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9話 辺境の入口

山へ入ってからの数日は、思ったより静かだった。


もちろん何も無かった訳じゃない。


夜中、野営地の外をうろついていた野犬崩れの魔物。

崖沿いに巣を作っていた山猿。

荷馬車の匂いに釣られて寄ってきた小型魔物。


そういう類の面倒は何度かあった。


だが、ラグス達が前へ出れば大体終わる。


フィンが先に異変へ気付き、フェルが位置を潰し、カイルが近付いた相手を処理する。


少しずつ連携が形になり始めていた。


ルードも時々口を挟んだ。


「そっち、ぬかるむぞ」


実際、少し進めば雨水の溜まった窪地がある。


「左寄れ。端が崩れてる」


見れば、街道脇の土が崩れかけていた。


片腕でも、戦場と山道の経験は消えないらしい。


戦えなくても価値は残る。


俺の見立ては、今のところ間違っていなかった。


三日後。


辺境へ差し掛かった辺りで、景色がはっきり変わり始めた。


街道は荒れている。


中央付近では定期的に整備されていた道も、ここではほとんど放置されていた。


石畳なんてとっくに消えている。


剥き出しの土は雨で削れ、深い轍が何本も残っていた。

荷馬車の車輪が段差へ引っ掛かるたび、積み荷が鈍い音を立てる。


左右の森も深かった。


枝葉は好き勝手に伸び、場所によっては昼でも薄暗い。


人の手が入っていない。


中央側の街道とは、空気そのものが違った。


道端には、朽ちた荷車が半ば埋まるみたいに転がっている。


車輪は片方外れ、荷台には苔が生えていた。


近くの木には、古い縄の跡まで残っている。


辺境は、人より先に道が死ぬ。


商人をやっていると、そういう場所が分かるようになる。


人が通らなくなった道は、驚くほど早く腐る。


「辺境って感じだな」


フェルが周囲を見回しながら言う。


「感じじゃなくて辺境だ」


ラグスが返した。


軽口だったが、誰も笑わなかった。


風が吹く。


湿った森の匂いに混じって、獣臭さも濃い。


フィンは荷馬車の後ろからずっと周囲を見ていた。


耳だけじゃない。


時々、鼻先を風へ向けている。


ライノは揺れる荷台の縁を掴みながら、小さく周囲を見回した。


「人、減ったな」


ここ数時間、まともな旅人とほとんどすれ違っていない。


商隊も無い。


あるのは古い轍の跡だけだ。


「中央の連中は、この辺まで来たがらねぇ」


ルードが前を見たまま呟く。


「割に合わねぇからな」


その時だった。


風を裂くみたいな悲鳴が、森の奥から響いた。


男の声だ。


一つじゃない。


怒鳴り声に混じって、獣の低い唸り声まで聞こえる。


馬が驚き、鼻を鳴らして首を振った。


ラグスが足を止める。


振り返った視線が、真っ直ぐこっちへ向いた。


「ジェイド。向かうか?」


護衛依頼だ。


勝手に危険へ首を突っ込む訳にはいかない。


俺は少しだけ耳を澄ませた。


また悲鳴が聞こえる。


短い。


余裕のある声じゃない。


「助けられそうなら助けろ」


俺は言う。


「無理はするな」


「了解」


ラグスの声が少し低くなる。


空気が切り替わった。


フェルが弓を持ち直し、カイルが剣の柄へ手を掛ける。


フィンはもう森の奥を見ていた。


「あっち」


短く言う。直ぐにラグス達が先行する。


俺は荷馬車から離れない。護衛対象が先頭へ突っ込むのは論外だった。


馬を落ち着かせながら後ろから進む。


森へ入るにつれ、音が大きくなっていく。


木々を揺らす音。

怒鳴り声。

金属音。


それに混じって、獣の唸り声が近い。


湿った枝葉が肩へ触れる。


足元には古い落ち葉が厚く積もっていた。


踏むたび、嫌な湿り気が靴裏へ張り付く。


進む途中、ラグスが小さく笑った。


「なんか思い出すな」


「何がだ」


俺が聞き返す。


「あんたと初めて会った時」


ラグスは前を向いたまま続けた。


「あの時も、厄介事に首突っ込んでた」


「そっちは助けられる側だったろ」


「違いねぇ」


後ろでフェルが吹き出す。


「まあ、あの時より面子は豪華だけどな」


その直後、木々が途切れた。


血の匂いが一気に濃くなる。


開けた場所だった。


そこにいたのは、6人ほどの男達。


若いのも、中年もいる。


だが、全員装備が貧相だった。


薄い革鎧。

欠けた片手剣。

先端の歪んだ槍。


まともな鉄を使えていない。


刃を見れば分かる。何度も研ぎ直し、無理矢理使い続けた武器だ。


その周囲を、白い影が取り囲んでいた。


シルバーウルフ。


白銀の毛並みを持つ狼型魔物だ。


普通の狼より一回り大きい。


低く唸りながら、黄色い目で獲物を見ている。


数は10を超えていた。


多い。


しかも、既に1人やられている。


腹を裂かれ、倒れたまま動かない。


別の男は足を噛まれたらしく、地面へ倒れ込んでいた。


「クソッ! 来るな!」


槍を振り回しているが、押されている。


一匹が前へ出る。そこへ男が慌てて槍を突き出した。


その瞬間、別個体が横から回り込む。


嫌な動きだった。


頭が回る。


下手な野盗より余程厄介だ。


「まずいな」


ラグスが低く呟く。


「数が多い」


その瞬間、一匹が負傷した男へ飛び掛かった。


カイルが地面を蹴る。


土が跳ねる。


次の瞬間には、白い毛が宙を舞っていた。


剣閃が遅れて目へ入る。


シルバーウルフの身体が横へ吹き飛んだ。


ラグスも前へ出る。


大盾が鈍い音を立て、別個体を真正面から弾き飛ばした。


フェルの矢が飛ぶ。


白い毛並みの隙間へ吸い込まれるみたいに突き刺さった。


短い悲鳴。


シルバーウルフ達が一斉に散開する。


囲むつもりだ。


俺も流石にまずいと思い、荷台から剣を引っ張り出した。だが、重い。

握り方からして怪しいのが自分でも分かる。


ルードが横目でこっちを見て、小さく笑った。


「腰引けてるぞ」


「うるせぇ」


返しながらも、視線は忙しなく周囲を追う。

前衛が崩れれば、こっちまで一気に来る。


それくらいは分かった。


フィンはもう前へ出ていた。


木々の間を走る。


速い。


枝葉を避ける動きが妙に軽い。


シルバーウルフの横を抜けながら、短剣で地面を叩く。


乾いた音。


一匹の視線が逸れる。


その一瞬を、カイルが逃さない。


銀色の身体が血を撒きながら崩れた。


「《火種よ、灯れ》――フレイム!」


ミルノの魔術が走る。


地面を舐めるように炎が広がり、一匹が低く唸りながら飛び退いた。


熱気がこっちまで届く。


「エルフまでいるのか!?」


襲われていた男の一人が叫ぶ。


ライノも歯を食いしばりながら前へ出た。


「俺だって……!」


手を前へ出す。


空気が震える。


だが次の瞬間、破裂音が響いた。


「ッ……!」


ライノが顔を歪める。指先から血が散った。


暴発。


焦げ臭い匂いが一瞬だけ混ざる。


ミルノが振り返った。


「兄さん!」


「下がってろ!」


ルードの怒声が飛ぶ。


その横を、シルバーウルフが低く駆け抜けた。


カイルが即座に割り込む。


剣が振り下ろされ、白い身体が地面へ叩き付けられた。血が湿った土へ広がる。


シルバーウルフ達の動きが鈍る。


数が減り始めていた。機を見計らい、ラグスが前へ出る。


「押し返すぞ!」


盾がぶつかる。


フェルの矢が飛ぶ。


ミレアは負傷者側へ回り、回復魔術をかけていた。


混戦の中、俺は思わず笑った。


「俺が死んだら、お前ら自由になれるかもしれないぞ!」


一瞬だけ、空気が妙に止まる。


フィンが露骨に嫌そうな顔をした。


「……行く場所ない」


ミルノも困ったように眉を下げる。


「悪いようには、されてませんし……」


ライノは手を押さえたまま苦笑した。


「商人としては、多分かなり変なんだろうけどな」


「褒め言葉として受け取っとく!」


その瞬間、最後の一匹がフェルの矢に射抜かれた。


白い毛並みが地面へ崩れる。


森が静かになった。


荒い呼吸だけが、その場へ残る。


風が吹いた。


血の匂いが、ゆっくり森の奥へ流れていく。


辺境の森は静かだった。


まるで、今の騒ぎなんて最初から無かったみたいに。

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