父の背中
太刀川家での夕食から、三日が経った。
その間、アリスは少しずつ変わっていった。いや、変わったというより、何かが解けていった、と言う方が正しいかもしれない。学校でもいつも通り笑っているし、弁当も作ってくれるし、会話も普通にする。でも、時々見せる遠い目が、少しだけ減った。夜、俺の部屋に来て他愛もない話をする時間が、少しだけ増えた。アリスの中で、何かが動いている。それは確かだった。
火曜日の放課後。いつものように二人で下校していると、アリスが「ちょっと寄りたいところがある」と言った。
「どこに?」
「本屋。お母さん……恵さんに、おすすめの本を聞かれて」
アリスがそう言って、少し照れたように笑った。俺は、その言葉に少しだけ驚いた。恵さんとアリスが、そんな風に連絡を取り合っているのか。でも、それは悪いことじゃない。むしろ、いいことだ。母と娘が、形は違えど、繋がりを持ち始めている。
駅前の大きな書店に入ると、アリスは文庫本のコーナーへ真っ直ぐに向かった。棚を眺めながら、何冊か手に取っては戻し、また別の本を取る。その姿を見ていると、アリスが何を探しているのか、なんとなく分かった気がした。恵さんが好きそうな本。恵さんが読んで、喜んでくれそうな本。娘が母に贈る本を選んでいる。ただ、その娘は、母に「娘」として認識されていない。
「これにする」
アリスが手に取ったのは、有名な作家のエッセイ集だった。温かくて、少し切なくて、でも最後には優しい気持ちになれる。そんな本だと、表紙の帯に書いてあった。
「恵さん、喜ぶと思うよ」
「そうかな」
アリスが、嬉しそうに笑った。
会計を済ませて、店を出ようとした時だった。書店の入り口近くに、見覚えのある後ろ姿があった。グレーのジャケットに、黒いパンツ。少しだけ疲れたような背中。
健一さんだった。
ビジネス書のコーナーで、本を手に取っている。俺は、一瞬立ち止まった。声をかけるべきか、それともこのまま通り過ぎるべきか。迷っていると、健一さんがこちらを向いた。
目が合った。
健一さんは、一瞬だけ驚いたような顔をした。でも、すぐに表情を戻して、小さく頷いた。俺も頷き返した。その時、アリスが俺の袖を引いた。アリスも、健一さんに気づいていた。
「……太刀川さん」
俺が声をかけると、健一さんがゆっくりとこちらに歩いてきた。
「隆太郎くん。アリスさんも」
「こんにちは」
アリスが、丁寧に会釈した。健一さんは、じっとアリスを見ていた。あの日の夕食の時と同じ、何かを探すような目だった。
「本を?」
健一さんが、アリスの手元を見た。アリスは、少し驚いたように本を見せた。
「はい。恵さんに、おすすめの本を聞かれて」
「そうか」
健一さんは、短く答えた。それから、少し考えるような顔をして、口を開いた。
「……俺も、今から帰るところだ。良かったら、少し付き合ってくれないか」
俺とアリスは、顔を見合わせた。健一さんが、こんな風に誘ってくるなんて、珍しい。いや、初めてかもしれない。
「はい、もちろんです」
アリスが答えた。
※ ※ ※
健一さんに連れられて、俺たちが着いたのは、駅の近くにある小さな公園だった。平日の夕方、公園には人が少ない。ベンチに三人で座った。健一さんが真ん中で、俺とアリスが両脇に座る形になった。
しばらく、誰も何も言わなかった。風が吹いて、木の葉が揺れる音だけが聞こえる。夏が近いせいか、風は温かかった。健一さんは、前を向いたまま、何かを考えているような顔をしていた。俺も、アリスも、黙って待った。
やがて、健一さんが口を開いた。
「隆太郎くん」
「はい」
「アリスさんは……いい子だな」
その言葉に、俺は少しだけ驚いた。健一さんが、こんな風に人を評価するのを聞くのは、初めてだった。
「はい。本当に、いい子です」
「そうか」
健一さんが、小さく頷いた。それから、視線をアリスに向けた。
「アリスさん」
「はい」
アリスが、緊張したように答えた。
「この前、うちに来てくれて、ありがとう」
「いえ……こちらこそ、お邪魔しました」
「恵が、喜んでた」
健一さんの声が、少しだけ柔らかくなった。
「アリスさんと話すと、心が落ち着くって。久しぶりに、楽しく食事ができたって」
アリスが、息を呑んだ。俺も、驚いた。健一さんが、こんなに長く話すなんて。
「恵は……朝日が死んでから、ずっと辛そうだった」
健一さんが、遠くを見るような目をした。
「料理も、あまり作らなくなった。食べることにも、興味がなくなったみたいだった。でも、この前、アリスさんたちが来てくれて……久しぶりに、恵が笑ってた」
その言葉が、静かに空気に溶けていった。アリスは、何も言わなかった。でも、その目が、少しだけ潤んでいるのが見えた。
「だから……また、来てほしい」
健一さんが、アリスの方を向いた。
「恵のためにも。それに、俺も……」
健一さんが、そこで言葉を切った。何かを言いかけて、でも飲み込んだ。俺には、その「俺も」の続きが、何となく分かった気がした。この人も、アリスに会いたいと思っている。アリスといると、何かを感じる。それが何なのか、この人自身も分かっていないのかもしれない。でも、確かに感じている。
「……はい。また、お邪魔します」
アリスが、静かに答えた。
健一さんは、満足そうに頷いた。それから、また前を向いた。風が吹いて、木の葉が大きく揺れた。セミの声が、遠くから聞こえてくる。夏が、すぐそこまで来ている。
「隆太郎くん」
「はい」
「アリスさんを、大切にしてやれ」
健一さんが、俺を見た。その目は、真剣だった。
「はい」
「約束だぞ」
「約束します」
俺がそう答えると、健一さんは少しだけ笑った。その笑顔を見るのは、朝日が生きていた頃以来だった。
※ ※ ※
公園を出て、健一さんと別れた。健一さんは「じゃあな」と言って、駅の方へ歩いていった。その後ろ姿は、少しだけ軽くなったように見えた。
俺とアリスは、しばらくその場に立っていた。
「朝日」
「うん」
「大丈夫か?」
アリスは、少し間を置いてから答えた。
「……お父さん、優しかった」
アリスの声が、かすかに震えていた。
「お父さん、あんなにたくさん話すの、久しぶりだった。昔から、無口な人だったけど……」
アリスが、空を見上げた。
「でも、大事なことは、ちゃんと言ってくれる人だった。『朝日、頑張ったな』とか、『朝日は俺の自慢の娘だ』とか。そういうの、照れながら言ってくれた」
アリスの目から、一筋の涙が流れた。でも、それは悲しい涙じゃなかった。懐かしさと、温かさと、愛しさが混じった涙だった。
「今日も、同じだった。言葉は少ないけど、ちゃんと気持ちが伝わってくる。お父さんらしかった」
アリスが、俺を見た。
「ねぇ、隆太郎。私、やっぱり……」
アリスが、そこで言葉を止めた。続きを言うのを、躊躇っている。俺は、黙って待った。
「……お父さんとお母さんに、本当のことを言いたい」
その言葉が、静かに、でもはっきりと告げられた。俺は、アリスの目を見た。その目には、迷いがなかった。決意が、宿っていた。
「本当に、いいのか?」
「怖い。すごく怖い。信じてもらえないかもしれないし、変な目で見られるかもしれない」
アリスが、唇を噛んだ。
「でも、このままじゃ、もっと辛い。お母さんが『朝日と話してる時みたい』って言ってくれたの、すごく嬉しかった。でも、同時に、悲しかった」
アリスの手が、胸のあたりを握った。
「私、ここにいるのに。本物の朝日が、ここにいるのに。なんで気づいてくれないんだろうって」
その言葉に、俺の胸も痛んだ。アリスが感じている苦しさを、俺は完全には理解できない。でも、その一端は、分かる気がした。
「時間をかけて、ゆっくり考えよう」
俺が言った。
「焦らなくていい。お前が本当に準備ができた時に、話せばいい」
「うん」
アリスが頷いた。
「ありがとう、隆太郎。いつも、傍にいてくれて」
「当たり前だ」
俺は、アリスの頭を撫でた。アリスが、目を細めた。
帰り道、二人は手を繋いで歩いた。夕暮れの空が、オレンジ色に染まっている。夏の匂いが、風に乗ってくる。もうすぐ、本格的な夏が来る。その夏に、何かが変わるような、そんな予感がしていた。
俺は、アリスの手を握りながら、思った。どんな結果になっても、俺はアリスの味方でいる。それだけは、絶対に変わらない。
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