事故の余韻
太刀川恵さんと商店街で鉢合わせてから、数日が経った。
あの日以来、アリスは少しだけ静かになった。いつもなら朝から元気よく俺の部屋に飛び込んでくるのに、最近は少しだけ遅い。弁当は相変わらず丁寧に作ってくれるし、学校でも笑顔を見せる。会話だって普通にする。でも、ふとした瞬間に、遠いところを見つめる時間が増えた。窓の外を見ながら、あるいは何でもない天井を見上げながら、アリスは何かを考えている。その横顔が、俺には心配でならなかった。
声をかけるべきか、それとも黙って見守るべきか。その判断が、なかなかつかなかった。アリスが感じているものは、俺には完全には理解できない。一度死んで、姿を変えて、自分の親と顔を合わせながら名乗ることもできない。そんな経験を、俺は持っていない。だから、軽々しく「大丈夫か」と聞くことが、かえって失礼な気がした。ただ、隣にいること。それしか、今の俺にはできなかった。
木曜日の放課後。いつものように二人で帰っていると、アリスが突然立ち止まった。
「ねぇ、隆太郎。郵便局って、このあたりにある?」
「郵便局? ああ、駅の反対側に出て、少し歩いたところにあるぞ」
「ちょっと寄ってもいい? 百合子さんに頼まれた荷物、出したいから」
「おう、いいよ」
俺たちは、駅の反対側へと歩いた。平日の夕方、商店街とは少し離れたこのエリアは、静かだった。住宅と小さな店が混在していて、子供が自転車で通り過ぎていく。どこかの家から、夕飯の匂いが漂ってきた。
郵便局で荷物を出して、外に出た時だった。斜め向かいの小さな花屋の前に、見覚えのある後ろ姿があった。紺色のカーディガンに、ゆったりとしたパンツ。少し丸まった背中で、店先に並べられた鉢植えを眺めている。
太刀川恵さんだった。
俺は、隣のアリスを見た。アリスも、すでに気づいていた。その足が、ほんの少しだけ止まりかけて、でもすぐに前へ踏み出した。
「恵さん」
俺が声をかけると、恵さんが振り返った。驚いた顔が、すぐに笑顔に変わる。
「あら、隆太郎くん! こんなところで。アリスちゃんも一緒なの?」
「はい。こんにちは」
アリスが、穏やかに会釈した。その動作は自然で、落ち着いていた。でも、俺の目には、アリスの手がかすかに握られているのが見えた。誰にも気づかれないくらいの、小さな緊張の表れだった。
「お花、買いに来たんですか?」
アリスが聞いた。
「ええ。仏壇に飾るのを切らしてしまって」
恵さんが、少し照れたように言った。仏壇。朝日のための仏壇だ。引っ越し先にも、もちろん設けているのだろう。花を絶やさないように、こうして買いに来る。その日常の積み重ねの中に、恵さんがいかに娘の死と向き合って生きているかが、にじみ出ていた。
「どれにしようか迷っちゃって。朝日、白い花が好きだったんだけど、今日は白いのがあんまりなくて」
恵さんが、棚に並んだ花束を眺めながら言った。その声は、穏やかだった。娘の好みを語る時、恵さんはいつも、なるべく穏やかでいようとする。それが伝わってくるからこそ、俺には聞いていて辛かった。
アリスが、花屋の棚をゆっくりと眺めた。そして、少し奥の方に並んでいた一束を、静かに手に取った。白い小花がまとまった、シンプルな花束だった。
「これ、どうですか。スターチスですけど、花持ちがいいので。仏花にもよく使われます」
恵さんが、アリスが差し出した花束を受け取って、じっと見つめた。
「まぁ、綺麗ね。……あなた、花に詳しいの?」
「少しだけ。昔、好きで調べてたので」
アリスが答えた。俺は、その言葉の裏を知っていた。昔、太刀川朝日として生きていた頃に、好きで調べていたのだ。
「朝日も、花が好きでね。よく一緒に花屋さんに来たわ」
恵さんが、花束を胸に抱えるようにしながら言った。その仕草が、どこか愛おしいものを抱きしめるようで、俺は視線を逸らした。
「せっかくだし、帰りにお茶でもどう? この近くにカフェとかあるかしら」
恵さんが、明るく言った。アリスが、一瞬だけ俺を見た。俺も、アリスを見た。断るべきか、という迷いが、二人の間に一秒ほど流れた。でも、アリスは微笑んだ。
「ちょうどこの先に、静かで落ち着いたお店があります。よかったら」
「まぁ、案内してくれるの? 助かるわ」
※ ※ ※
三人でカフェに入った。平日の夕方は空いていて、窓際の席に並んで座ることができた。コーヒーの香りが、店内に漂っている。恵さんはホットのカフェラテを頼んで、アリスはカモミールティー、俺はアイスコーヒーを注文した。
注文を終えると、しばらく三人で窓の外を眺めた。夕暮れが近く、空の端が薄いオレンジ色に染まり始めている。通り過ぎる人々の影が長くなっていく。誰も何も言わなかったが、その沈黙は決して重くなかった。どこか、不思議と落ち着く時間だった。
最初に口を開いたのは、恵さんだった。
「アリスちゃん、日本はどう? 生活、慣れた?」
「はい。最初は戸惑うことも多かったですけど、今は楽しいです。学校の友達も増えましたし」
「そう。良かった。一人で外国に来るって、すごく勇気がいることよね」
恵さんが、温かい目でアリスを見た。その眼差しが、まるで娘を見るような柔らかさだった。俺は、それに気づいて、少しだけ胸が痛んだ。
「隆太郎くんが傍にいるから、心強いわよね」
「はい。隆太郎がいないと、不安で」
アリスが、俺の方をちらりと見ながら言った。その言葉には、冗談のような軽さの中に、本音が混じっていた。アリスが俺を頼っているのは、単に彼氏だからというだけじゃない。転生してこの世界に戻ってきた時から、俺だけが自分を知っている。その孤独を、俺だけが分かっている。そういう意味での「いないと不安」だということを、俺は知っていた。
「隆太郎くんは、昔から優しい子よ。朝日もよく言ってた。『隆太郎は絶対に誰かを見捨てない』って」
恵さんが、コーヒーカップを両手で包みながら言った。俺は、返事ができなかった。朝日がそんなことを言っていたとは、知らなかった。
「朝日が隆太郎くんを好きだって、うすうす気づいてたのよ、私」
恵さんが、少し遠い目をした。
「でも、隆太郎くんには別に好きな子がいたから、黙ってるんだって言って。私が『言いなさいよ』って言っても、首を横に振って。あの子、そういうところが頑固でね」
その話を聞いて、アリスの手がテーブルの上でかすかに動いた。俺には分かった。こらえているのだ。自分の話を、他人として聞いている。その苦しさを、表情に出さないようにしながら。
しばらく沈黙が続いた後、恵さんがカップをソーサーに静かに置いた。その音が、やけに大きく聞こえた。
「……実はね」
恵さんが、少し声を落とした。
「朝日の死、事故じゃないかもしれないって、警察の人が言ってるの」
俺は、息を呑んだ。アリスが、微動だにしなかった。
「ホームに朝日を突き落とした人間がいるかもしれないって。目撃情報も出てきて、今も捜査中らしくて……」
恵さんの声が、かすかに震えた。でも、崩れなかった。この話を、何度も繰り返してきたのだろう。繰り返すたびに、少しずつ声が安定していく。そういう、痛ましい練習をしてきた人の話し方だった。
「犯人が分かるまでは、気持ちの整理がつかなくて。引っ越しても、結局毎日そのことばかり考えてるわ」
恵さんが、苦しそうに微笑んだ。
「夫は表に出さないけど、あの人なりに必死で動いてる。弁護士に相談したり、自分でも情報を集めたり。あの子の死を、誰かのせいにしたいわけじゃないけど……でも、もし本当に誰かが朝日を……」
そこで、恵さんは言葉を切った。続きは、言えなかったのだろう。
俺は、テーブルの下で拳を握った。アリスの横顔を、盗み見た。アリスは、静かに前を向いていた。その目が、普段より少し遠い場所を見ていた。自分を突き落とした誰かのことを、今、この瞬間に考えているのかもしれない。
「……犯人が見つかるといいですね」
アリスが、静かに言った。その声に、感情の揺れはなかった。でも、俺には分かった。その穏やかさを作るのに、どれだけの力が要ったか。
「ええ。見つかってほしい。朝日のためにも、私たち自身のためにも」
恵さんが、頷いた。
「……それでも、伝えてくれたんです。最後に」
アリスが、静かに言った。
恵さんが、顔を上げた。その目に、驚きと、何か別のものが混じっていた。
「隆太郎くんから聞いたの?」
「はい。あの……朝日さんが亡くなる前の日に、ちゃんと伝えてくれたって」
アリスがそう言うと、恵さんは少し目を細めた。それから、ゆっくりと頷いた。
「そう……そうよね。あの子らしい。最後の最後で、ちゃんと言えたのね」
恵さんが、小さく笑った。でも、その笑顔の端に、涙がにじんでいた。こぼれる前に、恵さんはカップに口をつけた。俺は、視線をテーブルに落とした。
その時、アリスが口を開いた。
「朝日さんは……幸せだったと思います」
恵さんが、アリスを見た。
「最後まで、大切な人の傍にいられて。好きな人に、気持ちを伝えられて。それって、すごく幸せなことだと思うから」
アリスの声は、穏やかだった。でも、その言葉の奥に、どれほどのものが詰まっているか。俺には分かっていた。これはアリスが、自分自身に言い聞かせている言葉だ。怖くなかったか、悔しくなかったか、もっと生きたかったか。そういう感情を全部飲み込んで、それでも「幸せだった」と言える強さが、アリスにはある。
「ありがとう、アリスちゃん」
恵さんが、静かに言った。
「そう言ってもらえると、少し楽になる気がするわ」
三人の間に、穏やかな沈黙が流れた。窓の外では、街灯が一つずつ灯り始めていた。オレンジ色の空が、少しずつ紺色に変わっていく。カフェの中は温かく、コーヒーの香りが満ちていた。
しばらくして、恵さんが「また会いましょう」と言って、席を立った。会計を済ませようとすると、恵さんが「今日は私が出すわ」と言い張って、俺たちの分まで払ってくれた。「こんな若い子たちに出させたら、朝日に怒られちゃうもの」と笑いながら。
カフェを出て、恵さんと別れた。恵さんの後ろ姿が、夕暮れの中に消えていくのを、俺とアリスは並んで見送った。
しばらく、二人とも動かなかった。
「朝日」
「うん」
「さっき、幸せだったって言ってたな」
「……うん」
「本当に、そう思ってるか?」
アリスは、少し考えてから答えた。夕風が、金髪をそっと揺らした。
「思ってる。ちゃんと、本当に思ってる」
アリスが俺を見た。その目は、澄んでいた。
「でも、もっと生きたかったのも本当。お母さんともっと話したかった。お父さんにも、ちゃんとありがとうって言いたかった。だから……」
アリスが、空を見上げた。
「今度こそ、ちゃんと言いたい。この体でも、ちゃんと伝えたい」
その言葉が、静かに夕空に溶けていった。俺は何も言わなかった。ただ、アリスの手を握った。アリスは握り返しながら、空を見上げたまま、少しだけ目を細めた。
帰り道、二人はほとんど何も話さなかった。でも、繋いだ手だけは、ずっと離さなかった。それが、今の俺たちにできる、唯一のことだった。
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