家族との団欒
カフェでの一件から、一週間が経った。
あの日、恵さんから聞いた話が、ずっと頭の中に引っかかっていた。朝日を突き落とした人間がいるかもしれない。警察が捜査している。朝日のお父さん――健一さんが、自分でも動いている。そんな話を聞かされて、何事もなかったように日常を送るのは、俺には難しかった。授業中も、ふとした瞬間にあの言葉が浮かんでくる。誰かが意図的に、朝日をホームから突き落とした。その誰かは、今もどこかで普通に生きている。そう思うと、胸の奥に、じわりとした怒りが広がった。
アリスは、俺よりずっと落ち着いているように見えた。いや、正確には、落ち着いて見せていた。学校では相変わらず笑顔で、弁当を作り、授業に集中し、クラスメイトと話す。でも夜、一人になった時に何を考えているのか、俺には分からなかった。自分の命を奪った誰かのことを、どんな気持ちで胸に収めているのか。聞きたいような、聞くべきではないような。その迷いが、俺の中でくすぶっていた。
土曜日の昼過ぎ。俺が自分の部屋で参考書を開いていると、スマートフォンが鳴った。見知らぬ番号だった。一瞬迷ってから、電話に出る。
「もしもし、宮本隆太郎くん?」
聞き覚えのある声だった。
「……恵さん?」
「そう! 良かった、繋がった。番号は隆太郎くんのお母さんに聞いたの。突然でごめんなさいね」
母さんが教えたのか。考えてみれば、太刀川家と宮本家は昔から付き合いがある。母さんに連絡が来ても、何もおかしくない。
「いえ、大丈夫です。どうかしましたか?」
「実はね、今日少し料理を作りすぎてしまって。隆太郎くんとアリスちゃん、良かったら夕飯食べに来ない? お母さんも一緒にどうぞって」
俺は、少し言葉に詰まった。恵さんの家に、アリスを連れていく。それは、アリスにとって、どれほどのことか。自分が育った家ではないかもしれないけれど、両親が暮らす場所だ。
「少し待ってもらえますか。アリスに確認します」
「もちろん。ゆっくりでいいわよ」
俺は電話を保留にして、廊下に出た。隣の部屋のドアをノックすると、すぐに返事が返ってきた。
「どうぞ」
アリスは、ベッドの上でぬいぐるみを抱えながら、文庫本を読んでいた。俺が入ってきたのを見て、本から目を上げる。
「どうしたの?」
「恵さんから電話があった。今日、夕飯を食べに来ないかって」
アリスの手が、本のページを押さえたまま、止まった。表情が、一瞬だけ固まった。でも、俺の目を見て、小さく息を吸った。
「……行く」
「無理しなくていいぞ」
「無理じゃない」
アリスがそう言って、ぬいぐるみをベッドに置いた。その動作が、いつもより少しだけゆっくりだった。
※ ※ ※
太刀川家は、引っ越してきたばかりということもあって、まだどこか生活感が薄かった。きちんと整えられているのに、どこか仮住まいのような、落ち着ききれていない空気がある。
玄関に入った瞬間、俺はそれを感じた。ダンボール箱こそもうないが、壁に飾られた絵も、棚に並んだ小物も、まだ「置かれたばかり」の雰囲気をしていた。長く住んだ家を離れて、この街に来た。そこには、前の家には居続けられなかった理由があった。
恵さんが、嬉しそうに俺たちを出迎えた。エプロン姿で、手に鍋つかみを持っている。
「来てくれてありがとう。ちょうど煮込みが完成したところよ」
「お邪魔します」
アリスが、丁寧にお辞儀をした。靴を脱ぐ時、俺はアリスの横顔をちらりと見た。静かだった。何かを押さえ込んでいるような、でも穏やかな顔だった。
リビングに通されると、健一さんがソファに座っていた。新聞を読んでいたが、俺たちを見て、静かに立ち上がった。
「隆太郎くん、久しぶりだな」
「お邪魔します。太刀川さん、ご無沙汰してます」
「ああ」
健一さんは、多くを話さない人だ。朝日の葬儀の時も、そうだった。恵さんが泣きながら参列者に頭を下げ続けていた時、健一さんはその隣で、ただ静かに立っていた。口数が少ない分、その存在感が重かった。娘を失った父親の重さが、その沈黙に滲んでいた。
「こちらが、白金アリスです。うちにホームステイしてます」
俺が紹介すると、健一さんがアリスを見た。アリスが会釈する。健一さんも、短く頷いた。
「……よろしく」
「よろしくお願いします」
そのやり取りだけで、二人の会話は終わった。でも、健一さんの目が、アリスをじっと見ていた。不審そうではない。ただ、何か引っかかるものを感じているような、そんな目だった。俺はそれに気づいて、内心どきりとしたが、何も言わなかった。
※ ※ ※
夕飯は、肉じゃがと焼き魚、それにほうれん草のおひたしと味噌汁という、ごく普通の家庭料理だった。でも、その「普通」が、この食卓にいる全員に、それぞれの意味で刺さっていた。
アリスが、肉じゃがを口に運んだ瞬間、その手が止まった。
ほんの一瞬のことだった。箸を持つ手が、静止した。そして、何事もなかったようにまた動き始める。でも俺は、見ていた。アリスの目が、わずかに揺れたのを。
この味を、アリスは知っているのだ。太刀川朝日として生きていた頃に、何度も食べた味。恵さんが作る肉じゃがの味を、体が覚えているのだ。
「美味しいです」
アリスが、静かに言った。
「本当に? 良かった。レシピは朝日から教わったのよ、実は」
恵さんが、少し照れたように笑った。
「え、朝日から?」
思わず俺の口から、言葉が漏れた。
「そう。あの子、料理が好きでね。高校生の頃から、色々作ってくれてたの。肉じゃがも、朝日が『お母さんの作り方、少し変えてみて』って言って、二人で試行錯誤したのよ」
アリスが、また箸を止めた。今度は、俺にも分かるくらい、はっきりと。
「……そうなんですか」
「うん。だから、これを食べると、朝日のことを思い出すの。困ったことに、美味しければ美味しいほど」
恵さんが、苦笑した。その苦笑の裏に、どれだけの痛みがあるか。俺には、想像しかできなかった。
アリスは、俯いていた。テーブルの下で、俺はそっとアリスの手に触れた。アリスの手が、ぴくりと動いた。それから、指を絡めてきた。食卓の下で、誰にも見えないように。俺は、そのまま握り返した。
「朝日、こういう家庭料理が好きだったんですよね」
俺が言った。話題を続かせることで、アリスに時間を作ってやりたかった。
「大好きだったわよ。外食よりも、家のご飯の方が好きだって言ってた。『お母さんの味が一番』って」
恵さんの声が、最後の方で少し細くなった。健一さんが、黙って味噌汁を飲んだ。この家の食卓に、いつも三つあったはずの椅子が、今は二つしか使われていない。その事実が、食卓の空気にひっそりと混じっていた。
アリスが、顔を上げた。目が、少し赤くなっていた。でも、声は穏やかだった。
「お母さんの味って、ずっと残るものですよね。私も、アメリカにいた頃、よく懐かしくなって。体が覚えてるんだと思います」
「そうね。体が覚えてるって、言い得て妙だわ」
恵さんが、優しく笑った。
食事が終わって、恵さんがお茶を淹れてくれた。リビングのソファに腰を落ち着けて、四人でゆったりとした時間が流れた。健一さんは相変わらず口数が少なかったが、時折、アリスの方をじっと見ていた。アリスも、それに気づいているはずだった。でも、二人は互いに視線を合わせようとしなかった。父と娘が、全く別の人間として、同じ空間に座っている。その奇妙さが、俺の胸を締め付けた。
「アリスちゃんって、朝日と同じ歳くらいよね」
恵さんがアリスに、ふと言った。
「はい、多分」
「そっかぁ……なんでかしら。あなたといると、すごく落ち着くのよね」
恵さんが、不思議そうに笑った。
「初めて会った気がしないって言うか。朝日と話してる時みたいな、そういう感覚」
アリスが、静かに微笑んだ。何も言わなかった。でも、その目には、言葉にならない何かが浮かんでいた。俺は、膝の上で手を握りしめた。
その時、健一さんが、珍しく口を開いた。
「アリスさんは……日本に来て、どのくらいになる?」
健一さんにしては、長い言葉だった。アリスが、健一さんの方を向いた。
「三ヶ月くらいです」
「そうか」
健一さんは、また黙った。でも、視線はアリスから離れなかった。何かを探しているような目だった。あるいは、何かを確かめようとしているような。俺は、その視線が少し怖かった。この人は、勘が鋭い。恵さんと同じように、あるいはそれ以上に、何かを感じ取っているのかもしれない。
帰り際、玄関で靴を履いていると、恵さんが「また来てね」と言った。その言葉が、本心から出ていることは、表情を見れば分かった。アリスが「ぜひ」と答えた時、その声が、わずかに震えていた。
※ ※ ※
外に出ると、夜の空気が漂っていた。七月の夜は、もう確実に夏が迫っている気する。俺とアリスは、しばらく並んで歩いた。街灯の光が、二人の影を交互に伸ばしていく。アリスは、ずっと黙っていた。その沈黙を、俺は破れなかった。アリスの中で、今、何かが整理されているのだろう。そう思って、ただ隣を歩いた。
「大丈夫だったか?」
一分ほど歩いてから、俺が聞いた。アリスは、少し間を置いてから答えた。
「……肉じゃが、全部食べたよ」
「ああ」
「美味しかった。当たり前だけど、全部覚えてた。あの味、ずっと好きだったから」
アリスの声が、夜の空気に溶けていった。
「お母さんね、あのレシピ、ちゃんと守ってくれてた。私が少し変えてって言ったところ、全部ちゃんと」
アリスが立ち止まった。俺も、足を止めた。
アリスは、空を見上げていた。夜空には、星がいくつか見えた。夏が近いせいか、星がやけにくっきりしている。
「嬉しかった。すごく、嬉しかった」
アリスの声が、かすかに震えていた。
「でも、悲しくて。嬉しいのに、悲しいの。変だよね」
「変じゃない」
俺は、即座に言った。
「変じゃないよ。当たり前だろ、そんなの」
アリスが、俺を見た。その目に、涙が浮かんでいた。でも、こぼれなかった。こらえていた。
「隆太郎」
「ん」
「ありがとう。今日、一緒に来てくれて」
「当たり前だ」
俺は、アリスの手を握った。アリスが、握り返してくる。その手は、冷たかった。俺は、両手でアリスの手を包んだ。しばらく、そうしていた。街灯の下に、二人分の影が重なっていた。
「帰ろう」
「うん」
二人は、また歩き始めた。冷たい夜風が、金髪をそっと揺らした。アリスは、もう泣いていなかった。でも、その横顔には、今夜の食卓で感じたものが、まだ静かに残っていた。嬉しさと、悲しさと、もどかしさが、全部ひとまとめになって。
俺は、ただ隣を歩いた。それだけでいいと思っていた。今の俺に、できることは、それだけだったから。
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