再会の予感
その日は、特別なことが何も起きない、穏やかな土曜日のはずだった。
俺とアリスは、駅前の商店街を並んで歩いていた。特に目的があったわけではない。アリスが「散歩したい」と言い出して、二人でぶらぶらと歩き始めた。それだけのことだ。午後の陽射しが、アスファルトに長い影を作っている。商店街はほどよく賑わっていて、八百屋のおじさんが大声で値段を叫び、子供たちが店先を走り回っている。どこにでもある、普通の休日の風景だった。
アリスは機嫌が良かった。俺の腕にしがみつきながら、ショーウィンドウに飾られた洋服を見ては「あれ可愛い」と言い、菓子屋の前で立ち止まっては「食べたい」とねだる。その度に俺は苦笑いを浮かべながら、流されるままについていく。こういう何でもない時間が、最近の俺には妙に心地よく感じられた。白州と付き合っていた頃は、こんな風に気を抜いて歩けなかった。常に何かを気にしていた。でも今は違う。アリスといると、ただそこにいるだけでいい。
「ねぇ、あっちの路地に入ってみようよ」
アリスが俺の腕を引っ張った。細い路地の奥に、古い雑貨屋が見える。
「お前、本当に好奇心旺盛だな」
「だって、楽しいじゃん♡」
アリスがニッコリ笑った。俺は、仕方なく引っ張られるまま路地に入った。
その雑貨屋は、こぢんまりとした店だった。入り口には鉢植えが並べられていて、店内には古道具や民芸品が所狭しと並んでいる。どこか懐かしい匂いがした。アリスは目を輝かせて、棚を端から眺めていく。陶器の置物を手に取っては戻し、小さな写真立てを眺めては「可愛い」と言う。
俺は、少し離れたところで本棚を眺めていた。古い文庫本が、背表紙を揃えてびっしりと並んでいる。俺が一冊を手に取った、その時だった。
「隆太郎くん?」
聞き覚えのある声が、背後から聞こえた。俺は振り返った。
太刀川恵さんが、エコバッグを提げて立っていた。朝日の、お母さんだ。朝日の葬式で何度も手を握って、「隆太郎くんがそばにいてくれて、朝日は幸せだったわ」と泣いていた人。以来、何度か自宅に訪ねてきた母さんと一緒にお邪魔したこともある。俺にとっても、見慣れた顔だった。
でも、あの葬式の日から比べると、少し痩せた気がする。頬のあたりが、ほんの少しだけ、こけているような。
「恵さん。こんにちは」
「久しぶりね。元気にしてた?」
恵さんが、温かく笑った。でも、その目尻には、以前より深いシワが刻まれている。笑顔の奥に、疲れが滲んでいた。そんな顔を見ていると、胸の奥がじんと痛む。朝日を亡くしてから、この人はずっと、こういう顔をして生きてきたのだろう。
「はい、おかげさまで。恵さんは? こちらには……」
「ええ、先月引っ越してきたの。夫と二人でいても、何か気分転換が必要かなって思って。前の家は、朝日の思い出が多すぎて……」
恵さんが、少し遠い目をした。俺は、返す言葉を探したが、何も見つからなかった。引っ越した。それはつまり、もう朝日の部屋も、朝日が触れた壁も、全部置いてきたということだ。それがどれほどの決断だったか、俺には想像もできない。
その時、俺の腕にしがみついていたアリスが、棚の向こうから顔を出した。
「隆太郎、見てこれ、可愛くない? って、あれ?」
アリスが恵さんを見た瞬間、その動きが止まった。まるで、時間が凍りついたかのように。俺は、アリスのその変化を、はっきりと目で捉えた。表情が消えた。次の瞬間には笑顔を取り戻していたが、その一瞬の空白が確かにあった。
恵さんは、アリスに気づいて目を丸くした。
「あら、彼女? 可愛らしい子ね。外国の方?」
「あ、はい……」
アリスが、一歩前に出た。その声が、かすかに震えているのを、俺だけが聞き取った。
「白金アリスといいます。アメリカから来ました」
「まぁ、日本語がお上手ね。私は太刀川恵。隆太郎くんとは、昔からの知り合いなの」
恵さんが、人懐っこい笑顔でアリスに話しかけた。朝日そっくりの、誰に対しても分け隔てのない笑顔だ。アリスは、その笑顔を正面から受け止めながら、微笑みを崩さなかった。でも、俺には分かった。その瞳が、わずかに揺れていた。
俺は、二人の会話を聞きながら、内心で整理していた。恵さんは、アリスのことを「隆太郎の彼女」として認識している。目の前に立っている金髪の女の子が、自分の娘だとは、夢にも思っていない。当然だ。姿が全く違う。声も、背格好も、名前も何もかもが違う。でも、俺には分かる。アリスの中に、確かに太刀川朝日がいる。
「朝日ちゃんのこと、知ってる? 隆太郎くんと仲良かった子」
恵さんが、ふとアリスに聞いた。
アリスの全身が、一瞬硬直した。本当に一瞬のことで、恵さんは気づいていない。でも俺には、はっきりと見えた。
「……はい。隆太郎から聞いています」
アリスが、静かに答えた。
「そう。あの子、本当にいい子だったのよ。隆太郎くんのことも、ずっと大切に思ってて……」
恵さんの声が、少し揺れた。それでも、崩れなかった。慣れているのだ。娘の話をしながら、泣かないように、笑えるように。そういう練習を、この人はきっと、何百回もしてきたのだろう。
アリスは、下を向いた。
「……素敵なお嬢さんだったんですね」
「ええ。本当に、かけがえのない子だった」
恵さんが、優しく笑った。
しばらくして、恵さんは「また会いましょうね」と言って、店を出ていった。扉が閉まると、店内に静寂が戻った。
俺は、アリスの方を向いた。アリスは、扉が閉まった方向を、じっと見つめていた。その横顔に、泣きそうな、でも泣けない、そんな複雑な色が浮かんでいた。
「朝日」
俺が声をかけると、アリスはゆっくりと俺を向いた。
「……お母さん、痩せてた」
アリスが、ぽつりと言った。声に、力がなかった。
「ああ」
「前よりも、ずっと。顔色も、なんか……」
アリスが言葉を止めた。続きを言ったら、泣いてしまいそうだったから。俺には、そう見えた。
俺は、黙ってアリスの手を握った。アリスの手が、きつく握り返してくる。
商店街の喧騒が、ガラス越しに聞こえていた。何も知らない世界が、いつも通りに流れている。でも俺たちだけが、静止しているような気がした。
「帰ろうか」
俺が言った。アリスは頷いた。俺たちは、並んで店を出た。アリスは、ずっと俺の手を握ったまま、離さなかった。その手の温度が、俺の胸を締め付けた。
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