているだろうか。きっと、俺と同じように、色々なことを考えているのだろう。


 今日の会話で、一つだけはっきりしたことがあった。アリスは、俺の傍にいてくれる。それは、本当に嬉しかった。でも、同時に、新しい不安も生まれた。太刀川夫妻は、それを受け入れてくれるだろうか。娘が、恋人の家で暮らし続けることを。


 考えれば考えるほど、複雑になっていく。でも、一つだけ確かなことがあった。アリスは、もう決めている。両親に、本当のことを話すと。その覚悟を、俺は応援するしかない。


 コンコン。


 ドアがノックされた。


「隆太郎、起きてる?」


 アリスの声だった。


「ああ」


 ドアが開いて、アリスがパジャマ姿で入ってきた。白いパジャマに、金髪が映えている。


「眠れなくて……」


「俺も」


 アリスが、ベッドの端に座った。しばらく、二人とも黙っていた。窓の外から、虫の声が聞こえてくる。夏の夜は、まだ少し蒸し暑い。でも、エアコンのおかげで、部屋の中は快適だった。


「ねぇ、隆太郎」


「ん?」


「私ね、決めた」


 アリスが、膝の上で手を組んだ。


「お父さんとお母さんに、本当のことを話す」


 その言葉に、俺の心臓が、ドクンと音を立てた。


「いつ?」


「まだ、具体的には決めてない。でも、近いうちに」


 アリスが、俺を見た。その目には、迷いがなかった。


「その時、隆太郎も一緒にいてくれる?」


「当たり前だ」


 俺は、即座に答えた。


「お前一人で行かせるわけないだろ」


「ありがとう」


 アリスが、嬉しそうに笑った。でも、その笑顔の奥に、不安が隠れているのも見えた。


「怖い?」


 俺が聞くと、アリスは正直に頷いた。


「すごく怖い。信じてもらえなかったらって思うと、足が震える」


「でも、話すんだな」


「うん。話さないと、前に進めないから」


 アリスが、俺の手を握った。


「隆太郎がいてくれるなら、私、大丈夫」


 俺は、アリスの手を握り返した。その手は、少しだけ震えていた。でも、温かかった。


「どんな結果になっても、俺はお前の味方だ」


「うん」


「だから、安心しろ」


「うん」


 アリスが、俺の肩に頭を乗せてきた。俺は、そのまま受け止めた。二人で、窓の外を眺める。夜空に、星がいくつか見えた。都会の空だから、それほど多くはない。でも、その少ない星が、やけに綺麗に見えた。


「隆太郎」


「ん」


「大好き」


「……俺も」


 俺も、小さく答えた。


 しばらくして、アリスが自分の部屋に戻っていった。俺は、一人ベッドに横になった。天井を見つめながら、これからのことを考えた。アリスが、太刀川夫妻に真実を告げる日。その日が、もうすぐ来る。その時、何が起こるのか。俺には、分からなかった。


 でも、一つだけ確かなことがあった。俺は、アリスを守る。何があっても、絶対に。その決意だけは、揺るがなかった。


 ※ ※ ※


 翌日の学校の休み時間。俺とアリスは、いつものように屋上でお弁当を食べていた。いや、正確には、昼休みが終わっていたので、ただ並んで座っていた。授業が始まるまで、あと五分。その短い時間が、俺たちには貴重だった。


 アリスは、膝を抱えて、遠くを見ていた。その横顔が、どこか大人びて見えた。三ヶ月前、転生してこの世界に戻ってきた時よりも、アリスは確実に成長している。色々なことを経験して、色々なことを感じて。その全てが、アリスを強くしている。


「ねぇ、隆太郎」


「ん?」


「私ね、お父さんとお母さんに話す日を、決めようと思う」


 その言葉に、俺の心臓が、また大きく跳ねた。


「いつにする?」


「来週の日曜日」


 アリスが、はっきりと言った。


「百合子さんにも、相談したい。だから、来週の日曜日に、みんなで太刀川家に行って、話す」


 俺は、アリスの決意を感じた。もう、迷っていない。覚悟を決めている。


「分かった。俺も、一緒に行く」


「ありがとう」


 アリスが、俺を見た。


「隆太郎がいてくれるなら、私、頑張れる」


 俺は、アリスの手を握った。アリスも、握り返してくる。その手の温度が、俺の胸に伝わってくる。


「どんな結果になっても、俺はお前の味方だ」


「うん。分かってる」


 アリスが、微笑んだ。


 チャイムが鳴った。授業が始まる時間だ。俺とアリスは、立ち上がった。教室に戻る前に、アリスがもう一度、俺の手を握った。


「行こう」


「ああ」


 俺達は、手を離して、屋上を後にした。でも、その温もりは、ずっと残っていた。


 来週の日曜日。その日が、全てを変える日になる。俺は、そう予感していた。


 ※ ※ ※


 その日の夜、俺は母さんに相談することにした。


 リビングで、母さんがソファに座ってテレビを見ていた。俺は、その隣に座った。


「母さん」


「ん? どうしたの?」


「ちょっと、相談があるんだけど」


「何?」


 母さんが、テレビを消して、俺の方を向いた。真剣な顔だった。母さんは、いつもこうだ。俺が何か相談すると、ちゃんと向き合ってくれる。


「朝日が……太刀川のおじさんたちに、本当のことを話したいって言ってる」


 母さんの表情が、一瞬だけ強張った。でも、すぐに柔らかく戻った。


「そう……ついに、その時が来たのね」


「来週の日曜日に、俺たちで太刀川家に行って、話すって」


「そう」


 母さんが、少し考えてから答えた。


「母さんも、一緒に行くわ」


「え?」


「だって、朝日ちゃん一人に、そんな重い話をさせるわけにはいかないでしょ」


 母さんが、優しく笑った。


「母さんも、証人として、一緒に行く。朝日ちゃんが嘘をついてるわけじゃないって、ちゃんと説明するから」


 その言葉を聞いて、俺の胸が熱くなった。


「ありがとう、母さん」


「何言ってるの。朝日ちゃんは、もう家族みたいなものでしょ」


 母さんが、俺の頭を撫でた。


「心配しないで。きっと、うまくいくから」


「本当に?」


「ええ。だって、あの二人は、朝日ちゃんのことを、誰よりも知ってるもの」


 母さんが、真剣な顔になった。


「姿が変わっても、中身は朝日ちゃん。朝日ちゃんしか知らないこと、朝日ちゃんにしかできないことを見せれば、きっと信じてくれる」


「でも……もし、信じてもらえなかったら」


「その時は、その時よ」


 母さんが、はっきりと言った。


「でも、何もしないで後悔するより、やって後悔する方がいい。朝日ちゃんは、もう決めたんでしょ?」


「うん」


「だったら、私たちは応援するだけ。どんな結果になっても、朝日ちゃんを支えてあげる」


 母さんの言葉を聞いて、俺の不安が、少しだけ軽くなった気がした。


 母さんの言う通りだ。アリスは、もう決めた。だったら、俺がすべきことは、応援することだけだ。不安を口にして、アリスを動揺させることじゃない。


「分かった。来週の日曜日、三人で太刀川家に行こう」


「ええ」


 母さんが頷いた。


「朝日ちゃんに、伝えておくわね」


 その夜、俺は久しぶりにぐっすりと眠れた。まだ不安はあったけど、母さんがいてくれる。それだけで、心強かった。


 来週の日曜日。その日が、全てを変える。そんな予感がしていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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